第161話 虎の一掻き
タイトルなどを見直してみました。
ストーリーの流れなどは、
変わらないのでご安心ください。
放課後、南棟の奥の道場は素振りの音で満ちていた。床が低く鳴り、汗の匂いが薄く漂っている。
「葵。虎爪の続きだ。今日は速さを上げる」
白羽は葵を見つけると、それだけ言った。
「はい」
道場の隅で木剣を構えた。虎爪の三つの軌道はもう何百回もなぞった。ゆっくりなら正確に描ける。言われた通りに速度を上げた。
一閃、二閃、三閃。
軌道は合っている。速さも出ている。それなのに、何かが抜けていた。
もう一度振った。同じだった。もう一度。同じだった。
「見ていろ」
白羽が横に立って木剣を構えた。次の瞬間、空気が三度、続けて裂けた。目で追えたのは軌道の残りだけだった。白羽の虎爪は空気ごと持っていく。葵のそれは、空気の上を滑っていく。同じ三本の線のはずなのに、別の技だった。
「速さは足りている。形もいい」
「何が違うんですか」
「口で渡せるものなら、とうに渡している。技は、盗むものだ」
白羽はそれだけ言って離れていった。突き放したのではない、という気がした。渡せないものがある、という間の取り方だった。
葵は振り続けた。速くすれば、正確さが逃げる。正確さを取り戻せば、さっきより遅い。両方を追うと、両方とも半端になった。手の皮が熱を持ち、木剣が重くなっていく。
部員が一人、また一人と帰っていく。素振りの音が減り、窓の外の色が変わり、道場の床の鳴りが遠くなる。日曜には発つ。それまでに、この剣を少しでも形にして持っていきたかった。
振った。滑った。振った。滑った。
汗が顎から落ちて床に小さな点を作った。点は増えていくのに、剣は変わらなかった。
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気づけば道場に残っているのは、葵と帳面をつけている白羽だけになっていた。素振りの音が消えると、自分の呼吸の音が急に大きく聞こえた。
葵は木剣を下ろして汗を拭った。
速さでも、正確さでもないなら、何なのか。ふと午前の講義が浮かんだ。魔法とは、魂のエネルギーを意図とイメージによって現象化する技術。武器に魔力を通すことは、もうやっている。だが定義には魔力の前に意図とあった。
剣に、意図を込めてみればいいのだろうか。
構え直して意図を込めようとした。込めよう、込めよう。強く思いながら振った。
一閃、二閃、三閃。
さっきより悪かった。剣が濁った、という感じがした。込めようとするほど腕に余計な力が入って、軌道が曖昧になる。もう一度やって、さらに悪くなった。
葵は木剣を下ろした。息を整えながら、この感じをどこかで知っていると思った。
シャヴァーサナだった。ヨガの最後の、床に寝て力を抜くポーズだ。力を抜こうと意識するとかえって体が固くなる。カヴィヤは言っていた。休むこともポーズ。休もうとするのではなく、ただ休む。葵はまだ、あれがうまくできない。できそうになるのは決まって、できようとするのを忘れた時だ。
同じ形だ。
意図は、込めるものではないのかもしれない。
では、どこにあるのか。葵はダンジョンの剣を思い出した。茜とセレンと潜った層で振った剣。ライラの声に体が動いた剣。あのとき意図を込めようなんて考えたことは一度もなかった。守る。帰る。それだけが先にあって、剣はその後からついてきた。
今までの戦技にも、少なからず意図があったんだ。
素振りになかっただけだった。誰もいない道場で、誰も守らず何も倒さず、ただ振っていた。空気の上を滑るはずだった。
葵は目を閉じて道場の床にダンジョンを置いた。正面に護符を狙ってくる複製体。背中に二人。それを振る前に済ませて構えた。あとは、考えない。
一閃。
音が変わった。空気が短く裂けて、手のひらに違う抵抗が返ってきた。
だが、二閃目で消えた。三閃目は元の、滑る剣に戻っていた。一撃ごとに意図を置き直そうとして、継ぎ目で切れるのが自分でも分かった。置き直す、という考えがもう言葉で、言葉になった瞬間に剣から抜けていく。
三回、置くのではない。
葵は白羽の虎爪を思い出した。空気が三度続けて裂けた、あの音。あれは三つの斬撃ではなかった。虎の一掻きだ。爪が三本あるだけで振りは一つ。傷も一つ。
一つの意図を、三本の軌道に通す。
構えた。正面に敵を置き、背中に二人を置き、それを済ませて手放した。
一閃、二閃、三閃。
振ったのは葵だった。だが道場に現れたのは、三本の軌道ではなかった。
一掻きだった。虎が獲物を裂くとき、爪の数を数えぬように、三条の線は初めから一つの傷として空を裂いた。かつて誰かが虎を見て、その一掻きを人の腕に写し取った。その古い写しが、いま葵の腕の中で元の姿を思い出した。裂かれた空気の音は、最後まで途切れなかった。
振り終わった姿勢のまま、葵はしばらく動けなかった。手のひらに残った抵抗の濃さだけが、今のは自分が振ったのだと教えていた。
「……もう気付いたのか」
振り向くと白羽が帳面を閉じて立っていた。目が少し見開かれている。
「もっとかかると思っていた」
「白羽先輩は、知ってたんですか。これを」
「知っていた」
「どうして教えてくれなかったんですか」
責める響きにならないように聞いたつもりだった。白羽は少し考えてから答えた。
「言えば、探すものが変わる。言葉で教われば、お前は言葉の中を探した。それは、そこにはない」
白羽は葵の木剣を見た。
「気剣体の一致。剣の道では、そう呼ぶ。呼び名は流派の数だけある。中身は一つだ」
「魔法陣の文字と、同じですね。文字は違っても、火は同じでした」
白羽が瞬きをした。それから口の端がわずかに動いた。
「魔法の得意な奴ほど、ここへは遠回りする。お前は早かった」
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その後に続けて振った三回のうち、音が最後まで途切れたのは一回だけだった。
「一度できただけでは、技ではない」
白羽が帳面を脇に抱えて言った。
「百回振って百回通るようになって、初めて虎爪だ。それまでは、まぐれだ」
「はい」
「だが」
白羽は道場の出口へ歩きながら振り向かずに続けた。
「入口に立つまでが、一番長い。お前はもう、立っている」
戸締まりを任されて葵は一人で道場の床を拭いた。手のひらの熱がまだ残っている。百回のうちの一回。日曜まで、あと六日。全部は無理でも、回数は増やせる。
雑巾を絞りながらふと思った。意図を込めた魔法と、意図を手放す剣。正反対のことを、同じ体でやっている。リースなら、これも面白がるのだろうか。
道場の明かりを消すと窓の外はもう夜だった。今夜も、アーデルとドラマの約束がある。葵は木剣を壁に戻して道場を出た。




