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第168話 瘴気の底の視線

四限のスタディホール。部室の扉を開けると、狼がいた。


狼、と呼んでいいのか、一瞬迷った。


馬ほどの体躯が、部室の床に伏せていた。蒼い毛並みは一色ではなく、毛の流れの奥で空の色が動いていた。金色の目が、騒ぐ男子たちを順に見ている。獣が人を見る目ではなかった。年長の何かが、幼いものたちを眺める目だった。


その傍らで颯が腕を組んで、胸を反らしていた。


「聞け、お前ら! 我がダンジョン部に、新たな契約者が誕生した!」


狼の隣で、リオが小さくなっていた。


「リオの学園契約が、ついに通ったぞ! 蒼き狼、ボルテ・チノ! モンゴルの、始まりの狼だ!」


「「「オオーッ!」」」


マルコとタヴィタが拍手した。ジャックが口笛を吹いた。歓声の中でも、狼は動かなかった。耳さえ動かさなかった。


「どんな感じだった? 召喚のとき」


葵が聞くと、リオは少し考えた。


「……現れて、真っ先に目が合った。ずっと、見られてた。逸らしたら終わりだと思って、逸らさなかった」


リオは狼を見上げた。


「そしたら、頷いた」


「おめでとう、リオ」


「……うん。ありがとう」


「よし! このまま60層だ! 行くぞ!」


拳を上げた颯の前に、エリックが手のひらを出した。


「待て。その前にやることがある」


エリックは狼とリオを順に見た。


「リオは契約したばかりだ。まず、契約神魔との戦い方に慣れておいた方がいい。いきなり60層ではなく、慣らしから入るべきだ。それと」


視線が颯に戻った。


「役割分担も決めた方がいい。四人は感覚で動いていい人数じゃない」


「それはそうだけどよ、勢いも大事だろ」


蒼嵐がにやりと笑った。エリックは取り合わなかった。颯は腕を組んで、しばらく唸った。


「……確かに、そうだな」


顔を上げた。


「エリック、俺たちはどんな役割分担でやってけばいい?」


「颯は前衛だ。風神の風で場を開いて、敵を受ける。リオとボルテ・チノは目と鼻。罠と敵を、戦いになる前に見つける。蒼嵐は中衛。風で搦め手と援護。俺は敵を仕留める」


「おお……バランスがいいじゃないか!」


颯は指を折って数え直した。


「あとは、回復とか支援ができるやつが居るな……」


視線が部室の後ろへ向いた。


「お前ら、どうだ?」


「俺たちは50層まででいいからなあ」


マルコが伸びをした。


「金になる層で十分」


タヴィタが即答した。ジャックが肩をすくめた。


「おい、あいつを誘ってみるか?」


蒼嵐が言った。エリックが眉を寄せた。


「……来るだろうか」


「話聞きたそうにしてたじゃねえかよ。分からないのか」


「そんな感じだっただろうか……」


葵には、二人が誰の話をしているのか分からなかった。


「颯、50層より先に進むなら、僕が装備を用意するよ」


颯が振り向いた。


「天使の羽のお金があるし。会社の経費? とかに、できるかもしれない」


「ありがたい話だがな、葵。俺は、自分の装備は自分で用意したいんだ」


颯は笑っていた。冗談の顔ではなかった。


「でも、それだと颯とリオが危ないかもしれない」


葵は引かなかった。死胎の森の白骨が、頭にあった。


「それなら、お金を貸すっていうのはどうかな。どのみち深い層に潜らないと、お金稼ぎの効率が悪いし」


颯は一度黙った。それから頷いた。


「分かった。そういうことなら、そうさせてもらう。ちゃんとした契約書を作ろう」


「そんなのいいのに」


「いや、これはちゃんとしなくちゃダメだ!」


颯は真顔だった。それから拳を上げた。


「よし、話は決まった! 行くぞ!」


「「「オーッ!」」」


男子たちの声を背に、葵たちは転移室へ向かった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


76層のセーフルームは、昨日と同じ匂いがした。


扉の外に出ると、森が変わっていた。木は昨日より太く、白く、骨のように立っていた。沼は深くなり、泡の弾ける音が低くなった。水面に浮かぶ膜が、油のように七色に濁っている。


セレンが先頭に立った。足の置き場を選びながら、細い足場を渡っていく。葵と茜はその足跡をなぞった。


しばらく進んで、セレンの左手が真上に上がった。止まれ。


次の層への降り口は、開けた窪地の先にあった。その窪地の真ん中で、沼が盛り上がった。


青黒く膨れた体が、泥を滴らせながら立ち上がった。人の形をしていた。人の大きさではなかった。腐って膨らんだ皮膚の下で、何かがまだ動いている。もう一体、隣の泥が同じように起き上がった。


視界の端に(ドラウグル)と出た。


「あれは、どかない」


セレンが小声で言った。


「降り口の上に、いる」


人差し指が窪地の奥の高台へ向いた。木の骨の間に、緑の衣が二つ。弓を持っていた。(レラジェ)。昨日と同じ敵だった。


「壁と、射手」


セレンがボーガンを持ち上げた。


「射手は、私が先にやる。矢が止まったら、下をお願い」


茜が頷いた。葵は杖を握り直した。


セレンが茂みの中へ消えた。数十秒、沼の泡の音だけがした。


高台の緑がひとつ、糸が切れたように落ちた。もう一体が弓を上げて振り向く。その首に二本目が刺さった。


「行こう」


葵は走った。ドラウグルが両腕を広げて迫ってくる。腐敗の臭いが壁のように濃い。葵は間合いの外で足を止め、杖を振った。形が変わった。弓が手の中にあった。炎の矢がつがえられていた。


一射。膨れた胸に突き立ち、内側から燃え上がった。ドラウグルは燃えながらまだ歩いた。二射目で膝が崩れ、泥に沈んだ。


もう一体には茜のドミニオンが出ていた。聖なる杖の一閃。光の波動が走り、青黒い体が白く発光して、動かなくなった。


それで終わった。


「射手さえいなければ、遅いだけ」


戻ってきたセレンが、矢を回収しながら言った。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


77層は水が増えた。足場は島のように点在し、島と島の間は濁った沼だった。


「回ると、沼が深い」


セレンが迂回路と直進路を見比べて言った。


「倒す方が、早い」


直進路の先の島に、ヒュドラが一体いた。九つの首が水面から持ち上がる。昨日と同じ手順だった。茜の天使が正面を受け、セレンが首を射抜き、葵が切り口を焼く。三つ目の首を焼き止めたところで、影が差した。


葵は横に跳んだ。


緑の翼が頭のあった場所を掠め、尾の先の針が足場の岩を打った。岩がじゅっと音を立てて黒ずんだ。


翼あるものが二体、霧の上へ舞い戻っていく。視界の端に(ワイバーン)と出た。


ヒュドラの残った首が、その隙に葵へ伸びた。光の壁が首を弾いた。茜が聖杖ごとドミニオンを葵の側へ寄せていた。


「上は、任せて」


セレンがボーガンを空へ向けた。葵は弓でヒュドラの首を順に射た。焼き止めは剣に戻って踏み込み、一本ずつ潰した。頭上で風が鳴るたび、光の壁が急降下を受け止め、セレンの矢が翼の付け根を狙った。


一体が沼に落ちた。もう一体は高度を上げ、そのまま霧の向こうへ消えた。


最後の首を焼き止めると、ヒュドラは光の粒子になった。


「逃げた方、追う?」


「追わない」


セレンが即答した。


「空は、向こうの間合い」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


78層に降りた瞬間、空気が変わった。


沼の毒とは違うものが、漂っていた。瘴気が霧のように低く這い、島々の間を流れている。その霧が、窪地の中央でゆっくりと集まっていった。


集まって、凝って、人の形になった。


ねじれた手。落ち窪んだ眼窩。口のあるべき場所に、暗い穴。視界の端に(ナムタル)と出た。


その傍らの岩の上に、女神が座っていた。頭の上に、金色の蠍が乗っていた。(セルケト)。


関節が、重くなった。


葵は膝に手をついた。視界の端が滲む。息を吸うと、喉の奥に鈍い痛みが引っかかった。隣で茜が肩を上下させている。


「服が防ぐのは、沼の毒」


セレンの声がかすれていた。


「これは、術。狙って、撃たれてる」


ねじれた手がこちらへ向く。重さが増した。膝が、また少し沈んだ。


茜の手から光の膜が広がった。三人の体を包む。重さが、わずかに軽くなった。息が通る。


葵は剣を構えて走った。ナムタルの胴を横に薙ぐ。手応えは霧を斬るのに似ていた。それでも人型は揺らぎ、輪郭が崩れかけた。


崩れた輪郭が、戻った。


岩の上の女が手をかざしていた。金の蠍が尾を立てている。崩れかけた瘴気が、注がれるように編み直されていく。


「後ろが、治してる」


セレンが言った。葵は足を止めずに向きを変えた。


「後ろから」


短くそれだけ言った。茜のドミニオンが前に出て、ナムタルの正面を光の壁ごと塞ぐ。葵とセレンは左右に分かれて岩へ走った。


セルケトの周りの沼から、蠍が湧いた。手のひらほどの大きさが、数十。足場を黒く埋めていく。セレンのボーガンが女を狙い、矢は見えない壁に弾かれた。


「魔法は、効きにくい」


葵は蠍の群れを跳び越えた。岩の斜面に足をかけ、剣を振り上げる。女が初めて立ち上がった。尾のように伸びた金の光が、剣とぶつかった。二合、三合。四合目で、セレンのナイフが女の背に届いた。


女の体が傾いた。葵の剣が、それを追った。


光の粒子が散った。金の蠍が最後まで尾を立てて、消えた。


振り返ると、ナムタルの輪郭が崩れ始めていた。編み直す手は、もうなかった。茜のドミニオンの聖杖が、崩れる霧を光ごと払った。


関節の重さが、消えた。息が、軽くなった。


(一体ずつなら、弱い。)


葵は剣を収めた。滲んでいた視界の端が、澄んでいった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


短い休憩を取って、79層への降り口に立った。


階段の下から、空気が上がってきた。毒の匂いは同じだった。違うのは、それだけではなかった。


視線は、もう隠れていなかった。


昨日は、誰もいないのに見られている気がした。今日は違う。階段の下の暗がりの奥から、まっすぐに、こちらを見ている。


攻撃は来なかった。物音もしなかった。


ただ、待たれていた。


胸のポケットで、ライラが動いた。


「……いる。下に、何かいる」


セレンがボーガンの矢を確かめた。茜が聖杖の天使を隣に寄せた。


葵は階段の一段目に、足を置いた。

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