第162話 禁じられた輝き5
夕食は簡単に済ませた。手のひらにはまだ木剣の熱が残っている気がした。
お風呂上がりのアーデルがリビングに来た。髪の先がまだ少し湿っていて、いつもより若く見える。葵は蜂蜜を入れたホットミルクを二つ作った。カップから細い湯気が立ち、蜂蜜の匂いが甘く漂う。アーデルはカップを受け取ると、両手で包んで何も言わずにソファに座った。
いつものように隣に並んで、テレビをつけた。
先生と子犬の第三話が始まった。
朝の路地で、ソユンが箒を持っていた。隣のパン屋の老人が煙草を吸いながら店じまいを告げる。仕方ないさ、時代が変わったんだと老人は笑った。諦めた笑い方だった。
「……それ、本当に仕方ないんですか」
ソユンの声は静かだった。最後の日、私もここに来ます、客として。老人が本当の顔で笑った。
「強いですね」
葵が言った。アーデルは画面を見たまま小さく頷いた。
場面が変わって、管理局の最上階。局長のドユンが部下に促されてシステムを使う。自分の名前を入力して検索ボタンを押す。光の粒子が集まって結果が表示された。
オ・ソユン——98.9%。
「すごい」
ライラが葵の膝の上で言った。
「ミニョクは0.1%だったのに」
「……創った者が0.1%で、運用する者が98.9%、か」
アーデルがカップを口に運びながら独り言のように言った。皮肉とも感想ともつかない、静かな声だった。葵は画面の金色の光を見ていた。ドユンは写真を表示せずに画面を閉じた。業務は終わりだ、と言った。
昼の記憶の栞で、ソユンがミニョクにコーヒーを淹れていた。今日、役所の人が来る。立ち退きの話。一人だと心細いから来てくれたらありがたいな、とソユンが言った。
ミニョクの手が棚の本の上で止まった。
「……今日は」
「うん」
「……難しそうです」
葵は少し身を乗り出した。
「どうして断ったんでしょう。一緒にいてほしいのに」
アーデルはすぐには答えなかった。カップを両手で包んで、画面を見たまま答えた。
「……理由が、あるのだろう」
画面の中で、ミニョクは管理局の誰もいないフロアに一人でいた。再開発計画の画面を開き、三年間続けてきた操作を今夜もしていた。優先度を下げる。立ち退きを遅らせる。独白が静かに流れた。
「僕が作ったシステムが、彼女の店を奪おうとしている」
「僕は、システムを裏切ることでしか、彼女を守れない」
「そういうこと」
ライラが短く言った。葵は黙って頷いた。守るために、隣にいられない日がある。画面のソユンはそれを知らないまま、そう、とだけ言ってそれ以上聞かなかった。
ミルクを一口飲んだ。蜂蜜が底に沈んでいて、最初の一口より甘い。
夕方の路地にスーツの男が立っていた。店に戻ってきたソユンと向かい合う。パク・ドユンと申します、AI管理局の局長です。ソユンは封筒を受け取ってから言った。
「中で、お話、できますか」
店の中でソユンがインスタントのコーヒーを淹れた。ドユンはスーツのまま、姿勢を崩さずに座っている。古い木の床、本棚、夕方の光。ソユンは書類を確認して静かに言った。
「私、立ち退きません」
「補償金が問題ですか。それなら、相談に応じます」
「お金じゃありません」
「では」
「自分で選びたいので」
ドユンが何かを言いかけてやめた。ソユンは続けた。
「機械が決めたから出ていけって、私には言えません」
「……機械が決めたのではありません。再開発計画です」
「再開発計画も、AIが優先度を決めたものでしょう」
ドユンが黙った。画面の中の沈黙がリビングまで届いた。
葵はカップを持ったまま画面を見ていた。行政では決まっている。法では覆せない。それを全部分かった上で、なお自分で選ぶと言う。強がりとは違う何かに見えた。決まっていることと、選ぶことは、別の話なのかもしれない。
帰り際、ドアの前でドユンが振り返る。
「オ・ソユンさん」
「はい」
「いいお店です」
それだけ言って、出ていった。
隣で、アーデルのカップがことりと鳴った。テーブルに置いた音にしては少し早かった。
夕方の路地を革靴の音が歩いていく。独白が流れ始めた。
「なぜ、あんなことを言った」
「落ち着け、パク・ドユン」
「好意ではない。業務だ」
「意識するな」
アーデルは動かなかった。画面の中のドユンは、まっすぐ歩き続けている。頭上をホログラム広告が流れていく。あなたの運命の人、教えます。ドユンは見上げなかった。
夜の執務室で、ドユンはもう一度システムの結果を呼び出した。写真表示のボタンの上で、指が止まる。
「確認だ。同姓同名なら、それで終わる話だ」
押した。
夕方の、店の前の顔だった。
ドユンは長い間、その顔を見ていた。アーデルも長い間、そのドユンを見ていた。膝の上のカップがいつから飲まれていないのか、葵には分からなかった。
「偶然だ。意識するな」
独白がそう言って、ナレーションが続けた。何回目の言い聞かせか、ドユンは数えていなかった。
テレビの光が、アーデルの横顔を青くしたり白くしたりした。息をしているのか分からないくらい静かな横顔だった。
深夜の管理局で、ミニョクが一人で画面に向かっていた。優先度をまた一つ下げる。ログを消す。完全には消えない。それでも、押した。引き出しの中の古い絵本を一瞬だけ見て閉じた。
エンディングの音楽が流れて、第三話が終わった。
葵はカップの底に残った蜂蜜を回して飲み干した。面白かったと素直に思った。ライラが膝の上で伸びをする。アーデルはリモコンに手を伸ばしかけて、音量を一つ下げただけだった。まだ立ち上がらない。
「意識するなって思うほど、意識しちゃうものなんですかね」
葵が言った。アーデルの手がリモコンの上で止まった。
「実は今日、ちょうど同じことがあったんですよ」
「……何」
返事まで、一拍あった。声がわずかに硬い。葵は気づかずに続けた。
「剣術部で、剣に意図を込めようとすればするほど剣が濁って。込めようとするのをやめたら、急にできるようになって。ドユンと同じだなって——あ」
葵は途中で止まった。
「ごめんなさい。武の道のことは、言ったらダメなんでした。白羽先輩に、言えば探すものが変わるって教わったのに」
葵はしゅんと俯いた。アーデルは葵を見て、カップをテーブルに置いた。置く音がさっきまでより落ち着いていた。
「ドイツの剣術にも、同じものがある。インデス——考えるより先に、応じる。とうに知っている概念を聞いても、探すものは変わらない」
「同じものが、あるんですか」
「呼び名が違うだけだ。……神刃の教えは、正しいがな。」
アーデルは立ち上がった。いつもの調子に戻っていた。
「剣の話は、また今度聞く。今日はもう休め」
「おやすみなさい、先生」
アーデルが廊下に消えると、ライラが膝から肩に移ってきた。
「葵」
「なに?」
「……なんでもない」
ライラは丸くなった。葵はカップを二つ重ねて明かりを落とした。




