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第165話 死胎の森

四限のスタディホールが始まると、三人は転移ゲート室に向かった。南アフリカのクレーターを経て、パンデモニウム・ラビリンスへ。登録済みの転移石で、一気に七十層まで飛ぶ。ここまでは、いつも通りの道のりだった。


七十一層への階段を降りた瞬間、靴が沈んだ。


べちゃりと音がして、足の裏に泥がまとわりつく。引き抜くと糸を引いた。息を吸うと、腐った植物と肉と硫黄を混ぜたような匂いが喉の奥に貼りついた。


紫がかった暗い森だった。ただの枯れた森ではなかった。枯れているのに、動いていた。黒い蔓が枯れ木に絡みついたまま、目を凝らすと分かるほどゆっくりと締め上げる向きに蠢いている。足元の泥水では黄緑色の泡が浮かんでは割れ、割れた泡の縁で水草が音もなく色を失って崩れた。触れたものから枯れていく水だった。霧の奥で何かが長く呻いて、その声に別の何かが応えた。


死んだ森が、呼吸をしていた。


ここは怪物の母の領地だと入る前に調べてきた。神話に名を残す怪物たちを産んだ母の眷属が、この十層を棲み処にしている。森そのものが、巨大な胎のようだった。腐敗は死ではなく、何かを育てる養分の色をしていた。


「うわ、すごい匂い」


茜が顔をしかめた。しかめただけだった。茜の周りだけ空気が澄んでいる。カエリカの襟元が淡く光って、瘴気が服の少し手前で流れを変えていた。六十万クレドは、こういう仕事をするらしい。


「セレンは、大丈夫? 装備」


「大丈夫」


セレンはいつの間にか、口元に灰色のバンダナを巻いていた。それだけだった。それだけなのに、毒の霧はセレンの顔の手前で薄く割れて避けるように流れていく。バンダナの布が、呼吸に合わせて静かに膨らんで沈む。


「……本当に大丈夫そうだね。それ、どこの?」


「内緒」


聞いても、こうだった。葵自身は何ともなかった。匂いは分かるのに喉に届く前に薄れていく。この戦闘服がどう防いでいるのか、考えたことがなかった。蒼玲先輩は、どこまでのものをくれたのだろう。


ライラが胸元から顔を出して、すぐ引っ込めた。


「……嫌な場所」


短くそれだけ言った。ライラがこう言う階層は、大抵ろくなことがない。


セレンが先頭に立った。歩き方が、教室のセレンと違った。足を置く前に半歩先の泥を見て、沈む場所と沈まない場所を選り分けている。三人の中でセレンの足音だけが、ほとんどしなかった。


少し進むと、セレンの左手が真上に上がった。止まれ。


指差した先の泥に、蔓が一本不自然に横たわっていた。両端が茂みの中に消えている。セレンは小石を拾って蔓の先へ放った。泥が爆ぜて黄緑の飛沫が数メートル噴き上がった。飛沫のかかった枯れ枝が、見ている間に溶けた。


「……罠。ここのは、地形が罠」


誰が仕掛けたのでもない。森そのものが、そういう形をしていた。


水辺に出る手前で、セレンの人差し指が前方を指した。敵あり。


葵と茜が茂みに身を低くする。セレンは指を二本、水面へ倒した。葵には最近教わったばかりのサインだった。水の中、という意味だ。言われて初めて、沼の一角だけ泡の立ち方が違うのが分かった。


「七本の首の敵が居る。首、落とすと再生する」


セレンが構えながら囁く声で言った。


「傷口を焼けば、生えない。焼かなくても、ここのは一本につき一回までみたい」


「そうなんだ。じゃあ焼き損ねても、なんとかなるね」


「天使様、お願いします」


茜が両手を組むと、淡い光の柱が立って白銀の天使が降りた。視界の隅に召喚表示が並ぶ。葵は左手を上げた。首を落とすのは天使とセレンに任せて、切り口を焼き止める係に回る。


セレンのボーガンが鳴った。開戦は、こちらが決めた。


沼から七本の首が一斉に持ち上がる。視界の隅に名前が浮かんだ。


(ヒュドラ)


矢が開いた口の中に消えて首が一本のけぞる。天使の聖なる杖が、のけぞった首の付け根を打ち砕いた。落ちた首の切り口が泡立って盛り上がりかける。そこに、葵の火が届いた。


切り口が焼けて、黒く塞がった。生えかけた芽が縮んで止まる。もう一本、もう一本。落とすたびに焼く。茜は後ろで手を組んだまま天使の動きに合わせて小さく指示を出し、時折セレンの足元の泥を光の膜で固めた。手順は途中から言葉がいらなくなった。


最後の首が泥に沈むと、巨体は光の粒子に溶けて、後には濡れた牙と暗い緑色の鱗が数枚残った。


「再生、封じれば普通」


セレンが鱗を拾いながら言った。普通、の基準は人によると思う。葵は言わなかった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


七十二層も、七十三層も、同じ森が続いた。


敵は強くなかった。腐った鎧を着た亡者は動きが遅い。飛竜は毒の尾を振り回すが、軌道が素直でセレンが先に見つけてくれる。天使の光は瘴気の中でもよく通った。戦闘そのものは、いつも通りに終わっていく。


厳しいのは、敵ではなかった。


七十三層の岩陰で、セレンが足を止めた。指差した先の泥から、白いものが覗いていた。頭蓋骨だった。傍らに元が何だったのか分からない装備品が沈んでいる。金属の部分は緑に腐食して穴だらけになり、革の部分は泥と見分けがつかなかった。


「……戦って死んだんじゃ、なさそう」


セレンが静かに言った。骨に折れた痕がなかった。


その先の層でも、時々あった。木の根元にもたれた形の白骨。泥の中の片方だけの籠手。この森は、敵に敗れた者より森そのものに敗れた者の方が多いらしかった。毒の泡が浮かんでは割れる音が急に違って聞こえた。


葵は自分の襟元に触れた。この戦闘服がなかったら、と思う。蒼玲先輩がくれなかったら、僕もあの装備と同じだったかもしれない。茜のカエリカは天使の羽がたまたま高く売れたから買えた。セレンの装備は、セレンが自分で揃えてきたものだ。そして罠は、セレンがいなければ誰かがもう踏んでいた。


運が良かっただけなのかもしれないと思った。この森に沈んでいる人たちと僕たちの違いは、強さじゃないのかもしれなかった。


「葵、止まっちゃだめ」


ライラが胸元で言った。考えごとをすると歩が緩むのをライラはいつも先に気づく。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


七十五層は森が浅くなって、沼の間に固い高台がいくつも突き出していた。


その高台から、矢が来た。


セレンのサインより、ライラの声より、矢の方がわずかに早かった。葵の頬の横を掠めて後ろの枯れ木に突き立つ。木の刺さり口がじゅ、と音を立てて黒ずんだ。


(レラジェ)


視界の隅に名前が三つ並んだ。高台の上に弓を持った人影が三体。緑がかった軍衣のようなものをまとい、次の矢をつがえている。


「散って」


セレンの声で三人が分かれた。矢は追ってきたが軌道は読めた。セレンのボーガンが一体を落とし、天使の光が二体目を高台ごと薙ぎ払った。葵が三体目に光弾を放とうとした、そのときだった。


三体目が、弓を下ろした。


狙いを外したのではなかった。射るのをやめてこちらを見ていた。距離があるのに目が合った気がした。それからゆっくりと弓を持ち上げて——動きが、変わった。


さっきまでの三体と、別の生き物だった。


「葵、危ない!」


ライラの声と同時に、体が動いた。矢はさっきの倍の速さで、いままで立っていた場所を通り抜けた。回避した先を読んだ二の矢が来ると思った瞬間。


来なかった。


高台の上でレラジェは弓を下ろしていた。口の端が動いた気がした。笑ったように見えた。そして、誰も倒していないのに、その体は自分から光の粒子になって、崩れて、消えた。


森が、元の音に戻った。


「……何、今の」


茜が天使の後ろから出てきた。セレンは高台を見上げたまましばらく動かなかった。


「……あの弓、変だった」


「変って?」


「最初の一射で、当てられた。外したというより……測ってた」


セレンにしては珍しく、言葉を探して見つからなかったらしい。測った、とだけもう一度言った。


葵は枯れ木に刺さったままの最初の矢を見た。刺さり口の黒ずみは、じわじわと広がって止まっていた。抜こうと思ったが、やめた。


七十五層の残りは警戒したまま抜けた。矢はもう来なかった。


七十六層の入口のセーフルームに降りると、空気が変わった。毒の匂いが薄れて、三人とも肩の力が抜けるのが分かる。漆黒の基盤の上で転移石の球体が静かに渦を巻いている。触れて登録を済ませた。今日はここまでだった。


帰りの転移の光の中で、葵は来た道を一度だけ振り返った。誰もいなかった。誰もいないのに、まだ見られている気がした。

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