第169話 黒く開く花
階段を降りきった。
だが、誰もいなかった。
毒沼と、骨のような木々。先ほどまでと同じ景色が広がっているだけだった。視線は続いている。なのに、その主がいない。
「何よ、居ないじゃない」
茜が言った。セレンはボーガンを下ろさなかった。
「確かに気配がする」
セレンの目は、次の階層へ続く方角の、霧の奥に向いていた。
進んだ。次の階層への最短経路の足場は踏みしめられていて、歩きやすかった。人の気配はなかった。敵の気配もなかった。79層に降りてから、まだ一体の敵とも遭遇していない。
経路を進んでいくと死体があった。
ドラウグルだった。青黒い体が、泥に半分沈んで倒れていた。眉間に矢が一本、深々と立っている。矢の周りの肉だけが、黒く腐って窪んでいた。
少し先に、ヒュドラが倒れていた。九つの首が、あちこちを向いて泥に伸びている。セレンが数えた。
「九本。首に、一本ずつ」
どの傷も黒く開いていた。首は一本も焼かれていなかった。焼かれていないのに、死んでいた。
誰か腕のいい探索者が、先に倒していったのだろうか。葵はそう思った。それなら気配のなさも、道の空きようも、説明がつく気がした。
次の死体で、その説明は出来なくなった。
倒木の陰に、戦闘服の色が見えた。
「見ちゃダメ!」
茜の手が、葵の目を覆った。振り向いた茜の方が、先にそれを見ていた。手のひらは少し冷たくて、わずかに震えていた。
見えたのは一瞬だった。それでも分かった。
「……さっきの、敵の死体と同じだ」
矢が一本。傷の周りだけが、黒い。それ以外に傷はなく、装備にも焦げも裂け目もなかった。倒れてから、そう時間は経っていない。
セレンが死体の脇にしゃがんだ。触れなかった。矢の角度だけを、目でなぞった。立ち上がって、来た道と、行く先を見比べた。
「……矢の向きが、逆」
「逆?」
「この人達は、奥へ向かってた。矢は、正面から入ってる」
セレンは他の探索者の死体を見た。
「あれも。さっきのヒュドラも。全部、同じ向き。全部、奥から飛んできてる」
次の階層への入り口の方角。視線の続いてくる、霧の奥。
「それは、どういうこと?」
「分からない」
セレンは即答した。分からない、と言うときのセレンの声が、一番硬かった。
「……一度、帰った方がいいかもしれない」
そうだ、と葵も思った。ダンジョンに何かの異常が起きている。探索者が死んでいる。分からないものからは、離れるべきだった。セーフルームまで戻れば、転移石で——
「それはつまらない」
声がした。
低く、落ち着いていて、どこか楽しげだった。霧の奥から、張られた弦のようにまっすぐ届いた。
空気が鳴った。
葵は二人の前に出た。出た瞬間、霧の向こうで緑の光が膨らんだ。
一本の矢だった。矢と呼んでいいのか分からない大きさの、緑と紫の光をまとった一条が、霧を裂いて飛んだ。狙いは三人ではなかった。頭上を越え、背後の森に突き立った。
世界が、横に倒れた。
音より先に風圧が来た。骨のような木々が、根ごと扇状に薙ぎ倒されていく。泥と水と毒の飛沫が壁のように上がり、落ちた。耳鳴りの奥で、倒れ続ける木の音だけが長く続いた。
音が収まると、開けていた。
毒沼の上に、更地ができていた。倒木が円形に押し倒され、霧が晴れ、空の色が見えた。
「舞台は、広い方がいい」
轟音を聞きつけたのだろう。更地の縁のあちこちで、泥が盛り上がった。ドラウグルが身を起こし、沼からヒュドラの首が立ち、空にワイバーンの影が差した。
矢が、一本ずつ射抜いていった。
音は小さかった。弦の音がひとつ鳴るたび、一体が崩れた。眉間。首。翼の付け根。急所だけを、順番に、急がずに。ワイバーンが泥に落ちる音の方が、よほど大きかった。
「騒がしい。……汝らは呼んでいない」
倒木の奥から、緑衣が歩いてきた。
優美な足取りだった。泥の上を歩いているのに、裾が汚れる気配がなかった。手に長弓。背に矢筒。昨日、高台から射ってきたものたちと、同じ姿のはずだった。
だが、同じものには、見えなかった。
視界の端に(レラジェ)と出た。表示は昨日と同じだった。同じ文字が、別の重さで見えた。
胸のポケットで、ライラが硬くなっていた。
「葵。あれ、本物」
「我が名はレラジェ。緑の侯爵と呼ぶ者もいる。以後、見知りおきたまえ」
弓を持ったまま、男は薄く一礼した。所作のどこにも隙がなく、どこにも力みがなかった。
「汝らの道行きは見せてもらった。沼を渡る足取りがいい。骸を見る目も、悪くなかった」
顔が上がった。目が、まっすぐ葵を見た。
「ルシファー様が目をかけておられる人間、というのは汝か。……なるほど、良い目だ。狩られる者の目ではない」
茜が半歩前に出た。聖杖の天使が、光を強くした。セレンはボーガンを構えていた。
「一つ、教えておこう」
レラジェは弓を軽く持ち上げた。矢はまだ、番えられていなかった。
「我が矢に射られた傷は、癒えぬ。薬も術も祈りも、あの腐りを止められぬ。傷は花のように、開き続ける」
焼かれていない首が死んでいた理由が、そこにあった。再生する体より、開き続ける傷の方が早かったのだ。
「ルシファー様の秘蔵の獲物に、癒えぬ花を一輪。……それも一興だとは思わぬか」
弦に、矢が乗った。




