第148話 虎爪の軌道
放課後の道場は、木の匂いがした。
葵が道場に入ると、中はもう人で埋まっていた。
前に来た時より人が増えている。葵は少し驚いた。見ない顔が多かった。体格からして、一年生らしい者が何人もいる。
葵が立っていると、一人の先輩が近づいてきた。穏やかな顔をした、背の高い、三年の先輩だった。
「ルカ先輩」
「やあ、小春くん、しばらくぶりだね」
ルカはにこやかに笑った。
「今日は、フィオナさんは?」
ルカが葵の後ろを覗くようにして聞いた。
「フィオナさんは、忙しくて」
葵は答えた。
「今度、剣術部に行く気があるか、聞いてみますね」
「ぜひ。あの人が来ると、稽古が締まるよ」
ルカは笑った。葵は道場を見回した。一年生らしい顔が、いくつもある。
「先輩、一年生、増えましたね」
「ああ、今年は多いよ。にぎやかになった」
葵はその一年生たちを見た。
ふと自分の入部試験のことを思い出した。大人数に囲まれて一斉に襲われる。あれをくぐり抜けて入った。
「みんな、あの試験を、突破したんですか」
葵が聞くと、ルカは少し驚いた顔をした。それから笑った。
「あの試験? そんなわけないじゃん」
ルカはおかしそうに肩を揺らした。
「あんな試験、普通やらないよ。みんな見学に来て、何回か稽古に出て、それで入部。君のあれは、特別」
「特別?」
「うん。部長が、君にだけやったやつ。やるって聞いた時は、みんな驚いてたよ。そんなの突破出来る一年がいるのかって」
葵は一年生たちを、もう一度見た。
そうだったのか、と思った。あの試験は自分だけのものだった。みんながあれを受けたわけではなかった。
なぜ自分にだけ、と葵は少し考えた。
でも、答えは出なかった。
「しばらく来ることが出来ず、申し訳なかったです」
「まあ、みんないろいろあるからね。家の用事でしばらく来ない人もいるし」
ルカは道場の隅の方を見た。
「うちは、いいところの家の子も多いから。当主の代理で式典に出るとか、そういう用で、何週間か顔を出せない人もいる。部長は、気にするなって言ってる」
「そうなんですか」
「うん。来られる時に来ればいい、って。さ、準備運動から入ろう」
葵はまた道場を見回した。一年生たちが、列を作って素振りをしている。木刀を上下に振る、基本の動きだった。
その向こうで、別の一団が素振りをしていた。
葵は目を凝らした。
そちらの人たちは手足に何かを巻いている。重りだった。それでいて振りに乱れがない。重りをつけたまま、当たり前のように素振りをこなす。
葵は今になって気づいた。あの人たちは重りをつけている。前に来た時もつけていたのかもしれない。葵はそれに気づいていなかった。
「ああ、あれ」
ルカが葵の視線を追って言った。
「あっちは、ガチでやってる人たち。重りをつけて基礎をやる。負荷をかけてね」
「重りを」
「うん。僕らみたいな組も、慣れたらつける。けど、一年生はつけない」
ルカは自分の腕を軽く叩いた。葵が見ると、ルカの手首にも重りが巻かれていた。
「体ができてないのに負荷をかけると、かえって体を壊す。だから最初は負荷なし。基礎で体を作ってから、つけたい人がつける」
葵はその説明を聞いた。
知らなかった。同じ素振りでも、人によって負荷が違うこと。体ができる前に重りをつけてはいけないこと。
葵は今まで、そういうことを、考えたことがなかった。
「小春くんは、大変だね」
「白羽部長が、君を見るって言ってたよ。あの人の練習は、相当きついよ」
葵が道場の奥を見ると、白羽がいた。
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白羽は道場の中央に立っていた。
漆黒と純白の陣羽織。黒い袴。手に木刀を提げている。白羽はそこに、ただ立っているだけだった。それでも、その一画だけ、空気が張り詰めて見えた。
「葵」
白羽が葵を見た。
「来たな」
「はい。白羽先輩」
おととい蒼玲の誕生日で顔を合わせたばかりだった。葵は会釈した。
「ハロウィンの、約束だ」
白羽が言った。
「神刃家の技を、教えてやる」
葵は背筋を伸ばした。
「奥義の、虎爪ですか」
白羽の眉がわずかに動いた。
「いや」
白羽が言った。
「虎爪は、奥義ではない。神刃家の技では、初級だ」
「初級」
「ああ。ただし、一般的な戦技で言えば、中級の上に届く。神刃家の技は、初級でもその程度には難しい」
葵はその言葉を聞いた。神刃家の初級が、よその中級より上。白羽の家の剣がどういうものか、少し分かった気がした。
「やってみせる」
白羽が木刀を構えた。
何気ない構えだった。それでも、白羽が構えた瞬間、道場の音が遠くなった。重心、肩の落とし方、木刀の角度。すべてに無駄がなかった。
白羽が木刀を振った。
三閃だった。
速さに、葵の目が追いつかなかった。三つの斬撃が、ほとんど一つに見えた。空気を裂く音が、一拍遅れて、三度、重なって聞こえた。
「虎爪。速さで三度斬り、相手を引き裂く」
白羽が木刀を下ろした。
葵はその残像を頭の中で追っていた。
ふと、葵は思った。前に白羽が、木刀で金属の柱を断ったのを見たことがあった。あの威力は、尋常ではなかった。
「白羽先輩」
「なんだ」
「今さらですが、この技は、白羽先輩くらいの力がないと、できないのではないですか」
葵が聞くと、白羽は首を振った。
「それは違う」
白羽が言った。
「虎爪は、力の技ではない。速さと、軌道の正確さの技だ。技量で成立する。だから、お前に向いている」
白羽は、木刀を葵に向けた。
「ただし、そこに力が乗れば、威力は上がる。私が柱を断つのは、技の上に、力を乗せているからだ。だが、それは応用だ。技そのものは、力ではない」
葵は頷いた。
技量の技だから、自分にもできる。力が足りなくても、速さと正確さがあれば成立する。そういう技だった。
「やってみろ。まずは、ゆっくりでいい」
白羽が言った。
「速さは、後だ。先に、軌道を体に覚えさせろ」
葵は木刀を構えた。
白羽の三閃を思い返す。一つ目の軌道、二つ目、三つ目。
葵は、ゆっくりと木刀を動かした。
速さは出さなかった。ただ、刀の通る道をなぞるように振る。一つ目。二つ目。三つ目。
剣の素振りは何度もやってきた。刀も似ていた。振る動作そのものは、葵の体にある程度入っていた。だが、虎爪の三つの軌道は剣の振りとは違った。なぞるたびに、どこかがずれた。
「そこだ」
白羽が言った。
「二つ目から三つ目への返しが、遠い。手首で返せ。腕を大きく使うな」
葵はもう一度なぞった。
手首で返す。腕を大きく使わない。
「それでいい」
白羽が言った。
「軌道は、悪くない。あとは、これを体が覚えるまで何百回も繰り返す。速さは、そのあとで勝手についてくる」
葵はゆっくりと、虎爪の軌道をなぞり続けた。
何度も、何度も。一つ目、二つ目、三つ目。手首で返す。
白羽はその隣に立って、葵の太刀筋を見ていた。時折、短く言葉をかける。角度が違う。返しが遅い。そこだ。
葵はその一つ一つを、体に刻んでいった。
白羽は葵が振るのを、ずっと見ていた。その立ち姿は、まっすぐだった。背に、一本の芯が通っている。
この人は、本物の剣士だ。
葵は、なぞりながら、そう思った。
葵が一区切りついて顔を上げると、白羽と目が合った。
白羽は小さく頷いた。




