第133話 禁じられた輝き3
クルシチキの皿を片付けて、手を拭いたころだった。
テレビの時間になって、アーデルがリビングに来た。お風呂上がりだった。髪がまだ少し湿っていて、いつものスラックスではなく、ゆったりとした部屋着の上にローブを羽織っていた。
アーデルとテレビを観るのは、もう何度目かになる。蒼龍伝も、その前のドラマも、こうして一緒に観てきた。葵はそれを、いつものことだと思っていた。
「先生、お風呂上がりですか」
「ああ」
「これ、よかったら」
葵は小皿に、クルシチキを二つ載せて渡した。
「明日、蒼玲先輩の誕生日会に持っていくお菓子です。今日は練習で作りました。夜なので、少しだけですけど」
アーデルは皿を受け取って、一つ手に取った。端を小さくかじる。
ぱり、と音がした。
「……軽いな」
「よかったです」
アーデルはもう一つ食べた。それから、皿を持ったまま、ソファの方へ来た。
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ソファは二人がけだった。
アーデルが隣に座った。いつものように、半分以上がアーデルの側になる。葵の肩のあたりに、アーデルの腕がある。隣から、風呂上がりの体温が伝わってきた。葵にとっては、もう見慣れた距離だった。
ライラが葵の膝の上で、小さく丸まった。残った隙間に、葵はリモコンを取った。
「先週の続きですね。ラブ・アルゴリズム、先生と子犬」
「……0.1%の、か」
「はい。ミニョクさんの話です」
葵はテレビをつけた。
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画面に、夜のソウルが映った。
ホログラム広告が、街じゅうで光っている。立ち止まった男女が手首を翳すと、二人のあいだに数字が浮かぶ。先週も観た、適合率の街だった。
「また、あの数字か」
「相性を数字で出す世界ですね」
アーデルは何も言わなかった。先週、この数字を「数字が人間の縁を決めるのか」と低い声で言っていた。今夜は、それも言わなかった。
画面が変わった。蒼龍伝のときと、何かが違った。
蒼龍伝のとき、アーデルはよく喋り、淡々とおかしなところを指摘した。その指摘が、葵には面白かった。
このドラマでは、アーデルはほとんど喋らない。
たぶん、おかしなところがないからだ、と葵は思った。
蒼龍伝は、面白かった。賊が急に湧いたり、倒れていた人が急に立ち上がったり、雪と雨が都合よく降ったりする。でも、それが全部面白い。減るところがひとつもなくて、足し算だけで、満点を超えていくようなドラマだった。
このドラマは、違った。引き算と足し算ではなかった。最初から決まった場所に、ぜんぶが置かれていた。あとから効いてくるように、静かに、計算されていた。
どちらも面白い。種類が、違うだけだ。
「先生、このドラマ、よく出来てますね」
「……そうだな」
「蒼龍伝とは全然違うのに、どっちも面白いです」
アーデルが少しだけこちらを見た。何か言いかけて、画面に視線を戻した。
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画面が古い建物に変わった。
廃校になった小学校の、図書室だった。夏の光が差している。窓の外から、蝉の声がしていた。
十歳くらいの男の子が、隅の机に一人で座っていた。膝を抱えて、俯いている。制服のシャツが、少し汚れていた。
「子供のころの、ミニョクさんですね」
「……ああ」
ドアが開いて、女の子が入ってきた。本を抱えている。男の子に気づいて、止まった。
男の子は顔を上げなかった。
女の子も、何も言わなかった。少し離れた机に本を置いて、椅子を引いて、座った。本を開いた。
それだけだった。
男の子が少しだけ顔を上げた。
「……一緒にいてくれるんですね」
「そうみたいだな」
アーデルの声は、静かだった。
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何日か経った様子が映った。男の子は、少しずつ女の子の近くの席に座るようになっていた。
ある日、女の子が本を声に出して読み始めた。誰に読むでもない、ひとりごとのような声で。
男の子が少しだけ前のめりになって聞いていた。
読み終わって、女の子が本を閉じた。
「また明日も来ていいよ。ここ、誰も来ないから」
男の子が口を開いた。
「……先生?」
女の子が顔を上げた。少し驚いた顔をして、それから笑った。
「先生じゃないけど。……まあいいか。先生でいいよ」
男の子が笑った。
ほんの少しだけ。たぶん、その夏で初めて、笑った。
葵はその顔を見ていた。
「……よかった」
アーデルは、何も言わなかった。画面を見たまま、動かなかった。膝の上のライラが、少し身じろぎした。
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場面が暗いフロアに変わった。
大人になったミニョクが一人で機械に向かっていた。先週も見た、深夜の管理局だった。
ミニョクが自分の名前を入力する。それから、もう一つの名前を入力した。オ・ソユン。さっき図書室にいた女の子だった。
処理が始まる。光の粒子が集まって、収束する。
0.1%
赤黒い光がフロアを染めた。
「……また、その数字か」
アーデルが言った。
ミニョクは、長いあいだ動かなかった。それから、画面を閉じて、もう一度開いた。同じ名前をもう一度入力する。
0.1%
変わらなかった。
「自分で作った機械に、いちばん会いたい人とは、ほとんど縁がないと言われたんですね」
「……そうだな」
ミニョクが低い声で呟いた。「システムが、僕を否定した」。少しの沈黙のあと、もう一言。「……それでも」。
その先は、言わなかった。
アーデルが何か言いかけた。やめた。画面から、目を離さなかった。
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場面があの古い本屋に戻った。記憶の栞。
ミニョクが、毎朝のように通っていた。何を買うでもなく、棚の前に立って、コーヒーを出されて、少しだけ話して、帰る。ソユンは、詮索しなかった。
「何か探してるの?」
「……いえ」
「じゃあなんで来たの」
「……本が好きです」
葵は少し笑った。
それから、店に管理局の同僚が訪ねてくる場面があった。ミニョクが、本屋に通っていることを、どうにかごまかそうとしていた。
「視察だ」
「古本屋の視察ですか」
「……文化的調査だ」
葵がまた笑った。
「先生、この人、嘘が下手ですね」
「……そうだな」
アーデルの声に、少しだけ、ほどけたものが混じった気がした。葵は横を見た。テレビの光が、アーデルの頬を青く染めていた。
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ある日、ソユンが棚を整理しながら、ひとりごとのように言った。
「ミニョクくん、適合率って、調べたことある?」
ミニョクの手が止まった。
「……あります」
「私、調べたくないんだよね。なんか、機械に決められたくなくて」
ミニョクは、何も言わなかった。
葵は、その場面を静かに見ていた。ミニョクは、自分で機械を作った人だ。その人の前で、ソユンが「機械に決められたくない」と言う。ミニョクは、それでも何も言わなかった。
アーデルも、何も言わなかった。
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ラストシーンだった。
朝だった。ソユンが店を開けると、もうミニョクが立っていた。
「早いね」
「……普通です」
「六時半だけど」
「……早起きです」
ソユンがミニョクの手元を見た。傘があった。
「……傘、持ってきた?」
ミニョクが傘を少し持ち上げた。
ソユンが空を見上げた。雲ひとつない、晴れた朝だった。
「晴れてるけど」
「……念のため」
ソユンが、少しのあいだ、ミニョクを見ていた。それから、店のドアを大きく開けた。
「ゆっくりしていって」
ミニョクが店に入っていった。
エンディングが流れ始めた。
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葵はテレビを消した。
部屋が少し暗くなった。窓の外で、夜の風が鳴っていた。
「あの女の子が、先生だったんですね」
「……ああ」
「子供のころに、一人でいたミニョクさんの隣に、座ってくれた人」
葵は膝の上のライラの背を、そっと撫でた。
「だからミニョクさん、あの店に通うんでしょうね。あそこにいると、安心するから」
アーデルは、答えなかった。
葵は、画面の消えたテレビを見ていた。それから、ふと思い出したように言った。
「先生」
「なんだ」
「僕、先生の家に来てから、安心して暮らせています」
アーデルが葵の方を見た。
「傭兵に襲われて、理由は、今もよく分からないんです。だから、また来るかもしれない。それで、先生の家に置いてもらうことになって」
葵は自分の手のひらを少し見た。
「でも、ここに来てから、夜にそういう心配をしないで眠れます。朝も、普通に起きられて、普通にご飯を作って、学校に行けます」
葵はアーデルを見た。
「当たり前みたいに過ごしてますけど、たぶん、当たり前じゃないんですよね。改めて、ありがとうございます」
アーデルは、すぐには答えなかった。
葵の顔を、少しのあいだ見ていた。それから、視線を自分の膝のあたりに落とした。
「……礼を言われることではない」
「でも、言いたかったんです」
アーデルは、それ以上、何も言わなかった。
立ち上がった。空になった小皿を持って、流しの方へ歩いていく。
「おやすみ」
「おやすみなさい、先生」
足音が廊下を遠ざかっていった。扉の閉まる音がした。
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リビングが、静かになった。
ライラが葵の膝から降りた。アーデルの部屋の方を、しばらく見ていた。
「ライラ?」
「……葵は、悪くない」
「え?」
ライラは、それ以上、答えなかった。葵の胸元に戻って、小さく丸まった。
葵は、首をかしげた。それから、テレビの方を見た。画面はもう、暗いままだった。
明日は、誕生日会だ。クルシチキを、ちゃんと揚げよう。
そう思いながら、葵は明かりを落とした。




