第160話 意図が現象になるとき
夜、ベッドの中で葵はフィオナの腕に抱き込まれていた。
いつもなら寝息が聞こえてくる時間なのに、今夜のフィオナは静かだった。葵の後頭部に向かって、時々小さく息を吐いている。
「フィオナさん、眠れないの?」
「……起きたら、また訓練の日々です」
腕に少しだけ力がこもった。
「今日は楽しかったです。パンチングマシンで一番になって、写真も撮って、ぬいぐるみも取りました。それなのに、目を閉じて開けたら、もうヒルドさんの号令なのです」
「頑張ってるんだね」
「頑張っています。頑張っていますが、憂鬱なものは憂鬱なのです……」
正直だった。葵は少し笑って、それから今日のうちに話しておこうと思っていたことを切り出した。
「フィオナさん、お願いがあって」
「なんでしょう」
「来週の日曜日から、ヴァルハラ・アームズのボランティアに行くんだ。前に話した、あれ。それで、フィオナさんに一緒に来てほしくて」
フィオナが天井から葵に目を移した。
「契約神魔がいることを見せる場面があると思うから。でも、訓練もあるだろうし、最初だけ出てもらうのでもいいけど」
「とんでもありません!」
腕がほどけて、フィオナが跳ね起きた。ベッドが揺れて間で寝ていたライラが転がった。
「おともいたします! 最初から最後までです! 葵殿の初陣に、私が出ないわけがありません!」
「初陣っていうか、ボランティアだけど」
「同じことです!」
さっきまでの憂鬱は、どこにも残っていなかった。フィオナは布団の上に正座して拳を握った。
「そうと決まれば、今週の訓練に身が入ります。来週までに、もっともっと強くなって帰ってきます! おやすみなさい!」
言い終わると同時に横になり、葵を抱き込み直して十秒で寝息を立て始めた。
「……切り替え、早い」
ライラが定位置の窪みに戻りながら言った。憂鬱の治し方としては、たぶん世界で一番早い。葵も目を閉じた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
月曜の朝は、いつもより多めに作った。ベーコンも卵もパンも、フィオナの分だけ倍にした。フィオナはおかわりを二回して、最後の一口をいつまでも噛んでいた。
「フィオナ、時間」
ライラが言った。フィオナは頷いて、席を立った。
淡い光が部屋に満ちて収まったとき、フィオナは白い鎧に戻っていた。ジャージと寝癖の一週間が、鎧の下にしまわれた。
「葵殿」
フィオナは背筋を伸ばして両腕を広げた。
「いってらっしゃいの、ハグを」
「いってらっしゃいって言うのは、僕の方だと思うけど」
「細かいことはいいのです」
葵が近づくと、鎧ごと抱きしめられた。胸当ての金属が頬に当たって冷たい。腕の力は、昨夜と同じだった。
「次は土曜日です。葵殿の初陣です」
「ボランティアだけどね」
「もっともっと強くなって、戻ってまいります」
体を離すと、フィオナは笑っていた。目の縁だけが少し赤かったが、口元は最後まで笑顔のままだった。
「行ってまいります、葵殿!」
淡い光に包まれてフィオナは天井を抜けていった。
テーブルの上には空の皿が残っていた。葵はそれを重ねて流しに運んだ。次に会うのは土曜日で、その次の日は一緒にボランティアへ発つ。寂しさより先に、そっちが待っていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
二限の魔法工学。定位置に座ると、右に茜、左にセレンが並ぶ。ミラが今日も一番前の席に座っていた。目が合うと、小さく会釈をくれた。葵も返した。
リースが教壇に立ち、空中へ魔法陣を一つ浮かべた。外枠と属性紋の内側に角ばった文字が刻まれている。縦と斜めの直線ばかりで、曲線が一つもない。
「北欧のルーンだ。木や石に刃物で刻むために生まれた文字だから、線がまっすぐで硬い。曲線は刻みにくいからな」
指を振ると、陣から火が立った。
隣にもう一つ。今度は葵にも読めた。火、という漢字だった。
「漢字。これは炎の形をそのまま写した象形文字だ。文字そのものが、燃える火の絵から来ている。意味を形で描く系統だな」
同じ火が立った。同じ高さで、同じ色だった。
三つ目は、右から左へ流れるつながった曲線の文字だった。
「アラビア文字。神の言葉を美しく書き写す書道の伝統があって、文字自体が芸術として磨かれてきた。線は流れるが、火はこの通り、同じだ」
三つ目の火が立った。
四つ目は、見慣れた形だった。アルファベットが数文字並んでいる。
「ラテン文字。これは意味ではなく音を綴る文字だ。火を意味する古い言葉の音を、そのまま文字に置いている。形にも意味にも火の要素はない。ただの音の記録だ」
四つ目の火が他の三つと寸分違わず立った。
「見ての通りだ。刻む線、意味の絵、流れる書、ただの音。成り立ちも形も何もかも違う四つの文字で、同じ火が出る」
「......ここで1つ、問いが生まれる。」
四つの火が同時に消えた。
「なぜ、どの言語で書かれても発動する。なぜ、発動者が何の魔法陣か分からなくても発動する。市販の刻印を使う連中の大半は、刻まれた文字を読めもしない。それでも動く。なぜだ。分かるか」
ホールが静かになった。手が一つ、まっすぐに上がった。ミラだった。
「契約説法では、魔法とは一つの根源的実在の現れであるという説を習いました」
「ほう。続けろ」
「あらゆる存在も、力も、現象も、根源的実在の現れです。根源的実在は、全ての意思を知っています。だから、どの言語で、誰が書いても、問題なく発動するのではないでしょうか」
「筋は通っている。実際、多くの宗派がそう説く」
リースは頷いた。それから教壇に手をついた。
「だがな、ノヴァーク。その説が真だとしよう。それで、お前は何か分かったか」
ミラの手が下りた。しばらく黙って、それから小さな声で答えた。
「……分かった気に、なるだけかもしれません」
「そうだ。根源が全てを知っているから動く。説明したようで、何も説明していない。なぜそういう法則があるのか、どういう仕組みで意図が現象になるのか、問いはそっくり残る。神で説明を終わらせるのは簡単だ。分からないことを神に預ければ、今日から悩まなくて済む」
リースは空中に文字を書いた。
「工学はこう定義する。魔法とは、魂のエネルギーを、意図とイメージによって、回路の演算を通して現象化する技術だ。象徴文字は意図を固定する記号にすぎん。ルーンだろうが漢字だろうが、書く者の中で意味が正確なら、演算は通る。刻印が読めない者でも使えるのは、刻んだ時点で意図が回路に載っているからだ。使う者の教養は関係ない」
セレンが几帳面にノートを取っていた。定義の下に少し間を置いてから「いみのいれもの」と書き足している。茜はノートを開いていなかった。頬杖をついて、葵を見ていた。
「言っておくが、工学も万能ではない。なぜ意図が現象になるのか、その最深部はまだ解けていない。ノヴァークの説を否定する証拠も、私は持っていない」
リースは四つの陣をもう一度浮かべた。
「神魔は実在する。だから神で説明を終わらせるのは、いつでもできる。私はその先が知りたい。なぜこの世界には、そういう法則があるのか。それを考えるのが、この教科だ」
なぜ、あるのか。その問いは、いつかの帰り道の「神とは何なのか」の隣に、静かに並んだ。
演習プリントが配られた。四つの文化圏の火の文字を見比べて、共通点を書き出す課題だった。セレンは全部書けていた。葵が「どうして」と聞くと、セレンは前を向いたまま答えた。
「死ぬ気で、覚えた」
「前も聞いた気がする」
「前も、死ぬ気だった」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
授業が終わり、ホールから出ると、茜が葵の手を取った。指が一本ずつ、間に入ってくる。
「お昼に行きましょ」
「うん」
その時、セレンが茜のもう片方の手を取った。同じように指を一本ずつ絡めている。
「……何?」
「友達なら、こうするんじゃないの?」
茜が口を開いて、閉じた。何か言おうとして、言葉が見つからなかったらしい。セレンは前を向いたまま涼しい顔をしていた。
「行かないの?」
「……行くわよ」
三人は手を繋いだまま、食堂への渡り廊下を歩いた。窓の外の光が床に長く伸びて、繋いだ手の影が三人分、一つながりになって動いていた。
頭の中でライラの声がした。
「葵、まだ授業のこと考えてる」
(分かる?)
「顔が難しい」
(人造神魔を作るのは、神様を冒涜する行いだって言われてる。もし本当に作れているなら、だけど)
「うん」
(リース先生の言う、意図が現象になる法則。あの会社は、その法則の先を見つけたのかもしれない。神様を作れるところまで)
ライラはしばらく黙っていた。胸元の重みだけが、いつも通りそこにあった。
本当に、人間は神魔を作れるようになってしまったのだろうか。
日曜日に、その答えの入口に立つ。問いは一度そこまでにして、葵は焼きたてのパンの匂いがする食堂へ入った。




