第134話 合同演習
火曜の朝は、晴れていた。
一限は数学・物理だった。黒板に数式が並んで、教師の声が淡々と続く。葵は窓際の席で、ノートを取りながら思った。
今日は、蒼玲先輩の誕生日だ。
午後のスタディホールで、ダンジョンに潜って羽根を拾う。それまでは、いつも通りの授業だった。葵はペンを動かした。
二限は、契約説法だった。
アーデルが教室に入ってくる。昨夜、リビングで一緒にドラマを観た人と、同じ人だった。でも今は、教壇に立つ教師の顔をしている。葵もそれを、いつも通りに見ていた。
「今日は、契約の種類を扱う」
アーデルが黒板に文字を書いた。召喚、使役、契約。
「神魔の力は、人間にとって圧倒的だ。ただ呼び出しただけでは、その力を制御できない。術者自身が傷つき、ときに命を落とす」
教室が、静かになった。
「だから、力をどう御するかで、関わり方が分かれる。一つは、縛ること。呪符や神器で神魔の意志を抑えつけ、従わせる。これを使役という。もう一つは——」
アーデルが「契約」という文字に丸をつけた。
「魂の合意で結ぶこと。これが契約神魔だ」
葵は胸のポケットのあたりを意識した。ライラは今、その中で眠っている。
「契約神魔とは、術者と神魔のあいだに、魂の繋がりが生まれる関係だ。一生に、一体。深く結ばれ、互いに響き合う。いいか、よく聞け。この繋がりは、契約神魔にしか生まれない。ただ召喚しただけ、ただ使役しただけでは、魂は繋がらない」
学園契約で神魔を得たばかりの生徒たちが、何人か、手元のノートに目を落とした。自分の神魔とのことを、思い浮かべているのかもしれなかった。
葵は、ペンを止めた。
魂の繋がり。
ライラとのことなら、分かる。ライラとは、確かに繋がっている。言葉にしなくても伝わる、あの感覚。それが契約神魔なのだと、納得がいった。
けれど。
葵は、フィオナのことを思い出していた。一時的に力を借りる、あの呼び方をしたとき。あれは、契約神魔のような永続の結びつきではない。終われば、散ってしまう。なのに、あのとき確かに、繋がっている感覚があった。召喚や使役とは、違った。
アーデルは、繋がりは契約神魔にしか生まれないと言った。
でも、自分のあれは、繋がっている。
なぜだろう。
その疑問は、口に出さなかった。あの力のことは、世間では誰も知らない。リースと、アーデルと、自分だけが知っている。葵はペンを握り直して、また黒板に目を戻した。
「先生」
声がした。セレンだった。
アーデルが頷く。
「前の演習で……葵が、血の魔法陣から、ピクシーを呼んだ。あれは、使役なの?」
葵は、セレンの方を見た。セレンは、いつもの静かな目をしていた。
アーデルが少し間を置いた。
「使役には、二つのものが要る。縛るための儀式と、縛られる神魔の、実体だ」
アーデルは黒板の「使役」の字を指した。
「あのとき、演習の前に検査が行われている。使役の儀式の痕跡は、なかった。縛られるべき神魔の実体も、その場にいなかった。だから、使役ではない」
「じゃあ……ただの、召喚?」
「いや」
アーデルは首を横に振った。
「あの演習場には、結界が張られていた。過去に、制御できない神魔を呼び出して、相手を倒させようとした者がいてな。それ以来、演習では契約神魔以外の召喚を封じる結界を張ることになっている。デュボワのケルベロスは、契約神魔だから通った。だが、契約神魔でないものは、本来、呼び出せないはずだ」
教室の何人かが、葵の方を見た。
「なのに、小春は呼び出した。使役でもなく、通常の召喚でもない」
アーデルの視線が、一瞬、葵に向いた。それから、黒板に戻った。
「何なのかは——分からん」
葵は、黙っていた。
それが何なのか、葵は知っていた。けれど、アーデルが言わないことを、葵も言わない。セレンは、まだ葵の方を見ていた。何かを確かめるような、静かな目だった。
授業は、次の項目へ進んでいった。
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昼は、茜とセレンと三人で食べた。
中庭のベンチだった。茜が葵の隣に座って、セレンがその向かいに座る。茜はいつものように、葵の少し近くにいた。
「葵」
茜がお弁当の卵焼きを一つ、葵の方に寄せた。
「これ、あげる」
「いいの? ありがとう」
茜が小さく頷いた。それから、何でもないことのように言った。
「今日から、わたしも演習に出るんだ。葵と、一緒のところで」
「そうなんだ。茜も選ばれたんだね」
「うん」
茜は卵焼きを一口食べた。口元が、少しだけ緩んでいた。
「これからは、午後も……一緒にいられるね」
セレンが向かいで静かに食べていた。それから、ぽつりと言った。
「わたしも、いる」
「うん。セレンも、一緒だね」
葵が言うと、セレンは小さく頷いて、また食べ始めた。茜が、セレンを横目で見て、少しだけ唇を尖らせた。それから、また葵の方を向いた。
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三限は、魔法実戦演習だった。
演習場に出ると、いつもより人が多かった。葵たちSクラスの二十人ほどに加えて、見慣れない顔が十数人いた。Aクラスと、Bクラスの生徒たちだった。みんな、少し緊張した面持ちで整列している。Aクラスの方が多くて、Bクラスは数人だけだった。
これまで、魔法実戦演習はSクラスだけで行われていた。他のクラスの生徒が混じるのは、今日が初めてだった。
ハルトマンが前に立った。
「今日から、合同で行う」
低く、よく通る声だった。
「学園契約で、契約神魔を持つ者が増えた。多様な神魔と戦う経験は、全員の糧になる。Aクラス、Bクラスの選抜者にとっては、上位への挑戦と、審査の機会だ」
選抜組の何人かが、背筋を伸ばした。
「ルールを説明する。Sクラスの者は、契約神魔を出すな。術者のみで、相手の神魔を捌け。これは対神魔防御の訓練だ。選抜者は、神魔を存分に使え。格上に、どこまで通用するかを見せろ」
葵は頷いた。神魔を出さない。それなら、ちょうどいい。
「全員、即死防止ブレスレットに加えて、演習用の護符をつけろ。攻撃を受けると、護符がダメージを肩代わりする。護符が砕けたら、その時点で負けだ」
ハルトマンが配られた護符を見回した。
「神魔は、大きな傷を負えば、元いた世界に帰る。傷が癒えるまでは、呼び出せない。滅多なことでは、死なん。だから、神魔を殺す気で戦え。遠慮はいらん」
選抜組の何人かが、顔を見合わせた。相手の神魔を、殺す気で。そう言われて、すぐに頷ける者は、多くなかった。
殺す気で。葵は、その言葉を頭の中でなぞった。胸のポケットに、ライラの小さな温もりがある。眠っているライラの、規則正しい呼吸が、布越しに伝わってきた。
神魔は、大きな傷を負えば帰る。死なない。葵は、ゴーレムのことを思い出していた。
岩でできた、大きな体。何度も葵の前に立って、盾になってくれた神魔だった。攻撃を受け止めて、葵を守って、それでも崩れなかった。
けれど、あのとき——ライジュウの雷を受けて、ゴーレムは帰っていった。
葵は少し引っかかっていた。ゴーレムの体は石だ。雷で受けるダメージは、本当なら少ないはずだった。大きな傷を負って帰ったのとは、違う気がした。何度も盾になって、攻撃を受け続けて、それから、たいして効かないはずの雷で帰った。
——もしかして。
葵は思った。契約神魔が、積み重なった傷で帰るのは分かる。でも、一時的に力を借りるあの呼び方では、神魔が受けられる傷の総量が、本来より少ないのかもしれない。長くは保たない。たくさんは受けられない。だから、積もった分に最後の小さな一撃が乗って、帰ってしまった。
それなら。葵は、胸のポケットの中のライラを思った。
ライラは小さい。か弱い種族だ。神魔は大きな傷を負っても帰るだけで死なない、とハルトマンは言った。でも、ライラのような神魔は、どうだろう。帰る間もなく、一度の致命傷で、そのまま死んでしまうかもしれない。
葵は胸のポケットの上に、そっと手を置いた。
ライラだけは、戦わせない。そう思った。
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ハルトマンが組み合わせを告げた。
「同じ属性を持つ者同士で、ペアを組む。属性が近ければ、相手の神魔への対処も、実戦に近くなる」
葵は自分の名が呼ばれるのを待った。
「小春と、夕凪」
茜だった。茜は光属性。葵も光の魔法が使える。だから組まされたのだろう。茜が少し離れたところから葵を見て、小さく頷いた。
「二組ずつ、同時に行う。私とオリビアが、それぞれ見る」
オリビアがもう一方のコートへ歩いていった。その頭の上に、ライラがちょこんと乗っている。いつの間にか髪に潜り込んでいたらしい。葵と目が合うと、小さく手を振った。
「ライラ、そこで見てるの?」
「うん。葵、頑張って」
ライラは戦わない。戦わせない。オリビアの頭の上は、ちょうどいい特等席だった。
葵はコートに立った。向かいに茜がいる。
「葵。わたし、手加減、しないから」
「うん。来て」
茜が詠唱を始めた。
足元の石畳に、光が滲んだ。最初は淡く、やがて目を灼くほどに。光の粒子が空へ立ち上り、ひとつの形へと凝っていく。銀の装甲が肩を覆い、しなやかな四肢が伸び、兜のごとき面の奥に、青い双眸がひらいた。長い聖杖が、音もなく顕れる。
ドミニオンだった。
主天使。天の統治を地に広め、下位の天使を率いる位階の存在。その全身から、厳かで、温かな威光が放たれていた。温かいはずのその光が、向かい合う葵の肌には、ひりつくように触れた。演習場の空気が、神域のそれに変わっていく。周りの生徒が、声もなく後ずさった。誰かが、息を呑んだまま動けずにいる。
これは、試練の場だ、と葵は思った。
神話の中で、人が神の前に引き出され、その資格を問われる、荘厳な関門。ドミニオンの青い瞳は、葵を睨んではいなかった。敵意はない。ただ静かに、挑む者を見定めていた。その目に見つめられて、生徒たちは天の威に打たれ、頭を垂れるように俯いた。
葵だけが、まっすぐ前を見ていた。
天の試練を前にして、葵の足は震えなかった。一歩も退こうとしない。なぜそうなのかと、葵自身は考えもしなかった。ただ、向き合うべきものが目の前にあって、向き合っているだけだった。
「天使様」
茜が、ドミニオンの背にそっと触れた。
「葵と戦って。でも——絶対に、傷をつけたらダメだからね」
ドミニオンが、聖杖を構えた。光属性同士の試合だ。葵も、指先に光の魔力を集めた。掌の中で、光が糸のように撚られ、熱を持っていく。
ドミニオンが動いた。
優美な体躯からは信じられぬ速さだった。聖杖が、横ざまに薙いでくる。風の刃が空気を裂く音を、葵は皮膚で聞いた。身を沈めてかわす。杖の先が、髪を数本かすめて流れていった。
葵は、茜を見ない。ドミニオンの動きだけを、目で追った。
茜が狙うのは葵の護符。ドミニオンを壁にして己を守りながら、葵の護符を割りにくる。葵が狙うのは、その奥にいる茜の護符。茜の体は傷つけない。ドミニオンも傷つけない。護符だけを、掠めるように。
ドミニオンの聖杖から、光の奔流が放たれた。葵は掌の光を薄く引き伸ばし、盾に変えて受け流す。光と光がぶつかり、視界が白く灼けた。その白の中を、葵は横へ滑り込む。網膜に残る残光を頼りに、ドミニオンの脇をすり抜けた。
指先の光が、茜の肩の護符に、紙一重で触れた。
「っ……」
茜が息を呑んだ。護符は割れていない。掠めただけだ。割りにいく前に、ドミニオンの聖杖が、それより速く間に滑り込んでいた。葵の手は弾かれた。掌に、硬い光の感触が残った。
「葵、本気だね」
茜の声が、弾んでいた。嬉しそうだった。
ふたたびドミニオンが杖を振るう。葵はかわし、受け流し、また護符を掠めにいく。茜はドミニオンを操り、葵の護符へ手を伸ばす。光が幾度も交わり、そのたびに白い火花が爆ぜ、二人の影を壁に焼きつけた。
互いに、あと一歩が届かない。
茜は、葵を傷つけまいとして、攻めにわずかな迷いがあった。葵は、茜の体を傷つけまいとして、護符だけを狙い続けた。神の試練は、退けられることも、踏み越えられることもなく、ただ拮抗の中に張りつめていた。
時間が来た。
「引き分け」
ハルトマンが告げた。
ドミニオンが、光の粒子へと解けていく。来たときと同じ静けさで、天の威が薄れ、演習場はもとの石畳に戻った。張りつめていた空気が緩み、生徒たちがようやく息を吐いた。
茜が、その背を見送って、それから葵を見た。
「葵、強いね」
「茜も。ドミニオン、きれいだった」
茜が少しだけ笑って、何か言いたそうにして、結局、何も言わなかった。
隣のコートでは、颯が風の神魔を呼び出して蒼嵐と戦っていた。颯のシナツヒコがつむじ風を起こすたび、蒼嵐が涼しい顔で風の魔法をそれに当てて散らしていく。
「うわ、効かない! なんでだよ!」
「お前の風は、まっすぐすぎる」
「蒼嵐、お前さ、性格悪いって言われない?」
「言われない」
そう言う蒼嵐の口元が、少しだけ笑っていた。颯も笑っていた。さっき初めて組んだとは思えないほど打ち解けている。風使い同士、蒼嵐は風の魔法が得意だから颯の相手に選ばれたのだろう。葵はちらりとそれを見て、また自分のコートに目を戻した。
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ほとんどの組が、引き分けに終わった。
格上のSクラスを相手に、選抜組はよく抵抗した。神魔を使っても、Sクラスの術者を崩しきるのは難しい。Sクラスも、相手の神魔を捌きながら術者の護符に届かせるのは骨が折れる。引き分けは、当然の結果だった。
その中で、一つだけ決着がついた試合があった。
セレンだった。
セレンは、契約神魔を出さなかった。神魔を使っていい立場なのに、術者だけで、Sクラスの女子生徒と向かい合っていた。
葵はその試合を見ていた。セレンの動きは静かだった。派手な魔法は一つもない。短い詠唱と無詠唱の初級魔法を、相手の意識の隙間に滑り込ませる。相手が大きな魔法に気を取られた一瞬、小さな魔法が護符の同じ一点を、何度も叩いていた。相手が気づいたときには、護符に罅が入っていた。最後の一撃で、護符が砕けた。
「勝負あり」
オリビアが告げた。
一瞬、演習場が静まりかえった。それから、ざわめきが広がる。神魔を出さずに、Sクラスを落とした。あり得ない、という顔が、いくつもあった。Sクラスの生徒たちが、セレンの方を見ている。
セレンは表情を変えなかった。相手に小さく頭を下げ、それから葵の方を見た。葵が見ていたことに、気づいていたらしい。
葵は素直に思った。セレン、すごいな、と。
近くで、声が聞こえた。
「……あの女子生徒は、何者だ」
ルシアンだった。エリックと並んで、セレンを見ている。その目が、わずかに細められていた。
「神魔も出さずに、Sクラスを落とした。護符の一点だけを、ずっと狙い続けて。あの精度は、普通じゃない。どこのクラスの、誰だ」
「さあな」
エリックも、セレンから目を離さなかった。普段は何にも動じない男が、その横顔を、じっと追っていた。
葵は、その横で聞いていた。ルシアンたちは、セレンの名前を知らないのだ。今日初めて、他のクラスから来た生徒だから。葵にとっては、いつも一緒にダンジョンに潜る友達のセレンだった。だから、ルシアンたちのように身構える気持ちには、ならなかった。
セレンは強いなあ、と思っただけだった。
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「今日はここまでだ」
ハルトマンが全員を集めた。
「初めての合同にしては、悪くない。選抜組は格上によく抵抗した。Sクラスは、神魔への対処を体で覚えろ」
それから、少しだけ間を置いた。
「一つ、見事な試合があった。神魔を使わずに勝った者がいる。よく見ておけ。力の使い方は、一つではない」
セレンは何も言わず、列の端に立っていた。
次はスタディホールだ。ダンジョンに潜って、天使の羽根を拾う。蒼玲先輩の、誕生日のために。
胸のポケットの中で、ライラがもぞもぞと動いた。




