第152話 契約説法
金曜日の二限は、契約説法だった。
一限に引き続いて、右に茜、左にセレン。いつもの並びで受講する。
葵は席に着いてから、今朝のことを思い返した。
朝、目を覚ましたとき、アーデルはもう家を出ていた。ダイニングに新聞だけが残っていた。いつもは食卓で紙をめくっているのに、今日は早かったらしい。顔を合わせたのは、昨日の夕食が最後だった。
体が、軽かった。
葵は端末を開いて、神魔解析録を確かめた。データは、増えていなかった。昨日の夜から、何も変わっていない。
夢の中の戦いが、なかったようだ。
葵は、そう思った。いつもは朝になると、解析録に知らないデータが入っている。夜のあいだに、覚えのない戦いがあったように。だが今朝は、それがなかった。
前に、リオの夢、そして黒夢病患者達の夢の中で、機械の神魔と戦った。夢の中で神魔と戦うというのは、たしかにあることだった。自分の身に起きているのも、たぶん、それと同じなのだろう。毎晩、夢の中で、誰かと戦っている。そして朝には、忘れている。
リオの黒夢病と、似ている気がした。
葵は端末を閉じた。ヴァルハラ・アームズのボランティアに行けば、何か分かるかもしれない。黒夢病の人たちを助ける手がかりも、自分の忘れる夢のことも。あそこには、人造神魔のことを知る手がかりがあるはずだ。
胸のポケットで、ライラが顔を出した。葵を見上げて、それから小さく身じろぎした。
「葵、考えごと?」
「うん、ちょっとね」
ライラは、それ以上は聞かなかった。ただ、葵の胸元で、心配そうに葵を見ていた。何かを言いたそうで、でも言葉にならない様子だった。ライラにも、答えは分からないのだろう。
「大丈夫だよ」
葵が言うと、ライラは小さくうなずいて、ポケットに引っ込んだ。
教卓に、アーデルが立った。
黒のスーツ。切れ長のグレーの目が、ホールを一度、見渡す。その視線が、葵のところで止まった。
目が、合った。
アーデルは、すぐに視線を外した。手元の端末に目を落として、何事もなかったように資料を開いている。
葵は、少し首をかしげた。気のせいだろうか。今朝、顔を合わせなかったから、そう感じただけかもしれない。葵は、それ以上は考えなかった。
「では、始める」
アーデルが言った。
「今日は、事例討論だ。契約の種類、神魔が契約する理由。ここまでをやった。今日は、実際にあった話を材料に、少し考えてもらう」
アーデルが端末を操作すると、教卓の上の空間に、古い書物の挿絵がいくつか浮かんだ。
「昔から、悪魔と取引をして、人の力を超えた者がいる、という話がある」
アーデルの指が、挿絵の一つを示した。年老いた学者と、その傍らに立つ、影のような人の形。
「ファウストという学者の話は、有名だ。学問に行き詰まった男が、メフィストフェレスという悪魔を呼び出して、契約を結ぶ。若さ、知識、この世のあらゆる快楽。それと引き換えに、自分の魂を差し出す。期限が来れば、魂は悪魔のものになる」
「本当の話なんですか」
誰かが聞いた。
「伝説だ」
アーデルは言った。
「モデルになった人物はいたらしいが、話のほとんどは後から作られたものだ。だが、こういう話は、一つや二つではない」
指が、次の挿絵に移る。
「楽器の名手が、夜中に十字路で悪魔と契約して、誰にも真似できない技を手に入れた。そういう話も、各地にある。人並みはずれた才能を持つ者に、人々はこう言う。あれは悪魔と取引をしたのだ、と」
アーデルが、挿絵を消した。
「これらに、共通することがある。何だと思う」
少し間があって、前の方の生徒が答えた。
「対価を、払っていることですか」
「そうだ」
アーデルがうなずいた。
「力には、代償がいる。悪魔は、ただでは力を貸さない。魂を、寿命を、あるいは死後を。何かを差し出して、人の力を超えたものを得る。取引だ。これが、契約の一つの形だ」
アーデルが、ホールを見渡した。
「だが、力を得る道は、取引だけではない」
新しい絵が浮かんだ。玉座に座った王と、その前にひざまずく、人ではない影がいくつも並んでいる。
「ソロモン王の話は、聞いたことがあるか」
何人かがうなずいた。
「古い王だ。伝承では、この王は、神から一つの指輪を授かったとされる。神の名の刻まれた指輪だ。王はその指輪の力で、七十二の悪魔を縛り、従わせた。神殿を建てるのに使ったとも言われている」
アーデルの指が、絵の中の影を一つずつ示した。
「悪魔を、力で縛る。これは、使役に似ている。だが、少し違う。呪符や神器で縛るのではない。神の名で縛るんだ」
前の席で、誰かが小さく身じろぎした。
「神の名で縛る。これは、本来、預言者にだけ許された特別な手段とされる。ソロモン王のような、神に選ばれた者だ。今の時代に、高位の悪魔を神の名で縛る方法は、失われている。誰にも分からん。ただ、低い位の悪魔を縛る方法は、一部に残っているとも言われる」
アーデルが、一度言葉を切った。グレーの目が、ホールを静かに見渡す。
「言っておくが、その方法を、この授業では扱わない」
声が、少し低くなった。
「十字教でも、契約教でも、サラーム教でも、これは厳しく禁じられている。神の名を、人が自分の都合で使う。それがどういうことか、分かるな」
アーデルは、絵を消した。
「サラーム教では、こう言う。神の名をこのように用いた者は、ジャハンナムに落ちる。ジャハンナム、つまりゲヘナ。地獄のことだ。神を畏れるなら、やらないことだ」
ホールが、静かになった。
葵は、アーデルの言葉を聞いていた。アーデルは、教義を並べているのではなかった。神の名を軽々しく使うことを、本気で戒めているようだった。
「先生」
前の方の生徒が、手を挙げた。
「神の名で悪魔を縛れるということは、神が本当にいる、ということですか」
「そうなるな」
アーデルは、うなずいた。
「縛れるなら、名を呼ばれる相手が、いる。神の実在の、一つの証だ」
「じゃあ」
その生徒が、少し身を乗り出した。
「聖典に書いてあることは、全部本当で……サラーム教徒じゃない人は、みんな地獄に行くんですか」
ホールの空気が、少し張った。何人かが、アーデルを見た。
アーデルは、すぐには答えなかった。少し間を置いてから、口を開いた。
「明らかに聖典に背くことをすれば、地獄に落ちることも、あるだろう。神の名で悪魔を縛るような、はっきりとした禁忌ならな」
グレーの目が、生徒を見た。
「だが、サラーム教徒でなければ地獄だ、という単純な話ではない。サラーム教の教えでは、アッラーは慈悲深く、人の内心も、事情も、すべて考慮するとされる。」
アーデルが、指を組んだ。
「そもそも、死んだ後、魂がどうなるか。それは、分かっていない」
葵は、顔を上げた。
「死んだ者が、神魔として、別の界に生まれ変わることもある。それは、知られている。聖典に書かれた天国も、あるのだろう。だが、そのどれが、どう繋がっているのか。神魔になった者が、いつか再び死を迎えたとき、そこにまた、聖典の審判が待っているのか。誰にも分からん」
アーデルの声は、淡々としていた。
「誰が、どう裁かれるか。それを決められるのは、神だけだ。人が、他人の行き先を断定することはできない。神が本当にいるなら、なおさらだ」
アーデルが、生徒の方を見た。
「それに、聖典自身が、信仰を無理に押しつけることを禁じている。信じるかどうかは、その者が決めることだ」
生徒は、しばらく黙ってから、小さく頭を下げて座った。
「悪魔と取引をした者がいる。神の名で悪魔を縛った王がいる。逆の話も、ある」
アーデルが、新しい絵を浮かべた。祭壇の前で、天を仰いでひざまずく人々の姿だった。
「人が、神に誓いを立てる。そういう関わり方だ」
アーデルの指が、祭壇を示した。
「名もなき救済者が現れるより前。古い契約教の時代の話だ。人は、神と契約を交わした。神が我らを導くなら、我らは律法を守る。そう誓って、生きた。子が授かったら、その子を神に捧げると誓った者もいる。旅の無事を願って、神に誓いを立てた者もいる」
「それは、願いごとですか」
茜が手を挙げて聞いた。
「願いと、誓いは、近い」
アーデルが言った。
「神に何かを願うとき、人は、代わりに何かを差し出すと誓う。悪魔との取引と、形は似ている。だが、違う」
グレーの目が、ホールを見渡した。
「悪魔は、対価を取って力を貸す。神は、力を貸すために対価を求めるわけではない。人が、自ら進んで神に誓う。応えるかどうかは、神が決める。そこが違う」
アーデルが、絵を消した。教卓の上に、何もない空間が戻る。
「今日、三つの話をした。悪魔との取引。神の名による縛り。神への誓い。神魔との関わり方は、このように、いくつもある」
アーデルの声が、少し低くなった。
「だが、どれも、よく考えなければならないものだ。相手は、人ではない。人の理屈が、通じるとは限らない。都合よく利用しようと思って、手を出すものではない」
グレーの目が、ホールを一度、静かに見た。
「契約は、相手があって、初めて成り立つ。それを忘れるな。」
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チャイムが鳴った。
葵は、アーデルの言葉を、胸の中で転がしていた。
相手があって、初めて成り立つ。神魔との関わり方は、いくつもある。
葵はノートを閉じた。




