第170話 雨が止むまで
最初の一矢は、挨拶だった。
弦の音と頬の横を抜ける風が、ほとんど同時に来た。音の方が遅れて届いた。振り向けば、背後の倒木に緑の矢が立ち、周りの木肌が黒く腐り始めていた。
「良い。避けたな」
二矢目からが、本題だった。
弦の音が続けざまに鳴った。葵は跳んだ。泥が足裏を掴む。ライラの声が頭の中で鳴った。
「左」
考える前に体が沈んだ。左肩のあった高さを、緑の光が通り抜けた。返す刀で一本を叩き落とす。剣を伝った衝撃で手首の奥まで痺れた。
三本目は、避けた頬のすぐ横を抜けた。
背後の倒木に突き立ち、木肌が音もなく黒く腐って窪んでいった。掠りもしていないのに、首筋の産毛が立った。
掠っただけで、あれだった。
息が浅くなっていた。遠距離は完全に向こうの間合いだった。矢は減らない。こちらの足だけが泥に喰われていく。
ライラの声がした。
「葵。呼んで」
葵は左手を地面へ向けた。足元から前方へ、泥が固く締まって沈まない道が一本伸びた。道の左右に、土の壁が互い違いにいくつも立ち上がる。それから泥が盛り上がり、岩が岩を呼んで組み上がった。ゴーレムが立った。右手の剣が形を失い、拳銃になった。
走った。
壁から壁へ。指示は出さなかった。ライラの声が、葵の中を通って岩に届いていた。岩の巨体が並走し、矢の来る側へ回り、盾になる位置を選んでいく。壁の陰に入るたび、矢が壁を穿った。一本で表面が抉れ、二本目で壁が半ば崩れた。崩れる前に、次の壁へ。壁の切れ目で撃った。
レラジェは走らなかった。上体だけを最小限に傾け、弾道の外に立っていた。二発目も、三発目も、同じだった。当たらないのではなかった。当たる場所に、彼がいなかった。
矢が返ってきた。ゴーレムの胸に、肩に、続けざまに突き立った。鏃の周りの岩が黒ずんだ。黒ずんだだけで崩れなかった。石は、腐らなかった。
「腐らぬ盾か。考えたな」
その声を聞きながら、葵は最後の壁を蹴って距離を詰め切った。拳銃が剣に戻る。
初撃は弓幹に受けられた。木のはずの弓から鉄を打った音がした。返す弦が鳴り、視界を細い線が薙いだ。仰け反る。首のあった位置を、弦が通った。
至近でレラジェの手が矢筒に走った。引くのではなかった。矢をそのまま逆手に握り、突きが来た。
「弓がひけない距離でも、矢は汝を貫く」
剣の腹で受けた。鏃が刃の上を滑り、肩口を掠めて逸れた。肌には、届かなかった。
葵は下がらなかった。足を送り、剣を寝かせた。
一掻き。
三本の軌道が、一つの意図の中を通った。空気ごと持っていく手応えがあった。レラジェが初めて半歩下がった。緑衣の胸に三筋の裂け目が斜めに走っていた。
「良い。良いぞ。爪も持っているか」
レラジェは笑いながら大きく跳んで距離を開けた。裂けた衣の下に、傷はなかった。
「さて」
弓が上がった。矢が二本同時に番えられていた。
「右と左、どちらを選ぶ」
弦が鳴った。二本の矢が左右に割れた。右は茜へ。左はセレンへ。
葵は選ばなかった。
右手の剣が茜の前の一本を断ち、左の手のひらから放った光が、セレンの前の一本を灼いた。二つの音がほとんど重なって消えた。
「……選ばぬ、か」
弦を下ろしたまま、レラジェは葵を見ていた。目の奥の温度が、変わった。
侯爵とは、位である。戦を興し、軍を導き、矢の一本ごとに戦場を束ねてきた古い位である。その位が、遊びの手を仕舞った。
弦の音が途切れなくなった。
視界が緑の線で編まれていく。剣で払い、伏せ、跳ぶ。ゴーレムが前に出た。岩の胸で矢を受け、受け、受け続け、七本目で胸の岩が砕けた。巨体が光の粒に解けていく。
「ありがとう。戻って」
言い終わる前に、次の矢が来ていた。剣が間に合わない。
矢が、曲がった。
葵の眼前で軌道が捩れ、飛来した矢は別の矢と空中で喰い合って、両方とも落ちた。セレンの周りだけ、沼の霧が円く割れていた。ボーガンを構えたセレンの黒髪が、風のない場所で揺れていた。
「ほう。連れがいたか。……姿を見せぬとは、奥ゆかしい」
そこからの数十秒を、葵は呼吸で数えた。
弦の音。ライラの声のない声。曲がる矢。茜の光の膜が矢を受けるたび、薄く鳴る。セレンの矢とレラジェの矢が空中で相殺され、緑の火花が散る。誰も射られない。誰も届かない。侯爵一人と四つの力が、初めて釣り合っていた。
レラジェが弓を天に向けた。
「では、空を贈ろう」
一本の矢が、まっすぐに昇り、雲の高さで、開いた。
空が、降ってきた。
数百の緑の光が、雨になって落ちてくる。茜の膜が球に閉じ、ドミニオンが聖杖を頭上に掲げ、光の壁が傘に開いた。セレンの風が球の外周を巻き、落ちる矢の軌道を撓ませて逸らす。それでも抜けてくる数本を、葵の光が灼いた。矢の刺さった地面が輪の外で次々と黒い沼に変わっていく。
膜の内側でセレンが短く言った。
「茜。矢に、光を」
茜は問い返さなかった。膜を保ったまま、片手をセレンのボーガンへ向けた。番えられた矢が、白く灯った。茜のこめかみを汗が一筋伝った。
葵は剣を拳銃に変えた。雨の向こうの一点に銃口を合わせて、待った。
(一発でいい。)
雨が、薄くなった。
最後の一矢が膜を叩いて逸れ、緑の光が途切れた。空を贈り終えた弓が、わずかに下がった。
「いま」
ライラの声と、弦の音と、銃声が、ほとんど一つだった。
白い光を纏ったセレンの矢が、雨の名残を裂いて飛んだ。レラジェは弓幹で受けた。白と緑が軋み合い、拮抗した。
その受け点に、葵の光弾が重なった。
音が、割れた。
弓幹が仰け反り、開いた胸に、白い矢が吸い込まれた。
レラジェは胸に立った矢を見下ろした。
「……見事」
傷口から光が漏れ始めた。緑の衣が、裾から光の花弁に解けていく。一枚、また一枚、崩れるのではなく、咲き終えるように散っていく。散り際は、花のように美しかった。
薄い笑みの形だけを残して、顔が光に解けた。
声だけが、残った。
「深層で、また会おう」
倒木の更地に、沼の泡の音が戻ってきた。
葵は膝をついた。剣が杖に戻り、杖ごと泥に手をついた。耳の奥でまだ弦の音が鳴っていた。茜が座り込み、ドミニオンの光が消えた。セレンだけが、まだ立っていた。立ったまま、ボーガンを下ろせずにいた。
彼の立っていた場所に、何かが落ちていた。
鏃だった。黒緑の光を鈍く湛えた、手のひらに収まる大きさの鏃が一つ。近づくだけで分かった。あの矢と同じ気配が、まだその中に残っていた。癒えぬ傷の、力の残りだった。
ライラがポケットから顔を出して、鏃を見下ろした。
「……残ってる。一回ぶん、だけ」
葵は鏃を布越しに拾い上げた。重さのわりに、手が重くなる気がした。
「セレン、これいる?」
「……それ、弓じゃないと、効果を発揮しなさそう」
セレンはボーガンを軽く持ち上げてみせた。
「分かった。僕が持っておくね。いざって時に、使うね」
葵はポーチの奥に鏃を仕舞った。それから、セレンを見た。
「セレン、契約神魔がいたんだ」
「……戦力を隠すのは、基本」
セレンはボーガンの弦を確かめながら言った。
「そういうものなんだ」
葵はそれで納得した。
セレンが弦から手を離し、葵を見た。
「あなた、ルシファーに目を付けられてるの?」
「……前に、会ったことがある。名前を、知られてた」
「どおりで」
セレンは倒れた木の一本に腰を下ろした。
「ボスが、普通より強いと思った」
「普通より?」
「70層で、あの強さはない。聞いたことがない」
セレンは葵を見た。
「あなたのボスは、誰かが、強くしてるのかもしれない」
茜は何も言わなかった。膝を抱えたまま、更地の向こうの次の階層への入り口を見ていた。
帰りの階段は、来たときより長かった。
胸のポケットで、ライラが小さく息をしていた。




