第154話 壁の向こう2
金曜日の夜。お風呂に入って部屋に戻ると、壁の穴の向こうで物音がした。
「……葵くん。今日は、家庭教師の日です」
穴をくぐって、オリビアが入ってきた。
葵は、少し目を見張った。
紺色のワンピースだった。栗色の髪がいつもより丁寧に巻かれていて、耳元で小さな銀のピアスが光っている。すれ違ってもいないのに、花のような匂いが部屋の空気にまじった。
オリビアは葵を見た。
それから、見るのをやめた。やめたまま、机の方へ歩いていった。
夕食のときは、いつものカーディガンだった。
「先生、こんな時間からどこかに出かけるんですか」
「いいえ?」
オリビアが不思議そうな顔をした。質問の意味が本当に分からない、という顔だった。
オリビアは、それきり何も言わなかった。葵も、聞かなかった。
「きょ、今日は数学をやります。中間試験の前が最後だったので……随分、空いてしまいました」
オリビアが机にノートを広げた。葵が隣に座る。
「微分をやりましょうか。合成関数から」
その一言で、声が変わった。
低く、静かで、迷いのない声だった。前髪は相変わらず片目を隠している。見た目は何も変わらないのに、声と、言葉の並びだけが、別人になる。
「合成関数は、玉ねぎです。外の皮から、一枚ずつ剥く。一番外の関数を微分して、中身はそのまま。次に、一つ内側を微分して、その中身はそのまま。外から順に、一枚ずつ」
オリビアがペンで式を指した。指の先が、ノートの上を滑っていく。肩が、さっきより少し近かった。それだけだった。
葵は言われた通り、外から一枚ずつ剥いた。式が素直にほどけた。
「解けました」
「正解です。葵くんは手順を崩さないので、微分に向いています」
二問目、三問目と続いた。分かっていないとも思っていなかった部分が理解できていく。
さすがオリビア先生だ。やっぱり分かりやすい。
葵は、素直にそう思った。
気づけば、二時間近くが経っていた。
「今日は、ここまでにしましょう」
オリビアがノートを閉じた。声が、いつものオドオドしたものに戻っていた。
「おやすみなさい、葵くん」
「おやすみなさい、先生。ありがとうございました」
オリビアが壁の穴をくぐって、向こうへ消えた。
直後、鈍い音がした。
「きゃあっ」
「先生?」
返事がない。葵は穴をくぐった。
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床が、見えなかった。
服だった。部屋いっぱいに服が広がっていた。ワンピース、ブラウス、スカート。ハンガーごと落ちているものもあれば、裏返しに丸まっているものもある。クローゼットの扉は開けっぱなしで、中はほとんど空だった。
その服の海の真ん中で、オリビアが尻餅をついていた。
「せ、先生。大丈夫ですか」
「だ、大丈夫です……」
オリビアが立ち上がろうとして、足元の服に滑って、もう一度座り込んだ。
葵は部屋を見回した。
服だけではなかった。服の隙間から、カップ麺の容器が覗いていた。机の下にペットボトルが数本、転がっている。菓子袋が、丸めたまま隅に押し込んであった。前に来たとき、ゴミ袋三つに詰めて捨てたはずのものが、また育っていた。
あのとき、また来てもいいですかと聞いた。後日、もう綺麗なので大丈夫です、と言われた。だから、大丈夫なのだと思っていた。
全然、大丈夫じゃなかった。
葵は、足元の服を一枚拾い上げた。淡い色のブラウスだった。脇の縫い目が、裂けていた。
「み、見ないでください……!」
オリビアが飛びつくように、葵の手からブラウスを引ったくった。
引ったくったまま、オリビアの指が、裂けた縫い目の上で止まった。止まったまま、少しの間、動かなかった。それから、ブラウスを背中に隠した。耳まで赤くなっていた。
葵は、散らかった部屋をもう一度見た。
先生は、自分では片付けられない人なのかもしれない。
葵は、そう思った。捨て方が分からないのではない。前に一緒にやったから、分別は知っているはずだった。それでも、こうなる。
だったら、先生が一人で片付けられるように、してあげないと。
「先生。掃除をしましょう」
「だ、大丈夫です……! 今日は、ちょっと……」
「前も、大丈夫と言っていました」
「うっ」
「もう綺麗なので大丈夫です、とも言っていました」
「ううっ……」
オリビアが服を抱えたまま、小さくなった。
葵は袖をまくった。
「僕はゴミを拾います。先生は、服をお願いします。ハンガーのものは掛け直して、畳むものは畳んでください」
「で、でも……」
「二人でやれば、すぐ終わります」
葵は返事を待たずに、カップ麺の容器を拾い始めた。オリビアが何か言いかけて、やめて、観念したように服を拾い始めた。
「燃えるゴミと燃えないゴミ、分けますね」
「……はい」
それきり、二人とも黙って手を動かした。ゴミ袋の膨らむ音と、布の擦れる音だけがした。
オリビアは背中を向けて服を畳んでいた。時々、一枚を素早く畳んで、山の下に押し込んでいる。それから時々、葵の背中を見た。見て、すぐに手元へ戻った。葵は、どちらにも気づかないふりをした。
「先生は、服をたくさん持っているんですね」
「……そんなには」
「クローゼットに入りきらないくらい、あります」
「……あああ」
オリビアが畳みかけの服で顔を覆った。
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床が全部見えた頃には、夜もだいぶ更けていた。
クローゼットの扉が、ちゃんと閉まっていた。ゴミ袋は、玄関の脇にまとめて置いた。持ち上げると、ずしりと手に重かった。二袋分の重さが、そのまま日数の重さのような気がした。
「今日はここまでにしましょう。遅くなってしまったので」
「……ありがとうございました。また、こんなことに……」
オリビアが俯いた。葵は首を振った。
「また来ますね」
「え」
「ダメと言われても、掃除に来ます」
オリビアが顔を上げた。目が丸くなっていた。
丸くなったまま、逸らさなかった。葵を見る時間が、いつもより長かった。
「で、でも、ご迷惑……」
「迷惑じゃないです。おやすみなさい、先生」
「……おやすみなさい」
葵が壁の穴をくぐって、消えた。
オリビアは、穴を見ていた。見るのを、やめなかった。
それから、畳んだ服の山の一番上にある紺色のワンピースを手に取って、胸に抱えた。前髪の下で、口元が少しだけ、緩んでいた。




