第163話 契約の代償
火曜の二限は契約説法だった。フィオナのいない朝は静かで、葵はいつもより早く教室に着いていた。右に茜、左にセレン。定位置は変わらない。
アーデルは教壇に立つと、黒板に一行だけ書いた。
代償のない契約は、ない。
「均衡の原則だ。等価交換の章で一度やった。今日はその各論——格による違いを扱う。教科書の分類を先に済ませて、あとは記録の話をする」
アーデルの声は平坦で、一つひとつの言葉に重みがあった。
「低位の神魔。妖精、小神格。対価は軽い。菓子、酒、名を正しく呼ぶこと。北欧のニッセと契約した農場の記録では、対価は毎晩のバターつき粥が一皿だった。ある冬、バターを載せ忘れた。翌朝、家畜小屋の掛け金が全部外れていた。破られても、その程度で済む。拗ねるのだ」
教室に小さな笑いが起きた。アーデルは笑わなかった。
「中位。対価は物ではなく、行いになる。客を断るな。嘘をつくな。穢れを祓え。契約が、生き方の中に入ってくる。高位。ここまで来ると、対価は人生の形を取る。見るな。食べるな。語るな。破れば、力を失う程度では済まない」
黒板に三つの層が並んだ。アーデルがチョークを置いた。
「ここからは、一つの記録を話す。大戦争の混乱が落ち着いて、神魔の存在が広く知られるようになった頃の、東欧のある港町の話だ」
アーデルは端末に触れなかった。挿絵も資料も出さずに話し始めた。
「男は検死人だった。港に上がる死者の顔を検める仕事を二十年やっていた。だが、流行病の年に、妻を亡くし、看取れなかった。男は死者の顔なら誰よりも見てきたのに、妻の最期の顔だけを見ていなかった」
教室が静かになった。
「男は冥界に縁のある高位の神魔を呼んだ。選ばれたのではない。呼んだのだ。検死人という仕事柄、死者の遺品が手に入る。触媒を何年もかけて集めて儀式を尽くした。神魔は現れて男の願いを聞いた。妻と、もう一度だけ話がしたい。神魔は応じた。条件は一つ」
アーデルは一拍、置いた。
「冥界で見たもの、聞いたものを、生涯誰にも語らないこと」
誰も身動きしなかった。
「男は一夜、冥界で妻と話した。何を話したかは、記録にない。語らなかったのだから当然だ。男は帰ってきて、それから二十年誓いを守った。娘が嫁ぎ、孫が生まれた。酒も断った。墓まで持っていくつもりだったのだろう。晩年、孫娘に聞かれた。おばあちゃんは、どんな人だった、と」
チョークの粉が教壇の上で光っていた。
「男は、冥界で妻から聞いた言葉を一つだけ話した。翌朝、寝床で冷たくなっていた。検死したのは、男の弟子だった。死因は、どこにもなかったそうだ」
長い沈黙のあと、アーデルは黒板の一行を指の背で叩いた。
「彼は誓いを破ったのではない、と私は思っている。守れる誓いでは、なかったのだ。妻の話をせずに死ねる男なら、そもそも冥界へ行っていない」
前の席で、誰かが小さく息を呑んだ。手が一つ上がった。学園契約の生徒だった。
「あの……代償を課さない神魔は、いないんですか」
「いない」
即答だった。
「均衡の原則に例外はない。課されていないように見えるなら、お前がまだ対価に気づいていないだけだ」
生徒が黙って手を下ろした。葵はノートに、対価、と書いた。その二文字を少しの間見て、続きを書かずにいた。
「では、なぜ選ばれた契約者は破滅しないのか。神魔は、守れる者を選ぶからだ。契約の前に、選別がある。旅人をもてなす者の戸を、神は叩く。タブーは試練ではない。相手の中に既にあるものの、写しだ。相性とは運の話ではない。条件が既にお前の中にあるかどうか、の話だ」
アーデルは黒板の三層を、下から上へなぞった。
「だから、こう言い換えられる。課された条件を見れば、その神魔がお前の何を見込んだかが分かる。契約を読むことは、自分を読むことだ」
葵は隣の茜に小声で聞いた。
「茜は、毎日お祈りとかしてる?」
「神様に? していないわ」
茜は当たり前のように答えた。
「何かしてって言われたことも、ないし」
「初詣とかお祭りとか、行っても大丈夫なのかな。天使と契約してるのに」
「多分大丈夫じゃない?」
茜はあっさり言った。心配している様子は、どこにもなかった。茜の契約神魔は、高位の天使のはずだった。葵は少し不思議に思ったが、アーデルが続きを話し始めたので、そこで止めた。
「最後に、一つだけ言い添えておく」
アーデルは指を組んだ。
「守れる誓いは、既に自分の中にあるものの写しだと言った。ならば当然、次の問いが立つ。その、自分の中にあるものは——どこから来たのか」
教室は静かなままだった。問いの形が、まだ掴めていない顔が並んでいた。アーデルは組んだ指をほどいた。
「……いや。ここから先は、この授業の範囲外だ。試験にも出ない。忘れていい」
忘れていい、と言うときのアーデルの声は、忘れさせる気のない声だった。
授業の終わりのチャイムが鳴った。アーデルは黒板を消して、次回は契約神魔の社会的扱いを扱う、とだけ言って出ていった。
セレンのノートには「みこみの、うつし」と書かれていた。茜はノートを開いていなかった。頬杖をついたまま、まだ葵を見ていた。
教室のざわめきが戻ってくる。葵は胸元にテレパシーで聞いた。
(ライラ。僕たちの契約の対価って、何だったの?)
一拍、間があった。
「……お菓子」
(お菓子?)
「契約のとき、もらった。金平糖」
(そうだったんだ。全然覚えてない)
「八歳だったから」
(そんなのでいいんだ。よかった)
ライラは胸元のポケットの中で、丸くなった。いつもより小さく、丸くなった。
葵は次の授業の教科書を出しかけて手を止めた。
対価は、金平糖。契約の線は、それで閉じた。でも、と思う。万能の力は、ない。全ての力には対価がある。それが今日の授業だった。
ライラはピクシーだ。誰に聞いても、強い神魔だとは思われない種族だ。
なら、僕のこの力は、ライラの力ではない。
じゃあ、どこから来ている。やっぱり、神様なのだろうか。神様だとしたら、対価のない力はないと先生は言った。僕は、何を払っているんだろう。
それから、もう一つ。自分の中にあるものは、どこから来たのか。先生は途中でやめてしまった。
僕はリオを助けると決めた。原因を探しにヴァルハラ・アームズへ行くと決めた。僕が決めた、と思っている。
この意思は、本当に僕のものなのだろうか。
チャイムの余韻が消えて、教科書を開く音が教室のあちこちで鳴った。葵は問いを胸の中に置いたままにした。冷たい問いだった。前にもこういう問いを持ったことがある。あのときは、礼拝堂の帰り道だった。
また問いを持って来い、と学園長は言った。
昼休みに、行ってみよう。葵はそう決めた。決めた、と思った。
冷たい問いを抱えたまま席を立つと、胸元のポケットは、いつも通りに温かかった。




