第158話 庶民体験
日曜の朝、葵はフィオナの腕の中で目を覚ました。
「おかしいな……いっぱい食べてるはずなのに、何故かお腹空いて……」
一晩中、夢の中で食べていたのだろうか。腕の拘束を外して抜け出すと、枕の窪みでライラがまだ丸くなっていた。葵は音を立てずに部屋を出た。
台所でベーコンを焼く。厚めに切った脂身が透きとおり、縁が波打って反り返る。フライパンの端に卵を落とすと、白身が音を立てて広がった。鍋では昨夜のラムチョップの骨でとったスープが湯気を上げている。
「いい匂いがします!」
フィオナが飛び起きてきた。髪に寝癖をつけて椅子に座る。少し遅れてアーデルが本を片手に現れ、いつもの席についた。
「おはようございます、アーデル先生」
「ああ」
三人分の皿を並べた。フィオナはスープを一口飲むと、目を閉じて長く息を吐いた。
「骨の味がします。昨日のラムチョップが、今日も働いているのですね」
「出汁だからね」
「命は無駄にならないのです。うむ、深い」
葵には深いのかどうか、分からなかった。フィオナはパンをスープに浸し、ベーコンを挟み、おかわりを二回した。フィオナの休みは週に二日と決まっている。丸一日ここにいられる日の食べっぷりは朝から全開だった。
「今日は何をしましょうか。私はまだ、この島の全てを見ていません」
チャイムが鳴った。
フィオナの背筋が一直線に伸びた。スプーンが皿に落ちて高い音を立てた。
「ひぃ! ヒルドさんです!」
「まだ分からないよ」
「分かります! この呼び鈴には、規律の音があります!」
言い終わる前に立ち上がり、フィオナは葵の部屋へ駆け込んだ。扉の閉まる音が続いた。ライラがその扉の前まで飛んでいき、振り返って肩をすくめる。
「呼び鈴で逃げる神魔も珍しいな」
アーデルが本を閉じた。
葵は玄関へ向かった。前にチャイムが鳴ったとき、扉の向こうにはヒルドが立っていた。もしまたそうなら、フィオナは連れ戻されてしまうかもしれない。休みの日だと言っても聞いてもらえない気がする。
扉を開けた。
立っていたのは、ヒルドではなかった。プラチナブロンドを肩に流し、白いコートを着た小柄な人影が腕を組んで葵をまっすぐに見ていた。
「エリサ先輩?」
「そうよ。おはよう、葵」
エリサベットは腕を組んだまま顎を少し上げた。頬が赤い。寒さのせいではない色だった。
「聞いたわよ。昨日、お姉さまと遊んだそうじゃない」
「はい。ゲームをしました」
「お姉さまったら、昨日の夜、それはもう楽しそうに話すのよ。レースで二位だったとか、罰ゲームがどうとか、新しい友人がどうとか」
「はあ」
「私は聞いていることしかできなかったわ。庶民の遊びを、私は何も知らないんだもの」
エリサベットの目に力がこもった。
「だから決めたの。私が庶民を知れば、私がお姉さまに庶民を教えてあげられるんだから。葵、庶民を教えなさい!」
教わりに来た人の言い方ではなかった。けれど、エリサベットはいつもこうだった気がする。
廊下の奥で、扉が細く開く音がした。振り返ると、隙間から目が二つ覗いている。ヒルドの声ではないと分かったのだろう。扉が勢いよく開いて、フィオナが出てきた。ジャージのまま、寝癖をつけたまま、背筋だけは槍のように伸ばしている。
「むむむ……」
フィオナは玄関まで歩いてくると、エリサベットの正面に立った。
「私は葵殿の契約神魔、ヴァルキリーのフィオナ・オコナーです! あなたは、どなたですか!」
名乗りだけは堂々としていた。エリサベットが瞬きをして、それからジャージと寝癖を順番に見た。
「フィオナさん、この人はエリサベット先輩。生徒会の書記で、蒼玲先輩の婚約者なんだ」
「なんと……そうでしたか」
フィオナの眉が上がった。
「それでは、蒼玲殿はこの方とご結婚を?」
「そうよ。私とお姉さまは愛し合っているんだから!」
エリサベットが胸を張った。フィオナはしばらくエリサベットを見つめ、それから何度も頷いた。
「そうでしたか、そうでしたか。蒼玲殿には、心に決めた方がいたのですね。いや、めでたい。実にめでたいことです!」
むむむと唸っていた顔が、見る間に晴れていった。フィオナはエリサベットの手を両手で握り、力強く上下に振った。
「おめでとうございます! お二人の武運を祈ります!」
「え、ええ。ありがとう……?」
エリサベットは握られた手とフィオナの顔を交互に見た。ライラが葵の肩の上で声を出さずに笑っている。何がフィオナをここまで喜ばせたのか、葵には分からなかった。
「それで葵、庶民の遊びよ。今日、これから。いいわね」
「分かりました。それなら、ゲームセンターはどうですか。蒼玲先輩とは行っていないので」
「ゲームセンター……」
エリサベットは繰り返した。
「私も行きたいです! 今日は休みなので、丸一日遊べるのです! ……着替えてくるので少し待っていてください」
フィオナの寝癖はそのままだった。葵は帽子を被せてあげた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
魔科学アミューズメントパーク、マナ・スフィアは中心街にあった。球体を半分地に埋めたような銀色の建物で、外壁を光の帯が緩やかに巡っている。前に颯たちと来たときは気に留めなかったが、日曜の昼前は、家族連れと手を繋いだ二人組ばかりが目につく。
「これがゲームセンター……思ったより、大きいのね」
エリサベットがコートの襟を直して建物を見上げた。
入口でスタッフが魔法力診断を勧めてきた。手のひらを台に乗せるだけの無料の測定で、貸し出す補助デバイスの設定を決めるためのものらしい。
葵とエリサベットは断り、フィオナだけが機械に手を置いた。目盛りが端まで振り切れて台が短い警告音を鳴らした。スタッフが画面を見て、フィオナを見て、もう一度画面を見た。
「故障かもしれません。もう一度……あっ、やっぱり振り切れますね」
「私は魔法が苦手なのです。びしっと補助してください」
「出力はすごいのに、制御の値が……こんな設定、初めて入れます」
フィオナの腕輪は、スタッフが三度も設定を確かめていた。
最初はマナ・ブラスターの射撃場に入った。グリップを握ると、手の先に光の弾が生まれる。放つたびに掌へ弱い痺れが返ってきた。エリサベットの一発目は的を外れ、二発目から中心へ吸い込まれ始めた。
「こういうこと。分かったわ」
「早いですね」
「ふん、これくらい当然だわ」
エリサベットは澄まして答えた。
その後、フィオナがプレイをした。ブラスターを構える姿が様になっていた。
「いいところを! 見せます! やぁ!」
フィオナの狙いは正確で、全ての的を外さなかった。
「すごいよ、フィオナさん」
「これでも、元兵士なのです!」
だが、カーレースゲームのルーン・レーシングではフィオナが最下位だった。
「カートが言うことを聞きません!」
「フィオナさん、ハンドルは叩いちゃダメだよ」
エリサベットは二位で、悔しさを隠さずに次のコースを指差した。二戦目も葵が勝った。昨日のゲームの続きをしているようだと、葵は思った。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
昼はフードコートに入った。吹き抜けの高い天井の下に、揚げ油と焼けた肉の匂いが混ざって漂っている。
「私はこれと、これと、このハンバーガーを二つ。あとこの、魔力回復ドリンクを。……魔力を回復するのです」
「……それ、ただのジュースよ」
「回復すると書いてあります」
「気分が回復するんだと思うわ」
「では気分を回復します」
エリサベットは葵を見て、同じセットを頼んだ。番号札を受け取ると、それを裏返して眺めている。
トレーが並んだ。ポテトはまだ湯気を立てていて、塩の粒が油の膜の上で光っている。フィオナは三本まとめて口に運び、熱さに目を見開き、それでも噛むのをやめなかった。
「熱っ……でも、止まりません」
「揚げたてだからね」
ハンバーガーは紙越しにも温かかった。押すと肉の汁が染みて、紙の内側に丸い染みが広がる。エリサベットは包み紙を几帳面に折り返し、小さな口で食べ進めていた。
隣のテーブルを、手を繋いだ二人組が通り過ぎた。エリサベットの目がそれを追い、途中で止まった。止まったまま、しばらく動かなかった。
「蒼玲先輩、こういうところで食べるのでしょうか」
「お姉さまは、お弁当を持ってくるかもしれないわね」
エリサベットは折り返した包み紙を、指先でもう一度なぞった。




