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第155話 影の名前

土曜日の二限は、魔法実戦演習だった。


演習場にSクラスと選抜組が並んでいた。ハルトマンが前に立った。


「今日から、組み合わせを変える」


軍人の声が場に通った。


「この前は、相性のいい相手と組ませた。実戦では、相手を選べん。今日は逆だ。属性の相性で不利な相手と当てる。不利を、どう捌くか。それを見る」


端末に対戦表が届いた。


葵の相手はもう歩いてきていた。色素の薄い髪を低い位置で結んだ少女だった。


「葵くん、ですよね」


小さい声だった。


「はい。えっと、はじめまして」


「……はじめまして」


少女は一度目を伏せた。


「私の名前なんか、知らないですよね」


責めるような、静かな声だった。葵が答える前に、礼をして距離を取った。


その目は伏せられていなかった。まっすぐ、葵を見ていた。


「ミラ・ノヴァーク。契約神魔、ドッペルゲンガー」


ミラの足元で影が濃くなった。


影が、立ち上がった。人の形になった。色素の薄い髪に低い位置の結び目。ミラと寸分違わぬ姿が影から抜け出して、隣に並んだ。


「始め」


ハルトマンの声と同時に二人のミラが左右に割れた。


闇弾が飛んできた。二方向から、交互に。葵は横に流して躱し、右のミラへ光弾を放った。


光が届く寸前で鈍った。闇の膜が光を飲み、弾の芯だけが残って掠めて消えた。


効きが、悪い。


葵は、そう思った。闇は光を飲む。授業で習った通りだった。習った通りのことが、いま目の前で起きていた。


左のミラが踏み込んできた。手に闇を固めた短い刃。振りが速い。葵は半歩で外し、がら空きの胴の護符へ光弾を寸止めの距離から放った。


当たる、という瞬間にミラが消えた。


いや、消えていない。入れ替わった。右にいたはずのミラが目の前にいて、目の前にいたはずのミラが遠くで闇弾を構えていた。


光弾は複製体に当たった。


複製体の肩口が、黒い霧に崩れた。崩れた霧は消えずに広がって、葵の胸元へ流れた。


護符の縁が、黒く染まった。


葵は跳んで距離を取った。護符を見る。縁の黒がじわりと内へ滲んでいる。石を苔が食うような、遅く確かな侵食だった。


複製体を撃つと闇が散る。散った闇が護符を食う。


考えたな、と思った。この演習は護符が砕けたら負けだ。複製体は撃たせるための的だった。撃てば撃つほどこちらの護符が削れる。ルールの中で勝ちに来ている。


「気づきましたか」


ミラの声がした。二人のミラがまた並んでいた。どちらが本体か、もう分からなかった。


「葵くんは、いいですよね」


闇弾が来た。躱す。


「Sクラスで、生徒会で。何もしなくても、みんなが名前を覚えてくれて」


言葉と一緒に刃が来た。躱す。声に、棘があった。棘の奥が、濡れていた。


「私は、覚えてもらえないのに」


葵の影が、動いた。


足元から、するりと人の形が抜け出した。


葵の顔をしていた。葵の背丈で葵の制服を着て、葵がしたことのない悪い笑い方をしていた。


その口が、開いた。


視界が、揺らいだ。


演習場が薄れて、白いものが滲んだ。


葵はそれを見ていた。


何の感情も、起きなかった。怖いとも、思わなかった。


これは、イフリートのときの、あれだろうか。


そう思ったときには白いものはもう破れていた。ガラスより薄い音がして演習場が戻った。あのときの白い部屋は世界ごと塗り替えられた。今のは表面に紙を一枚貼られたようなものだった。格が、違うのだろう。


葵の顔をした分身が笑ったまま固まっていた。効かなかったことに戸惑っているようだった。


「……なんで」


ミラの声が、初めて乱れた。


三体になった。ミラが二人、葵が一人。三方向から、闇弾が同時に来た。


正面と右。二つの射線が重なる。躱せない角度だった。


火が、あった。


演習のプリントで書いた火の道筋。散盟の神魔が魂をくぐらせた、あの熱の形。陣の示す通りに流せば出せる。


失敗するかもしれない、とは思わなかった。


「スクトゥム・イグニス」


葵の前で、炎が盾の形に立ち上がった。


闇弾が二つ、続けて盾に当たった。炎は闇を飲みも飲まれもせず、ただ正面から受け止めて燃え尽きさせた。盾の熱が頬に届いた。乾いた、まっすぐな熱だった。光の盾のように食われる感じがなかった。


受けられる。


葵は、そう思った。攻撃にも使えるだろう。だが、それはしなかった。この演習は光の使い手が闇を捌く訓練だった。火で焼き払ったら訓練にならない。それに、初めて見せる属性で撃ち込むのは、相手に対して何か違う気がした。


攻めは、光でいい。


観戦の列でエリックが目を見開いた。


「火だと」


言ってから、エリックは口を閉じた。少しの間、黙っていた。


「……いや。それくらいはやるか」


演習場では三体が動き直していた。


葵は光弾を細く絞って、撃ちながら見ていた。撃つためではなく見るために撃っていた。


複製体の影は、ほんの少し遅れて動く。


本体の影は体と同時に動く。光を遮った結果だから、当たり前のことだった。複製体はそうではないらしい。理由は分からなかった。ただ、影が体に追いつくまでに瞬きより短い間があった。三度の入れ替わりでそれが掴めた。


四度目の入れ替わりで、影が遅れなかった方へ葵は踏み込んだ。


ミラの目が、見開かれた。


葵は刃も闇弾も全部置き去りにして懐へ入った。光弾を指先から放つ。狙いは体のどこでもなく、胸元の護符の一点だった。


光が、護符の面を掠めた。


護符が、砕けた。


罅は中心から走らなかった。縁から花弁が開くように四方へ走り、白い破片が一拍遅れて光の粉と一緒に散った。砕けたものはもう護符ではなかった。ただ綺麗な、冬の霜のようなものになって床に触れる前に消えた。


「勝負あり」


ハルトマンの声がした。


複製体と葵の顔をした分身が、影に溶けて消えた。


ミラはその場に立ち尽くしていた。砕けた護符の跡を見て、それから葵を見た。


「……どうして」


小さい声だった。


「どうして、本体が分かったんですか」


「影です。複製体の影は、ほんの少し遅れて動くので」


「……そう、ですか」


ミラは俯いた。結んだ髪の先が揺れた。


「あの」


葵は言った。


「名前、知らなくてすみませんでした」


ミラの肩が、少し動いた。


「でも、顔は知ってました。いつも一番前で、質問する人ですよね。契約説法でも、魔法工学でも」


「……授業を止める、迷惑な質問です」


「僕は、助けられてました」


ミラが、顔を上げた。


「三層構造のときも、魔法陣が変わるのかって質問のときも。あなたが聞いてくれたから、僕も分かったことがたくさんあります。いい質問をする人だなって、ずっと思ってました」


ミラは何も言わなかった。何か言おうとして口を閉じ、もう一度開いた。


「……ミラ・ノヴァークです」


さっきより少しだけ大きい声だった。


「改めて。ミラ・ノヴァークです。葵くん」


「小春葵です。今日の神魔との連携、すごかったです。護符を狙ってくるの、途中まで全然気づきませんでした」


「……ルールを、読んだだけです」


ミラはそう言って俯いた。前髪の下の口元が、ほんの少し緩んでいた。


「総評」


ハルトマンの声が演習場に通った。


「ノヴァーク。複製体でルールの内側から護符を削る発想、良い。実戦は常にルールの中にある。契約と法と地形。それを読んで武器にする者が生き残る」


ミラの背筋が、伸びた。


「小春。相性の不利を属性の選択で正面から埋めたな。誰にでもできることではない」


ハルトマンはそれ以上言わなかった。演習場の視線が少しの間、葵に集まって散った。


葵は胸元の護符を見た。縁の黒い染みはいつの間にか薄れて消えていた。


次のペアが呼ばれた。

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