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第164話 星は誰の意志で輝くのか

昼の食堂は、いつも通りに混んでいた。葵は茜とセレンと三人で窓際の席に座った。


「葵、なんか今日、静かね」


茜がスプーンを止めて言った。


「考えごとしてて」


「授業の?」


「うん。契約の話」


「ふうん」


茜はそれ以上聞かずにスープに戻った。セレンは食べながらノートを開いていて、「みこみの、うつし」の文字の下に小さな字で何かを書き足していた。何を書いているのかは、見えなかった。


食べ終わると、葵は二人と別れて一人で北へ歩いた。昼休みの校舎は賑やかで、渡り廊下を抜けるたびに声が遠くなっていく。校舎北側の石造りの礼拝堂は、その一番奥の静けさの中に建っていた。


いらっしゃるだろうか。約束はしていない。でも、あの人はいつもここにいる気がする。


重い扉を押すと、冷たい石の匂いがした。


学園長は、いた。祭壇に近い席で、古い書物を三冊広げて何かを書きつけている。白髪の頭が、ステンドグラスの色を薄く受けていた。


「小春葵か」


顔を上げる前に、学園長は言った。


「問いを持って来たか」


「はい。……あの、その前に、一つ聞いてもいいですか」


葵は近づきながら言った。


「校長先生は、いつもここにいらっしゃいますよね。どうしてなんですか」


学園長は書きつける手を止めて少し笑った。皺の奥の目が、いたずらを思いついた子供のようになった。


「見せてやろう」


学園長は立ち上がって祭壇の脇の小さな扉に歩いた。何の変哲もない、木の扉だった。開けると、掃除道具の並んだ小さな物置が見えた。学園長は一度閉めて、取っ手を逆に三度回し、扉を軽く二度叩いてから開けた。


扉の向こうに、別の部屋があった。


中央棟の窓の光が差す、広い部屋だった。壁は天井まで本棚で、背表紙の文字は半分も読めない。読める字と、見たことのない字が、同じ棚に整然と並んでいる。机の上には金属の輪が何重にも組み合わさった器具が置かれ、誰も触れていないのに一番内側の輪だけがゆっくり回っていた。窓辺には黒い鳥の彫像が二つ外を向いて立っている。ガラスの器、色の違う砂の壜、糸で吊るされた小さな石。何に使うのか一つも分からないのに、全てのものがそこにあるべき場所にあるという顔で収まっていた。


「校長室だ」


葵は扉の枠と、その向こうを何度も見比べた。部屋そのものより、部屋の静けさの質が、礼拝堂と同じだった。


「創設のときに、仕込んでおいた。執務室のもう一つの扉のようなものでな。ここと向こうを、いつでも行き来できる」


「すごい……。あの、回ってるのは何ですか」


「それを説明すると昼休みが終わる」


学園長は扉を閉めた。もう一度普通に開けると、そこはただの物置に戻っていた。


「ここは静かだ。考えごとが進む。研究の思案は、大抵ここでしている」


学園長は席に戻って広げた書物を少し脇に寄せた。それから独り言のように付け足した。


「……それに、私にも、答えの返ってこない問いがあってな」


どういう意味か、葵には分からなかった。聞き返す前に学園長が顔を上げた。


「さて。お前の問いを聞こう」


葵は学園長の向かいの席に座った。ステンドグラスの光が長椅子の背に色を落としている。


「昨日、契約の代償の授業がありました。代償のない契約はない、って。それで、考えたんです」


学園長は黙って聞いていた。


「僕の力は、たぶんライラの力じゃありません。ライラはピクシーだから。じゃあこの力はどこから来たのか。神様からだとしたら、代償のない力はないはずです。だから——」


葵は少し言葉を探した。


「この力の代償こそが、人を助けるということなのでしょうか」


学園長の手が、書物の上で止まった。一瞬だった。それからゆっくりと書物を閉じた。


「……そう考えたのは、お前が最初ではない」


低い声だった。


「力を授かった者は、いつの時代も同じ問いに行き着く。この力は何のためか。使命こそが対価なのではないか、と。だが、小春葵。使命を対価と呼ぶか、贈り物と呼ぶか。それは、お前が決めていい」


「決めて、いいんですか」


「神が決めてくれるのを待っても、返事は来ん」


学園長は少しだけ笑った。葵は頷いて、もう一つの問いを出した。


「僕は、リオを……友達を助けるって決めました。そのためにヴァルハラ・アームズに行くのも、自分で決めたつもりです。でも、志を立てること自体が、神様の働きだとしたら。この意思は、本当に僕のものなんでしょうか」


礼拝堂が静かになった。学園長はすぐには答えずに祭壇の方を一度見た。


「十字教の聖典にはこうある。あなたがたのうちに働いて、志を立てさせ、事を行わせるのは神である、と。サラーム教はこれを定命と呼ぶ。人の行いも意志も、神の定めの内にあると。逆に、意志は人間のものだとする立場もある。二千年争って、決着していない」


「決着、してないんですか」


「しておらん。ある哲学者はこうも言った。人は自分の願いは見える。だが願いの出所は見えない。見えないから、自由だと感じるのだ、と」


葵は膝の上の自分の手を見た。願いは見える。リオを助けたい。出所は、見えない。


「一つ、別の話をしよう」


学園長は立ち上がって祭壇の前へゆっくり歩いた。


「契約神魔として唯一神と契約した者は、どの記録にも、一人もいない。呼ぼうとした者はいた。神魔が世に出るようになってから、何百人も何千人もな。応えは、なかった。高位の神魔ですら対価次第で応じるのに、唯一神だけは、完全に沈黙している」


「それは……いない、ということですか」


「多くの者がそう考えた。だが聖典は、逆のことを言っている」


学園長は祭壇の前で振り返った。ステンドグラスの光を背に白髪が薄く光った。


「神の見えざる本性は、造られたものによって、世の初めから明らかに現れている。そうある。サラーム教の聖典も同じことを言う。天地の創造、昼と夜の巡り、それらは思慮ある者への徴である、と」


声が少しだけ深くなった。


「大地があること。海があること。星々が巡り、朝が来て、お前がそこに座っていること。何もないのではなく、何かがあるということ。その全てが、すでに現れている力なのだ。唯一神は契約に応えぬのではない。応える必要がない。世界の存在そのものが、最初からの返答なのだから」


葵は礼拝堂の高い天井を見上げた。石を組んだだけの天井がいつもより遠くに見えた。


「……じゃあ、僕の意思も、その中にあるんですか」


「あるのだろうな。星が輝くのは神の力の現れだと、聖典を信じる者は言う。だが小春葵——輝いているのは、星だ」


学園長は席に戻ってきた。


「お前の意思が神の内にあるのだとしても、リオ・ハーンを助けたいと願っているのは、お前だ。二千年の論争は、その二つが両立せんとは、一度も言っておらん」


葵はしばらく黙っていた。分からないことは、分からないままだった。意思の出所は見えない。神様の働きなのかもしれない。でも。


「……出所は分からなくても、リオを助けたい気持ちは、いまここにあります。それは分かります」


「それが分かっているなら、十分だ」


学園長は書物を引き寄せて開いた。話は終わりだ、という所作だった。葵は立ち上がって頭を下げた。


「ありがとうございました」


「小春葵」


扉の手前で呼び止められた。


「また、問いを持って来い。答えが出た日ではなく、問いが増えた日にな」


礼拝堂を出るとき、一度だけ振り返った。学園長は古い書物に向かって、もう次の何かを書きつけていた。答えの返ってこない問いの続きをしているのかもしれなかった。

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