第171話 保健室の呼吸4
階段を上がりきって、セーフルームの中に入った途端、足から力が抜けそうになった。
「ボスとの戦いは、明日以降にしよう」
葵が言うとセレンは即答した。
「賛成」
茜は答えなかった。答える代わりに拳を握っていた。
「……それにしても、許せないわ。葵のかわいいお顔を傷つけるなんて」
「顔は、狙われてなかったと思うけど」
「狙われてたわよ。あの悪魔、ずっと葵ばかり見てたもの」
葵は少し考えて、やめた。
「僕は、二人が傷つけられなくて、よかった」
安心していた。それだけは、はっきりしていた。
茜が一瞬黙った。セレンと顔を見合わせ、二人とも、それ以上何も言わなかった。
三人で転移石を使った。
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十六時半、保健委員会の部屋は西日の色をしていた。
「いらっしゃい」
カヴィヤはいつも通りに迎えて、いつも通りに葵の顔を見た。見て、一拍止まった。
「葵くん。手を出して」
言われた通りに出した手のひらにカヴィヤの手が重なった。淡い光が手首から肘へゆっくり上っていく。
「傷は、ないのね」
光が消えた。カヴィヤは葵の目を見た。
「でも、体がまだ戦っているわ」
「……そうですか?」
自分では、分からなかった。言われてみれば、部屋に入ってからずっと、廊下の足音を数えていた。窓の外で鳥が飛び立った時、目がそちらへ先に動いていた。畳んだ制服の重さを手のひらがまだ覚えていた。
「肩が、下りていないもの。耳も、忙しそう」
カヴィヤは湯呑みを置く場所を直しながら、当たり前のことのように言った。
「今日は、休むためのヨガにするわね」
木のポーズ、とカヴィヤは言った。片足で立ち、両手を胸の前で合わせ、一点を見つめる。それだけだった。それだけのはずだった。
葵の体が、揺れた。
軸足の裏が床を掴み損ねる。いつもなら立てる。分かっているのに足の裏が細かく震えて、床を信じなかった。
肩に、手が置かれた。
「いいのよ。木も、風の日は揺れるの」
カヴィヤの手のひらは大きくて温かかった。揺れが手のひらに吸われていくようだった。
「今日はここまで。横になりましょう」
仰向けに寝て、目を閉じた。目を閉じた途端、瞼が重くなった。持ち上げられる気がしなかった。
衣擦れの音がした。それから、小さな扉の開く音。何かが卓に置かれる音。音の意味を考える前に、カヴィヤの声が戻ってきて、つま先から順に体を上ってきた。足の指。ふくらはぎ。膝の裏。声の通った場所から床に沈んでいく。
耳が拾っていた音が、ひとつずつ遠のいた。廊下の足音。窓の外の風。最後に、頭の下に何か柔らかいものが差し入れられた気がして、それも遠くなった。
次に気づいた時には、紅茶の香りがしていた。
濃く蒸らした茶葉の、深い香りだった。頬に毛布。そして後頭部に、床ではない柔らかさがあった。
目を開けると、カヴィヤの顔が上にあった。
「よく眠れた?」
カヴィヤは湯気の立つカップを片手に、からかいもせずに言った。膝の上に、葵の頭が乗っていた。
「二十分よ。昼寝は二十分がちょうどいいの。それ以上眠ると、夜に響くから」
「すみません、重くなかったですか」
「軽いわよ。……もう少し食べなさい」
体を起こすと、肩がいつの間にか下りていた。耳は、カップの湯気の音にならない音だけを拾っていた。杖の重さは、もう手のひらのどこにもなかった。
卓の上に、ティーポットと、口の開いたミルクの瓶があった。鍋はコンロに載ったまま、火が入っていなかった。
「あの、どうして、膝を……」
「チャイはね、鍋の前から離れられないの」
カヴィヤはポットからカップに紅茶を注いだ。濃い飴色に、常温に戻したミルクがゆっくり渦を巻いて溶けていく。
「煮出している間、ずっと見ていないと吹きこぼれるのよ。あなた、シャヴァーサナに入る前から、ひどく眠そうだったもの。だから今日は、手の届く紅茶にしたの。お湯は魔法で沸くし、ミルクは置いておけば温くなるし」
膝の理由は、答えてもらえなかった。紅茶の理由だけが、当たり前の段取りとして語られた。
カヴィヤ先輩に膝枕をさせてしまうほど、疲れて見えたのだろうか。申し訳なさが先に立った。それから、思い直した。この人にとって、人を癒すのは、たぶん息をするのと同じことなのだ。
(優しい人だ。)
葵は鞄から紙箱を出した。
「今日の分です」
「今週の、お楽しみね」
箱を開けると、飴色に照る円いものが並んでいた。表面で焦がした砂糖が硬い膜になり、その下から刻んだナッツの粒が角を出している。焦げた砂糖と木の実の、乾いた香ばしい匂いがした。
カヴィヤが一枚を手に取って歯を入れた。
サク、とまず軽く鳴った。その奥でナッツの層が、ザク、と低く鳴った。二段の音だった。
カヴィヤの目が細くなった。
「……甘くて、少し苦いのね」
「キャラメルは、焦がしてあるので」
キャラメルとミルクは同じ根の甘さで、間を紅茶の渋みが繋いだ。ほろ苦さが渋みに噛み合って、カップが進んだ。黒糖の次はキャラメル。コクのある甘さの並びだった。
「あなた、本当によく見ているのね」
「コクのある甘さが、お好きみたいだったので」
「ええ。……当たり」
ニーラが水槽から抜け出して空中をゆっくり泳いできた。青い鰭が西日を透かす。ライラが胸のポケットから顔を出した。
葵がクッキーのかけらを差し出すと、ライラは両手で抱えてかじった。
かり、と小さな音が鳴った。
ライラの動きが止まった。ニーラが、泳ぐのをやめてこちらを見ていた。ライラは口を押さえたまましばらく動かなかった。それから、音を立てないように少しずつ齧った。齧るたびに、かり、かり、と鳴った。ニーラはずっと見ていた。
「葵くん」
カヴィヤがカップを両手で包んで言った。
「今日みたいな日は、来る前に言いなさい。メニューを変えるから」
「はい」
「それから——無茶は、しないでね」
「はい。……気をつけます」
カヴィヤは頷いて、それ以上は聞かなかった。何と戦ったのかも、どこまで危なかったのかも。ただ、葵のカップに紅茶を注ぎ足して、ミルクを回し入れた。
帰り際、残りのクッキーの箱を渡した。
「次は、再来週ね」
カヴィヤが箱を受け取りながら言った。休暇を挟むことは、二人とも分かっていた。
「はい。再来週に」
「葵くん」
戸口で呼び止められた。振り向くと、カヴィヤはカップを片手に、いつもの顔で立っていた。
「無茶は、しないでね」
二度目だった。二度目の方が、少しだけ長く聞こえた。
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帰り道は、もう夕方の色だった。
「クッキー、ざくざくしてた」
ポケットの中でライラが満足そうに言った。
「再来週は何?」
「内緒だよ」
ライラが膨れる気配がした。
(次は、再来週。)




