第149話 花嫁修業
稽古が区切りのところまで来た。
白羽が部員たちを集めた。道場の中央に皆が整列する。葵もその列に加わった。
「今日は、ここまで」
白羽が言った。
「各自、整理運動を忘れるな。体を冷やすな。以上」
「ありがとうございました」
部員たちが頭を下げた。それから、思い思いに散り始める。木刀を片づける者、道場の隅で汗を拭う者。何人かが、出口の方へ歩いていった。
葵は白羽のところへ行った。
「白羽先輩」
「なんだ」
「今日、ありがとうございました」
葵は頭を下げた。それから少し気になっていたことを口にした。
「でも、僕、教えてもらってばかりで。先輩は、練習にならないですよね」
白羽が葵を見た。
「そんなことはない」
白羽が言った。
「人に教えるのは稽古になる。教えるには、自分の技を、言葉にしなければならない。そうすると自分がどう動いているのか、あらためて分かる」
白羽は木刀を手の中で軽く回した。
「ゆっくり型をなぞるのも、同じだ。速く振れば勢いでごまかせる。だが、ゆっくり振ると、ごまかせない。軌道の狂いがそのまま出る。だから、ゆっくり振る稽古は、上の者ほど大事にする」
葵はその言葉を聞いた。
そうなのか、と思った。教えることも、ゆっくり振ることも、白羽自身の稽古になっている。葵が一方的に教わっているだけではなかった。
「だから、気にするな」
白羽が言った。
葵は頷いた。それからもう一つの用件を思い出した。
「白羽先輩。それで、このあとなんですが」
葵は、いつもの調子で言った。
「お料理、お教えできそうです。今日は、アーデル先生も遅くなるみたいで、部屋も空いてますし」
白羽の動きが止まった。
「部長、料理?」
近くで木刀を片づけていた部員が、顔を上げた。まだ、全員は出ていなかった。道場に残っていた何人かが、こちらを見た。
白羽の背筋が伸びた。
「ああ」
白羽が言った。低くはっきりとした、いつもの声に戻っていた。
「トレーニングの後には、たんぱく質をはじめとする栄養の摂取が重要だ。回復に直結する」
白羽は葵を見た。
「葵。お前、しっかり食べているのか」
「えっと」
「顔色を見るに、足りていないな。部活のあと、教えてやる。栄養の管理を」
「はい」
葵は頷いた。
「ありがとうございます。お忙しいところ」
部員は納得したように頷いて離れていった。
白羽は小さく息を吐いた。
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葵の部屋のキッチンに、二人で立った。
アーデルは今日は遅くなると言っていた。オリビアも、まだ戻っていない。夕食の時間には、間に合うはずだった。
「エプロン、これ使ってください」
葵はいつも自分が使っているエプロンを白羽に渡した。無地の飾り気のないエプロンだった。
「お前は」
「僕は、こっちを」
葵はもう一枚のエプロンを広げた。
白羽がそれを見た。
エプロンの一面に、金色の龍が描かれていた。牙をむき、爪を広げ、体をうねらせている。天龍集団のマークだった。大きく、堂々と、胸の真ん中に。
「……それは」
「天龍集団の、エプロンです」
葵は少し困った顔をした。
「白羽先輩用にエプロンを探してたんです。天龍集団のサイトで。そうしたら、龍のマークが入ったやつしか出てこなくて。しかも、おすすめに出続けて、消えなくなって」
葵は龍を見下ろした。
「仕方なく、買いました」
白羽がその龍をしばらく見ていた。
「小学生の頃」
白羽が言った。
「私の学校でも、こういうエプロンを男子が選んでいた。龍とか、剣とか、そういう絵の」
白羽の声が、少し柔らかかった。
「懐かしいな」
葵は龍のエプロンを着けた。胸の真ん中で、金色の龍が照明を受けて光った。
白羽は無地のエプロンを着けた。慣れない手つきで、後ろの紐を結んでいる。結び目が少し曲がっていた。
葵はそれに気づいた。
「先輩、紐、曲がってます」
葵は白羽の後ろに回った。曲がった結び目をほどく。結び直した。
白羽の肩がわずかに動いた。
「……できる」
白羽が言った。
「自分で、できる」
「あ、すみません」
「......いや、ありがとう」
葵は手を離した。
白羽は、それ以上は言わなかった。ただ、結び直された紐の位置を、手で一度確かめていた。
「じゃあ、始めましょうか」
葵が言った。
葵は一枚の紙を白羽に渡した。肉じゃがのレシピだった。材料と分量と手順が順番に書いてある。
「これを、作ってみてください。僕は、見てます。どこでつまずくか、それで分かるので」
白羽はレシピを受け取った。
「肉じゃが」
「はい。家庭料理の基本なので。まずこれで、先輩がどこが得意で、どこが苦手か、見させてください」
白羽は、レシピに目を落とした。それから、調理台の見やすい位置に置いて角を揃えた。
「分かった」
白羽が言った。
「やってみる」
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白羽は材料を調理台に並べた。
じゃがいも、にんじん、玉ねぎ、牛肉。レシピに書かれた分量を、一つずつ確かめている。
それから、調味料を計り始めた。醤油、みりん、砂糖。計量スプーンで、すりきり一杯ずつ。小皿に分けて、調理台の端に順番に並べていく。手つきに迷いがなかった。
葵はそれを見ていた。
速い、と思った。材料も調味料も、レシピの通りにきちんと揃っている。分量も正確だった。白羽は書かれた数字を、そのまま形にできる。
「準備は、こんなものか」
白羽が言った。
「はい。きれいに揃ってます」
葵が言うと、白羽は小さく頷いた。手応えのある顔だった。
白羽が包丁を手に取った。
そこで、動きが、一瞬止まった。
白羽の指が包丁の柄を握り直した。何度か、握りを確かめている。刀を握る時とは違う持ち方だった。白羽の眉がわずかに寄った。
葵はそれに気づいた。だが何も言わなかった。
「玉ねぎから、切る」
白羽が言った。声が少し硬かった。
「包丁ごときに、遅れは取らない」
白羽が玉ねぎをまな板に置いた。左手で押さえる。
「先輩、食材を支える手は、猫の手ですよ」
葵は自分の手を丸めて見せた。指を内側に曲げ、爪を隠す形だった。
「こうすると、指を切らないので」
白羽はその手を見た。
「私は、この程度の刃物で、傷つけられはしない」
白羽は得意気に言った。指をまっすぐ伸ばしたまま、玉ねぎに添えた。
葵は少し言葉を探した。
「あの、そういう話ではなくて」
聞いていなかった。
白羽が包丁を振り下ろした。
速かった。刃がまっすぐに落ちる。動きそのものは鋭かった。剣を振るのと、同じ軌道だった。
だが、玉ねぎは、切れなかった。
刃が玉ねぎの一点を、上から圧し潰した。繊維がぐしゃりと崩れる。断面が、切り口ではなく潰れた面になっていた。汁がまな板に滲んだ。
白羽が止まった。
「……もう一度」
白羽が包丁を上げた。また振り下ろす。玉ねぎがまた潰れた。切るというより、砕いていた。
葵は白羽の手の動きを見ていた。
刀と、同じだった。振り下ろして、当たる瞬間に手を締める。剣なら、それでいい。だが、まな板の上の玉ねぎは下に逃げ場がない。締めた力が、そのまま潰す方に働いていた。
「先輩」
葵は、静かに言った。
「玉ねぎは、僕が切りますね。危ないので」
白羽の手が止まった。
「……そうか」
白羽が包丁を置いた。潰れた玉ねぎを、見下ろしている。
葵は包丁を受け取った。潰れた玉ねぎを取って、まな板に置く。猫の手で押さえて、包丁を前に押すように動かした。玉ねぎがするすると切れていく。薄い断面が揃って並んだ。
白羽がそれを見ていた。
何も、言わなかった。ただ、葵の手元をじっと見ていた。
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玉ねぎを切り終えて、葵は包丁を白羽に返した。
「あとの手順は、レシピの通りに」
「ああ」
白羽は切った具材を鍋に入れた。それから、レシピに目を落とす。
「炒める。中火で」
白羽の手が、コンロのつまみに伸びた。そこで、また止まった。
「……中火」
白羽が、つまみを回した。火が大きく上がる。強火だった。少し戻す。今度は、消えかけるほど小さくなった。
白羽が葵を見た。
「中火とは、どの程度だ」
「あ」
葵はコンロに寄った。
「中火は、火の先が、鍋の底にちょうど届くくらいです。弱火は、その半分。触れるか触れないか、くらいで」
「数字では、書いていないのか」
「火加減は、数字じゃないんです。見て、覚えるしかなくて。最初は、分からないですよね」
葵はつまみを、ちょうどいいところに合わせた。火の先が、鍋の底に触れる。
「これが、中火です」
「なるほど」
白羽がその火をじっと見ていた。剣で間合いを計る時のような、鋭い目だった。
「では、ここからは、私がやる」
白羽が言った。
「火加減も、修行のうちだ。人に任せては、覚えられない」
「はい」
葵は一歩下がった。
白羽が鍋を炒め始めた。だが、火を見る目が、動きすぎていた。少し炒めてはつまみに手を伸ばす。強くしたり、弱くしたり。安定しなかった。剣なら、一瞬で間合いを決められる。だが火は動かない相手だった。ずっと同じ加減を保たなければならない。白羽は、それが続かなかった。
具材の色がムラになっていった。焦げかけた面と、まだ生の面が混ざる。
白羽がレシピを見た。
「調味料を、入れる。ここで、砂糖をひとつまみ」
白羽の手が止まった。
「ひとつまみ」
白羽が砂糖の袋を見た。それから指で少しつまむ。指先をじっと見ている。
「これは、どのくらいだ。ひとつまみとは、何グラムだ」
「ええと、それも、決まってなくて」
葵は、言葉を選んだ。
「親指と人差し指と中指で、軽くつまむくらいです。でも、慣れないうちは、加減が難しくて」
白羽がつまんだ砂糖を鍋に入れた。それから少し考えて、もう一つまみ足した。
葵はその手を見ていた。多い、と思った。だが、白羽は、真剣だった。
白羽は、レシピの手順を、一つずつこなしていった。計った調味料は正確に入る。だが、「ひとつまみ」「少々」「適量」と書かれた部分に来るたびに、手が止まった。そして、そのたびに少しずつずれていった。
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肉じゃがが、煮上がった。
白羽が火を止めた。額に汗が滲んでいる。剣の稽古の時とは違う汗だった。
「……できた」
白羽が言った。
鍋の中を、二人で見た。じゃがいもは、煮崩れていた。にんじんは少し芯が残っている。玉ねぎは形がなかった。煮汁の色が濃かった。
「味見を、してみてください」
葵が小皿に少し取って渡した。
白羽が口に運んだ。しばらく、動かなかった。
葵も味見をした。
甘かった。それから、しょっぱかった。二つの味が混ざらずに別々に来た。砂糖と醤油が、それぞれ多すぎた。じゃがいもは煮崩れて、味が染みる前に溶けていた。
葵は白羽を見た。白羽の顔がこわばっていた。
「初めて、作ったんですよね」
葵は言った。
「すごいです。ちゃんと、料理の形に、なってますし」
白羽が葵を見た。
「……葵」
「はい」
「はっきり、言ってくれ」
声が低かった。
「まずい、と」
葵は言葉に詰まった。
「剣なら、私は、ごまかされない。相手が手加減すれば分かる。お前も、今、手加減した」
白羽が小皿を見下ろした。
「自分でも、分かる。これは、まずい」
葵は少し黙った。それから口を開いた。
「……味は、はい。今は、まだ。でも」
「直せる?」
「はい」
その時、葵の胸元から、ライラが顔を出した。
「葵」
葵はライラを見た。それから、鍋の中の、失敗した肉じゃがを見た。
分かった。
葵は戸棚を開けた。中から箱を一つ取り出す。カレールウだった。
「肉じゃがと、カレーは、材料がほとんど同じなんです」
葵は、白羽に言った。
「だから、失敗した肉じゃがは、カレーにできます」
葵は鍋に水を少し足した。煮崩れたじゃがいもを軽く潰す。それからルウを割り入れた。
木べらで、ゆっくり混ぜる。ルウが溶けて、鍋の中が茶色に変わっていく。とろみがついてきた。
やがて鍋が、ふつふつと音を立て始めた。湯気が立つ。スパイスの匂いが、キッチンに満ちた。甘さとしょっぱさが、その匂いの奥に隠れて消えた。
白羽がその鍋を見ていた。
「……消えた」
白羽が言った。
「私の、失敗が」
「消えてないです」
葵は言った。
「先輩が切って、炒めて、煮た具材が、そのまま入ってます。ちゃんと、先輩の料理です。味だけ、直しました」
白羽が葵を見た。
何か言おうとして、口を開いた。だが、言葉にはならなかった。白羽は、また、鍋に目を戻した。カレーが、静かに煮えていた。
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葵は手早くサラダを作った。レタスをちぎり、トマトを切り、ドレッシングをかける。切る工程は、葵がやった。それを皿に盛って、食卓に並べた。
カレーとサラダが食卓に並んだ。ちょうど、その時だった。
玄関の方で、音がした。アーデルが帰ってきた。
アーデルはリビングに入ってきて、食卓を見た。それから、白羽に目を留めた。
「客か」
アーデルが言った。
「お邪魔しています、アーデル先生」
白羽が姿勢を正して頭を下げた。礼儀正しい所作だった。
葵が、間に入った。
「白羽先輩、生徒会のイベントで、料理をすることになったみたいで。その練習を、手伝ってたんです」
「生徒会の」
アーデルが白羽を見た。それから食卓のカレーに目を移す。
「......まあ、あの生徒会なら、そういうこともあるだろう」
アーデルはそれ以上は聞かなかった。読書椅子に鞄を置いて上着を脱ぐ。
「小春。私の分をお願いしてもいいか」
「はい。もちろんです」
「そうか」
アーデルが席についた。
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オリビアも、いつも通りに戻ってきた。食卓のカレーを見て目を輝かせる。
四人で、食卓を囲んだ。皿に盛ったカレーから、湯気が上がっていた。じゃがいもは崩れて、ルウに溶けている。にんじんが、茶色の中で赤く沈んでいた。
オリビアが、スプーンを口に運んだ。
「おいしいです」
オリビアが言った。
「すごくおいしいです。葵くん、今日はカレーなんですね」
「はい。でも、これ、僕じゃないんです」
葵が言った。
「白羽先輩が、作ったんです」
オリビアが白羽を見た。
「神刃さんが?」
「ほとんどの工程は白羽先輩がやりました。切って、炒めて、煮て」
葵が言うと、オリビアは感心したように白羽を見た。
「すごいです。刀だけじゃなくて、料理もできるんですね」
白羽の箸が、一瞬止まった。
「……ありがとうございます」
白羽が言った。複雑そうな顔だった。
葵は、白羽が褒められたのが、嬉しかった。
アーデルは、何も言わずに、カレーを食べていた。一度だけ白羽の方を静かに見た。それから、また、皿に目を戻した。
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食事が終わった。
白羽が帰り支度を始めた。葵は、一枚のメモを、白羽に渡した。
「これ、今日の分です」
白羽がメモを受け取った。そこには、今日の工程で直せるところが、順番に書いてあった。包丁の使い方。火加減の見方。ひとつまみの、目安の量。
「よく、見ていたな」
白羽が言った。
「これだけ、私は、できていなかったのか」
「最初は、誰でもこんなものです」
葵が言った。
「先輩は、計った調味料は全部正確でした。レシピの通りに、きっちり。あれは、なかなかできないことです。あとは、数字で書いてないところを少しずつ覚えるだけなので」
白羽がメモを丁寧に畳んだ。それから鞄に大事そうにしまった。
「葵」
「はい」
「また、教えてくれ」
「はい。待ってます」
白羽が頷いた。
玄関で、白羽が、もう一度、頭を下げた。それから財布を取り出す。
「今日の、エプロン代と、食材の代金だ」
白羽が葵に金を渡した。それからもう少し足した。
「これは、授業料だ。料理を教える対価とは釣り合わないが」
「いえ、こんなに」
「取っておけ」
白羽が言った。有無を言わせない声だった。剣術の時の、いつもの白羽の声だった。
葵はそれを受け取った。
白羽が帰っていった。
葵はその背中を見送った。それから、龍のエプロンをまだ着けたままだったことに気づいた。金色の龍が、玄関の明かりで光っていた。




