第157話 炎の守将
夕食は、約束のラムチョップだった。
骨付きのラム肉に塩を振ってフライパンで焼き目をつける。脂の匂いが台所に広がるとフィオナが後ろで落ち着きをなくした。
「葵殿。まだですか。まだですか」
「もうすぐだよ」
付け合わせの温野菜を添えて皿に三本ずつ。フィオナの皿だけ、四本にした。
「美味しそうです!」
「うん。召し上がれ」
フィオナは両手で骨を持ってかぶりついた。目が細くなり、頬が膨らんで言葉が消えた。騎士の食べ方ではなかったが、幸せそうだった。ライラはテーブルの上で、切り分けた一切れを両手で抱えていた。
フィオナは四本を食べ終えて、おかわりを二本食べた。
食後は、まったりした時間になった。フィオナはソファで端末を弄って地上の情報を集めていた。時々テレビに目を移して、また端末に戻る。三十年分の世界の変化を少しずつ埋めているらしかった。
「葵殿。中国が帝国になった経緯が、書いてあります。……なるほど、そういうことでしたか」
「勉強熱心だね」
「知らないままでは、蒼玲殿に失礼ですから」
そう言った騎士の目がだんだん細くなっていった。満腹と一日遊んだ疲れが、まぶたに乗り始めていた。
「……葵殿。もう、お風呂に入ります」
フィオナはお風呂に入って、湯気と一緒に出てきた。橙色の髪が、濡れて色を深くしていた。
「フィオナさん、こっち。髪、乾かしてあげる」
「! お願いします」
フィオナは葵の前の床に座った。葵はソファに座り、温風を当てながら長い髪を手で梳いていった。橙色が根元から少しずつ軽くなっていく。
「葵殿の手は、気持ちがいいのです……」
「はいはい」
「訓練所で、友達に乾かしてもらったときより気持ちいいです……男の子にこんなふうに、してもらったことは……むにゃ」
言葉の途中で、頭がこくりと揺れた。乾かし終わる頃にはフィオナは半分眠っていた。
「フィオナさん、寝るならベッドで寝て」
「むにゃ……そうします……」
フィオナはふらふらと立ち上がって葵の部屋へ歩いていった。扉の前で一度止まって振り返った。
「葵殿……後で、私の腕の中に、入ってきてくださいね……」
「分かったよ、おやすみなさい」
「むにゃ……」
聞いていなかった。フィオナは葵のベッドに潜り込み、布団を抱えてすぐに寝息を立て始めた。ラムチョップの夢でも見ているのか、口が小さくもぐもぐ動いていた。
葵は布団を掛け直して静かに部屋を出た。
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リビングに戻るとお風呂上がりのアーデルがいた。
黒髪が、まだ少し湿っている。いつもの夜と同じはずだった。ただ、アーデルはソファではなく離れたリビングの椅子に座っていた。
「先生、今日は蒼龍伝の日ですよ」
「分かっている」
「そこからだと、遠くないですか。先生、こっちの方が見やすいですよ」
葵はソファの隣を軽く叩いた。いつもアーデルが座る場所だった。
アーデルは、動かなかった。少しの間、黙っていた。それから、小さな声がした。
「……女神を、覚えていないのか」
「女神?」
葵は首をかしげた。
「女神って、なんです?」
アーデルが葵を見た。葵は本当に分からなかった。蒼龍伝に女神は出てこなかったはずだし、今日の演習にも女神はいなかった。
アーデルは額に手を当てて短く息を吐いた。
「……何でもない。忘れろ」
そして立ち上がると、いつものようにソファの葵の隣に座った。風呂上がりの石鹸の匂いがした。ライラが葵の膝の上で丸くなった。
「そうだ、先生。見てください」
葵は自分の部屋から一冊のノートを持ってきた。開いたページに力強い署名が走っている。この前の誕生日会で、紫禁城の城門で貰ったものだった。
「珠瀾将軍と烈焔将軍のサインです。今週の話に出る将軍から、貰ったんですよ」
「ノートにか」
「色紙を持ってなかったので。烈焔将軍が、坊主、貸せって、その場で書いてくれました」
「本人に会った上で、ドラマで若い頃を見るわけか。
......そこまで来ると、蒼煌と蒼鋒将軍のサインも欲しいな。」
「蒼玲先輩と、蒼嵐に頼んでみましょうか」
「……あの二人なら、本当に取ってきかねないな」
言っているうちに、番組が始まった。
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壮大なオーケストラとともに、金の筆文字が画面を飾った。
第三話「炎の守将 ~華中の烈火と小さな砦~」
紫禁城の広間。玉座の前で、周瀾が扇子を閉じた。
「華中に、乱世の只中で民を守り続ける一人の守将がおります。名は項焔。小さな砦で民を養い、笑顔を守り続けている……もし彼を仲間にできれば、天龍集団の基盤はさらに強固なものになります」
蒼煌が即座に立ち上がった。
「民を守る男か……面白い。会いに行く」
「あ、また一人で行きます」
「この主人公の芸風だ。周瀾のときもそうだった」
葵はノートを開いて膝の上に置いた。力強い署名が、画面の名前と並んだ。
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場面は華中の小さな砦に変わった。炎砦。
屈強な男が民と一緒に畑を耕していた。壊れた魔科兵器の残骸を鎚で打ち直して農具に変えていく。夕暮れには子供たちと囲炉裏を囲んで大口を開けて笑った。
「俺はただ、みんなが腹いっぱい飯を食って、明日も生きられればそれでいいぜ」
「……本当に、こういう人でした」
葵はノートの署名と画面の男を見比べた。紫禁城の城門で会った項焔将軍は、画面の若い項焔と笑い方が同じだった。坊主、貸せ、と言ってノートを取り上げた手の大きさまで思い出せた。
「実物を知っているわけか」
「はい。豪快で、気さくな人でした。ドラマのまんまです」
「珍しいこともあるものだな。この手のドラマで、人物が実物のままとは」
アーデルの声に、突く調子がなかった。人物には突くところがないらしかった。
砦に蒼煌が着いた。項焔は客人を囲炉裏に迎えて大盛りの粥を出した。
「あんたが北京の青龍か。噂は届いてるぜ。民を飢えさせない街を作ってるって」
「お前の噂も聞いた。項焔、俺と来い。お前のような男が、これからの世界には要る」
項焔は笑って首を振った。
「嬉しいが、行けねえな」
囲炉裏の火が男の顔を照らした。
「見ての通り、うちは年寄りと子供ばかりだ。俺が離れたらみんなが危ない。それに、賊や魔物に襲われるから、危なくて移動もできないぜ」
蒼煌はしばらく黙って、それから立ち上がった。
「……分かった」
「悪いな、青龍の」
「また来る」
蒼煌は、それ以上誘わなかった。
「あっさり帰りましたね」
「断る理由が、民のためだからな。そこを押せば、この男の守っているものを壊すことになる。引き際は正しい」
夜。砦の周囲を項焔が一人で見回っている。
「乱世でも、皆が笑える場所は絶対に守る」
静かな呟きに、小さな子供が駆け寄って手を握った。
「項焔兄ちゃん、ずっと一緒にいてね」
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空気が変わった。
地平線を黒く染め尽くす大軍が、炎砦をゆっくりと包囲した。旗の波、魔科兵器の鈍い輝き、土煙が空を覆い、遠雷のような足音が大地を震わせる。
中央監視神州連邦の残党と近隣の略奪勢力の連合。その数、項焔の兵の数十倍。
「炎砦の食糧と民を、すべて奪う!」
「多くないですか?」
「多いな」
アーデルが即答した。
「あの砦は小さい上に街道からも外れている。戦略的に重要な土地ではない。食糧を奪うにしても、あの規模の砦から取れる量はたかが知れている。そこにこの兵力を投入するのは割に合わん」
「言われてみれば……」
「それに、残党だ。残党というのは本隊が敗れて残った端くれのことだ。なのに全盛期の軍のような数がいる。どこから湧いた」
「またネタバレ?」
ライラが膝の上で小さく釘を刺した。
「軍事の検討だ。ネタバレではない」
画面の項焔は民を集めて笑っていた。
「みんな、怖がるな。俺がここにいる限り一人も死なせねえ。今日は特別に、俺の炎でみんなの飯を熱くしてやるぜ!」
民が不安を隠して笑った。項焔は自ら最前線に立った。
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戦いが始まった。
項焔の両腕から炎が奔り、押し寄せる敵の魔科兵器を次々と包んだ。魔鋼の残骸を燃料にした砦育ちの炎術だった。
「皆の飯を奪う奴は、俺が許さねえ!」
だが敵は無尽蔵に押し寄せた。項焔の体が、傷だらけになっていく。砦の壁から民が叫んだ。
「項焔兄ちゃん!」
「頑張れ……」
葵は前のめりになっていた。
そのとき、青い咆哮が戦場を裂いた。
蒼煌が単騎で乱戦の只中に飛び込んできた。
「おい、助太刀するぞ!」
「青龍の! なんで、ここに……!」
「襲撃の報を聞いた。軍を待つ時間が惜しかった」
青龍の力が敵陣を蹴散らし、項焔の炎と交錯した。二人は背中合わせで戦った。
「お前みたいな男がいるとは、乱世は捨てたものではないな!」
「はっ、口説くのが下手だな、あんた!」
「かっこいい……」
敵の総大将が叫んだ。
「民など、ただの駒だ!」
その瞬間、項焔の炎がひときわ大きく燃え上がった。
「皆は駒じゃねえ! 俺たちの家族だ!」
炎が総大将を呑み込んで戦いが終わった。
葵は拍手をしていた。ライラも膝の上で小さな手を叩いていた。
「今の、すごくよかったです」
「台詞は、いい台詞だった」
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夜が明けた。傷だらけの砦に地鳴りが響いた。
丘の向こうから整然とした大軍が現れた。青龍の旗を掲げた天龍集団の兵たちだった。荷車と医療の魔導具と食糧を満載して。
「なっ……青龍の、こいつは何のつもりだ」
「護衛だ」
蒼煌が言った。
「お前は言ったな。民は体が弱くて移動できないと。なら、動かせるようにすればいい。北京まで、全員を安全に運ぶ。年寄りも子供も病人も、一人残らずだ。北京なら飯もある。医者もいる。壁もある」
項焔が、大軍と蒼煌を何度も見比べた。
「……たった、これだけの民のために、ここまでやるのか」
「たった、ではない。たとえ1人だったとしても、民は、民だ」
項焔の目から、涙がこぼれた。傷だらけの体がその場に跪いた。
「俺はただ皆を守りたかっただけだ。でもあんたは、それ以上に大きなものを背負ってる……俺も、その力になりてえ。俺の炎、あんたに預けるぜ」
蒼煌が笑って手を差し伸べた。
「一緒に来い。俺たちは天龍集団だ。お前みたいな熱い男がいれば、民はもっと笑える」
「いい場面ですね……」
葵は素直に感動していた。隣でアーデルが顎に手を当てた。
「ところで、この大軍だが」
「はい」
「昨日の襲撃のとき、こいつらは何をやっていたんだ。蒼煌一人が駆けつける間、軍は一歩も動いていなかったことになるぞ。移送のためには一晩で来られる軍が、戦のときには来ない」
「た、たまたま準備に時間が……」
「護衛の荷車と医療具を満載する準備の方が、出兵より時間がかかる」
「夢を壊すのやめて!」
ライラが膝の上で抗議した。
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場面は紫禁城に戻った。
玉座の間に、紅の絨毯が長く伸びていた。左右に兵が整列し、中央に三人の男が跪いている。王鋒、周瀾、項焔。玉座から蒼煌が立ち上がり、一段ずつ、階を降りてきた。
「王鋒」
蒼煌が最初の男の前に立った。
「お前は俺が何も持たなかった頃から、俺の背中を守り続けた。お前の忠義は、俺の半身だ。俺の蒼の一字を、お前の鋒に与える。今日からお前は——蒼鋒だ」
王鋒の肩が震えた。深く垂れた頭から、絨毯に涙が落ちた。
「この命、改めて、蒼煌様に捧げます」
蒼煌は二人目の前に立った。
「周瀾。お前の知恵は、乱世を照らす宝の珠だ。珠の一字を、お前の瀾に与える。今日からお前は——珠瀾だ」
珠瀾は扇子を閉じて、優雅に頭を垂れた。
「この珠、生涯、あなた様のためだけに輝きましょう」
蒼煌は三人目の前に立った。
「項焔。お前の炎は、民の飯を炊き、民の敵を焼いた。ただの炎ではない。烈火の烈を、お前の焔に与える。今日からお前は——烈焔だ」
烈焔は跪いたまま、大口を開けて笑った。
「烈焔! いい名だ! この名前、燃え尽きるまで使い倒してやるぜ!」
三人が立ち上がり、肩を組んだ。
「三星将軍、完成だ」
炎と青龍が交わる幻影が、画面いっぱいに浮かんだ。
「名前を貰うって、いいですね」
「中国では、主君が臣下に名を与えるのは最高の栄誉だ。まして自分の姓の一字を分けるのは、一族に迎えるに等しい。演出としては、正しい重みで撮っている」
「あれ?」
葵が首をかしげた。
「三星将軍って、八つの勢力に三方向から攻められた戦争で活躍して名前を貰ったんじゃなかったでしたっけ。先生、前にそう言ってましたよね」
「よく覚えていたな」
アーデルが少し葵を見た。
「史実ではそうだ。命名は三正面作戦の後になる。おそらくドラマの都合だろう。名前が途中で変わると視聴者が混乱する。早い段階で変えておこうと、命名を前倒したのだと思うが」
「ほら! 葵が混乱してる!」
ライラが膝の上で立ち上がった。
「混乱ではない。正しい知識と照合しただけだ。むしろ教育の成果だ」
「屁理屈!」
ナレーションが重厚に流れた。
「こうして、華中の烈火は青龍の聖人のもとに集い、天龍集団は真の力を手に入れた——」
主題歌のサビが流れて次回予告が始まった。
「来週も見ますか」
「……次に誰が仲間になるか、気になるだろう」
「ですね」
葵が笑った。
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「今日も、面白かったです。おやすみなさい、アーデル先生」
「ああ。おやすみ」
葵はノートを閉じて立ち上がった。
アーデルはソファに残って、消えたテレビの画面を見ていた。それから、いつもの本を開いた。ページをめくる手が、一度だけ止まって、また動いた。
葵は自分の部屋の扉を静かに開けた。
フィオナは、ベッドの真ん中で眠っていた。葵の布団を騎士の腕でしっかりと抱きしめている。腕の中に入ってきてください、と言っていた腕は先に布団で埋まっていた。
葵は明かりを落として、布団の端の空いている場所に入った。
フィオナの腕が、寝たまま動いた。布団ごと葵を抱き込んだ。
「むにゃ……葵殿……おかわり……」
「僕はラムチョップじゃないよ」
返事はなかった。温かい腕の中で葵は目を閉じた。胸のポケットから出てきたライラが、二人の間の窪みに収まって丸くなった。
長い土曜日が、ようやく終わった。もっとも、フィオナの決まりでは朝ごはんまでが土曜日だった。




