第167話 進路
水曜の二限、契約説法の時間。
アーデルが黒板に一行を書いた。
『神魔の格は、人の目を通ると身分になる』
「契約説法、四章の四。契約神魔の社会的扱いだ」
チョークを置いて、アーデルは授業ホールを見渡した。
「本題の前に、数字の話をする。魔法使いは、およそ一万人に一人だ。魔法使いの親からは生まれやすいが、魔法使いは子ができにくい。つまり、ほとんど増えん。人為的に増やす試みは、ことごとく失敗している。中には、ろくでもないやり方もあった。今はアービターが禁じている」
教室が静かになった。
「その魔法使いの中でも、神魔と契約できている者はさらに少ない。触媒は高価だ。神魔を探す場も限られる。就職後に、企業が管理する異界のゲートに、護衛つきで潜って探すか。企業の召喚魔法陣で呼ぶか。どちらも、相性のいい神魔に会えるとは限らん。学園契約の話は前にした。相性のいい神魔を呼んでもらえるというのが、どれだけ例外的なことか、数字を知れば分かるだろう」
葵は胸のポケットに、そっと目を落とした。ライラとの契約に、金はかからなかった。八年前に、向こうから来てくれた。
「前置きは以上だ。本題に入る。その希少な契約者を、社会はどう見るか。教科書の分類は四つ。まず、天使と善き神魔。歓迎される。契約者ごと信頼される」
隣で茜が背筋を伸ばした。
「信頼というのは、気分の話ではない。実利の話だ。調停や商談の場で、天使に証言させることができる。天使は偽らない、と世間は信じている。契約者の言葉に、神魔の格が担保として乗るわけだ。だから真っ当な企業や組織は、天使の契約者をこぞって欲しがる」
茜の背筋が、さらに伸びた気がした。
「次に、中立の神魔。普通に受け入れられる。可もなく不可もなしだ。三つ目、悪寄りだが強力な神魔。表向きは避けられる。だが裏では使われる。需要がある、ということだ。誰がどこで使うかは、各自で想像しろ」
教室の温度が、少し下がった気がした。
「最後。弱くて、悪寄りの神魔。これは忌避される。契約者ごと白い目で見られることが多い」
胸のポケットが、もそりと動いた。
手が挙がった。前の方の席の生徒だった。
「あの……弱くて悪い神魔と契約してしまったら、どうなるんですか」
「有名な話がある」
アーデルは即答した。
「インプという悪魔がいる。悪戯好きで、人をからかい、物を隠し、小さな不幸を呼ぶ。致命的な脅威にはならん。チクチクと嫌がらせをしてくるだけだ。体は脆い。魔力のない人間でも素手で倒せる」
教室のどこかで、小さな笑いが起きた。
「そのインプと契約した女がいた」
笑いが引いた。
「魔法学校を出て、彼女は就職の面接を受けた。何十社もだ。成績は悪くなかったらしい。だが面接で契約神魔の名を告げるたびに、相手の顔が変わった。扉は、静かに閉じていった」
葵はノートの上で手を止めた。
「彼女は考えた。自分の力を、どう役立てればいいか。正面から強さを売り込んでも、勝ち目はない。そこで彼女は、強さの代わりに、インプの持っているものを数えた。小ささ。目立たなさ。悪戯好き。気配のなさ。数えてみれば、たくさんあった」
アーデルは教壇を離れて、窓際へゆっくり歩いた。
「彼女は狙いを一つに絞った。世界でも指折りのメガコーポだ。どこかは言わん。警備は当時の最高峰だった。機械の目は魔力の揺らぎまで捉える。廊下の一本ごとに認証があり、鼠一匹が通れば警報が鳴る。心臓部には魔術的な結界も張られていた。侵入者を検知し、焼き払う類のものだ。低位の悪魔一匹の侵入も、許さないはずのものだった。彼女は一月かけて外から眺めた。そして、穴が一つもないことを確かめた」
誰も物音を立てなかった。
「だが、彼女は通った」
アーデルは足を止めた。
「機械は何も捉えなかった。結界の記録には、何も残っていなかった。どうやったのかは、今も分かっていない。分かっているのは一つだけだ。ある朝、社長室の机の上に、一枚の紙が置かれていたことだ。通った扉の一覧。誰にも気づかれずに、心臓部まで届いた道筋のすべて。その最後の一行に、彼女の名前と、一言だけ書いてあった」
アーデルは一拍おいた。
「雇いませんか、と」
誰かが吹き出した。息を呑んだままの生徒もいた。
「……捕まらなかったんですか」
さっきの生徒が、思わずという声で聞いた。
「言っておくが、褒められたやり方ではない。依頼は受けていない。誰にも頼まれていない。本来なら犯罪だ。だが企業は彼女を訴えなかった。雇った。当時最高峰の警備を破る方法を、世界で一人だけ知っている人間を敵に回すか、味方にするか。答えは決まっている。今、彼女はその企業のセキュリティ部門を率いている。インプを放って、自社の施設の穴を探す仕事だ。ミスチーフ・セキュリティテスト。悪戯検査という」
アーデルは黒板の前に戻り、一行を指の背で叩いた。
「これは人の目だ。この表は、世間がそう見るという事実にすぎん。覚えておけ。神魔の単純な強さは、重要ではない。大切なのは、神魔とどう向き合うかだ。弱いとされる神魔でも、神魔の力と人の力を引き出せば十分に強い。戦いにおいてすら、格は必ずしも勝敗を分けん。そして力の使い道は、戦いだけではない」
頭の中で、ライラの声がした。
「いたずらなら、ピクシーのほうが、じょうず」
(知ってる。)
葵はノートに目を落としたまま、口元だけで少し笑った。
二ヶ月前のことを思い出していた。企業のスカウトが来て、ライラがピクシーだと分かった瞬間、男の態度が変わった。あの顔は、その女性の面接の扉を閉じた何十人と、同じ顔だったのだろう。アーデルの言葉が、あの日の男の目つきへの、静かな返事のように聞こえた。
「さて。なぜこの話をしたか」
アーデルはチョークを取り直した。
「契約神魔の社会的扱いは、お前たちの卒業後に直結する。今日は進路の話をする」
教室がざわついた。
「もう進路ですか。まだ入学したばかりなのに」
生徒の一人が言った。あちこちで頷く頭が見えた。
「早い、と思ったか」
アーデルは表情を変えなかった。
「最初に言った数字を思い出せ。魔法使いは一万人に一人。増やすことはできん。企業が欲しいものは、もうこの世に出揃っていて、その大半がこういう学園の教室に座っている。だから企業は、卒業を待たずに唾をつけに来る。現に、もうスカウトが来ている者もいるだろう」
ざわめきの質が変わった。あちこちで椅子がわざとらしく軋んだ。何人かが、ゆっくりと周りを見回している。見てくれ、という速度だった。
葵は見回さなかった。あの日のスカウトを、いい思い出として数えたことは一度もなかった。
「卒業後の道は、大きく分けてこうだ。まず、企業への就職。メガコーポは狭き門だが、この学園の卒業生なら有利に戦える。次に、企業と専属契約を結ぶ傭兵。正社員ではない。高く買われるが、切られるときは早い。それも込みの値段だ」
アーデルは指を折っていった。
「研究職。各国や企業の研究機関で魔法を研究する。この学園に残る道もあるが、残れるのはほんの一握りだ。アービター。企業間紛争仲裁人や監督官。起業する者もいる。神殿や教会で、神魔と人の間に立つ仕事もある。治癒魔法を使うなら医療の道もある。魔法から離れて、普通の大学へ進む者もいる。物理や数学、文学をやりたければ、その道は閉じていない。それから、教師になる者も、いないことはない」
薄い笑いが起きた。アーデルは取り合わなかった。
「フリーランスの傭兵という稼業もあるが、学園は勧めない。金次第でどこの味方にもなる。依頼を選ぶ自由はあるが、安定はない。憧れる気持ちは分からんでもないがな」
後ろの席で、誰かが小さく呻いた。
「希望の進路があるなら、今のうちに準備しておくことだ。三年は、長いようで短い」
隣で茜が頬杖を外した。
「私の進路は決まってるの」
小さな声だった。それでも、はっきりと聞こえた。
「葵のお嫁さんよ」
「うん、茜がそうしたいなら」
葵は頷いた。
前の席の生徒が振り返りかけて、そのまま固まった。どこかでペンの落ちる音がした。
「……お嫁さんは、進路なの」
セレンが小さく言った。
「進路よ。だから、準備ももう始めてるの」
茜は迷わなかった。アーデルの教えを、この教室で一番正しく実行している生徒かもしれなかった。
葵はノートに『進路』と書いた。
蒼玲先輩には、天龍集団に誘われている。お父さんとお母さんは、喜んでくれるだろうか。それとも、メレク・ルーメンを頑張っていくのだろうか。両方は、たぶん難しい。
(三年生になったら、イレム先輩と蒼玲先輩に相談しよう。)
チャイムが鳴った。ノートを閉じると、胸のポケットが少し動いた。




