第132話 天使の羽
夕食はアーデルとオリビアと三人で食べた。
ラム肉はもうなくなっていた。フィオナの発注ミスで冷蔵庫を埋めていた肉も、五日かけて使いきった。今夜は鶏と根菜を煮たものを出した。アーデルは無言で食べて、食べ終わると「うむ」と言った。オリビアは前髪の隙間から葵を一度見て、それから箸を取った。
片付けが済むと、二人はそれぞれの部屋に戻っていった。
葵はソファに座って、端末を見ていた。
明日は蒼玲の誕生日だった。
誕生日会に呼ばれている。皇女の誕生日会だから、ご馳走も余興も、何もかも向こうが用意するのだろう。イレムは「行くだけで借りが増えちゃうかもね」と言っていた。
葵は何を持っていけばいいのか、まだ決めていなかった。
ライラが胸元から出てきて、端末の画面を覗き込んだ。
「葵、何か買うの?」
「うん。何がいいかな」
蒼玲は、たいていのものを持っているだろう。大龍帝国の皇女で、レアカードをアタッシュケースに詰めて持ち歩く人だ。高い物を贈っても、たぶん同じ物が家にいくつもある。
葵は天井を見た。
明日のスタディホールで、ダンジョンに潜る。十一層から二十層は、天使の層だった。天使の羽根が落ちる。
その羽根を拾って、加工して、何かに添えたら。
僕にしか作れない物になるかもしれない。
「ライラ、明日、天使の羽根を拾おうか」
「蒼玲に、あげるの?」
「うん。僕が安定させた羽根なら、たぶん、他に同じ物がないから」
ライラが少し考える顔をした。それから、こくりと頷いた。
葵は端末を持ち直した。羽根はメレク・ルーメンの商品だ。一枚勝手に使う前に、イレムに断っておいた方がいい。
『イレム先輩、明日のスタディホールで天使の羽根を拾うんですけど、一枚、蒼玲先輩の誕生日プレゼントに使ってもいいですか』
送ってすぐ、既読がついた。
『いいよー』
『蒼玲ちゃんに、あげるの?』
『はい。お菓子に添えようかと思って』
返事は、少し間があってから来た。
『うん、いいよ。羽根のことなら心配いらないからね。アービターにちゃんと特許出してあるの。蒼煌おじ様にだって、真似はさせないよ』
葵は、その一文を二度読んだ。
特許。
天使の羽根に大量の魔力を流すと、形が固定される。その方法のことだ。羽根そのものを誰かが手に入れて、調べれば、やり方は分かってしまう。大量の魔力さえ流せば安定する——それだけのことだから。
蒼煌おじ様。蒼玲の父で、天龍集団の頂点に立つ人。
葵は、土曜の夜に観たドラマを思い出した。
『蒼龍伝』の蒼煌は、民の飯を汚されて怒り、紫禁城に単騎で突入する人だった。傷だらけになっても何度も立ち上がって、民を守って、最後は空を見上げて「まだ民の涙は乾いていない」と呟く。アーデルが「史実通りではない」と言っていたけれど、葵にはとても良い人に見えた。
『先輩、蒼煌さんって、人の作った物を真似したりするんですか』
『……えっ』
『ドラマだと、すごくいい人だったので』
少し間が空いた。
『葵くん、あれはドラマだよー』
『天龍集団が、自分のところのお偉いさんを格好良く描いてるだけなの。本物の蒼煌おじ様は、商売の世界では何でも飲み込む人だよ。いい物があれば、合法でも、合法じゃなくても、手に入れる。そういう人なの』
葵は画面を見たまま、少し黙った。
そういうものなのか。
『じゃあ、僕が羽根を渡したら』
『調べられて、真似されたかもしれないねー。だから特許で押さえてあるの。葵くんの羽根は、葵くんとメレク・ルーメンのものだよ』
葵は、そこまで考えていなかった。
羽根を一枚、ただ蒼玲への贈り物に使うことしか、考えていなかった。
『先輩、僕、そんなこと、考えていませんでした』
『あはは。葵くんはそういうとこあるよねー』
『いろいろ、ありがとうございます』
『どういたしまして。プレゼント、頑張ってね』
葵は端末を膝に置いた。
イレムは、いつも先回りしている。葵が気づきもしないところを、とっくに見て、守ってくれている。
ありがとう、ともう一度思った。
ライラが画面を覗き込んだまま言った。
「イレム、葵のこと、よく見てる」
「うん。すごい人だよ」
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プレゼントは羽根に決まった。あとは、その羽根に何を添えるかだった。
葵は端末で菓子を調べた。羽根に合う菓子。天使の羽根に、似合うもの。
しばらく指を動かしているうちに、一つの菓子が出てきた。
クルシチキ。
東欧の揚げ菓子だった。別の名を、天使の羽根という。薄く伸ばした生地をねじって揚げ、粉砂糖を振る。リボンのような、翼のような形をしていた。
葵はその写真を、ライラに見せた。
「これ、天使の羽根っていうお菓子なんだって」
「葵の羽根と、おそろい?」
「うん。おそろいだね」
ライラが嬉しそうに羽を震わせた。それから、画面をじっと見て、小さく頷いた。
「これ、作ったこと、ない」
「うん。初めて」
「葵、よく見て。揚げ物は、慌てると失敗する」
「うん。教えて」
材料は家にあるもので足りた。小麦粉、卵、バター、砂糖は少しだけ。それから、酒を少し入れるらしい。生地が油を吸わないようにするためのものだと、レシピに書いてあった。アーデルの戸棚に、料理用の蒸留酒がある。
葵は台所に立った。
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粉をふるいにかけると、白い山ができた。
真ん中をくぼませて、卵の黄身を落とす。バターを少し、砂糖をひとつまみ、塩をひとつまみ。
「酒は?」
「小さじ、一杯」
ライラが作業台の縁から覗き込んで言った。葵は小さじに蒸留酒を量って、くぼみに落とした。指で縁から粉を崩していくと、黄身とバターが混ざって、ゆっくり一つの塊になっていった。
葵は生地をひとつにまとめた。台の上に置いて、手のひらの付け根で押す。折って、また押す。粉っぽかった表面が、少しずつなめらかになっていく。
ここからが、この菓子のいちばん大事なところだった。
レシピには、生地を台に叩きつけて空気を入れる、と書いてあった。そうすると揚げたときに薄く膨れて、軽くなる。
葵は生地を持ち上げて、台に打ちつけた。
ぱん、と乾いた音がした。
「もっと」
ライラが言った。
「もっと、強く。中に空気を入れるの」
葵はもう一度、生地を持ち上げて、強く打ちつけた。ぱん。折りたたんで、また打ちつける。ぱん。手首を返すたびに、生地が台の上で伸びて、また縮む。
ライラが音に合わせて、肩の上で小さく跳ねていた。
「いい感じ。あと少し」
葵は手を止めなかった。打ちつけるたびに、生地の中に細かい気泡が入っていくのが、手のひらの感触で分かった。さっきまで重かったものが、だんだん軽く、しなやかになっていく。
五分ほど叩いて、生地を丸めた。布巾をかけて、少し休ませる。
その間に、葵はフライパンに油を引いた。少しだけ。試作だから、たくさんは揚げない。火にかけた。
ライラがフライパンの縁まで飛んでいって、覗き込もうとした。
「ライラ、危ないよ。油は熱いから」
「うん。でも、火、まだ。強くしすぎないで」
ライラは言うだけ言って、葵の肩まで戻ってきた。
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休ませた生地を、麺棒で伸ばした。
薄く、薄く。台に打ち粉をして、向きを変えながら伸ばしていく。生地は叩いた分だけよく伸びた。
「薄すぎ?」
「ううん。もっと薄く。向こうが、透けるくらい」
葵はさらに伸ばした。生地は紙のようになって、台の木目が透けて見えた。
葵は包丁で、生地を細長い帯に切った。一本ずつ、真ん中に短い切れ込みを入れる。それから、帯の片方の端を、その切れ込みにくぐらせて、くるりと裏返す。
ねじれた形になった。
たしかに、翼に似ていた。
「ライラ、できた。見て」
葵は手のひらに一つ載せて、ライラに見せた。ライラがそこに降りてきた。
「ここ、ちょっと、ねじれすぎ」
ライラは両手で、羽根の端をつまんだ。小さな手で、ねじれを少しだけ戻して、形を整える。翼の開き方が、左右で揃った。
「これで、いい」
「ありがとう、ライラ」
ライラは次の一つにも手を伸ばした。葵が形を作って、ライラが整える。二人でそれを、いくつか並べていった。
油から、細い泡が立ちはじめていた。
葵は生地を一つ、そっと油に落とした。
ぱちぱちと音が立って、生地がふくらんだ。フライパンの浅い油の中で、薄い層が持ち上がって、表面に小さな膨らみができていく。きつね色になる手前で、葵はそれを菜箸で返した。
「いい色」
ライラが肩の上で言った。
葵は数個を順に揚げていった。一つ落とすたびに、台所に甘い匂いと、揚げたての香ばしい匂いが立った。油の中で生地がねじれた形のまま固まって、本当に翼のように見えた。
揚がったものを、網に上げる。油を切って、熱が少し落ち着くのを待つ。
それから、粉砂糖をふるった。
白い粉が、翼の上にうっすらと積もった。雪のようだった。
「ライラ、味見する?」
葵は一つを小さく割って、欠片をライラの方に差し出した。ライラが両手で受け取って、端をかじった。
ぱり、と小さな音がした。
ライラの目が、ゆっくり細くなった。
「……軽い。口の中で、消える」
「よかった」
ライラはもう一口かじって、それで満足したように、葵の手のひらの上に座り込んだ。小さなお腹を抱えている。
「もう、おしまい」
「まだ味見だよ」
「おいしすぎる」
葵は少し笑った。
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そのとき、壁の穴からオリビアが顔を出した。薄いピンクのパジャマを着ていた。
「……いいにおいがして」
「クルシチキというお菓子を揚げていました。食べますか」
「……はい、食べます」
オリビアが穴をくぐってきた。パジャマの裾がわずかに持ち上がった。薄い生地がお腹のあたりをやわらかく包んでいた。丸みを帯びた輪郭が、生地をほんのりと押し返している。
ライラは葵の胸元に戻った。
葵は揚げたてを一つ、小皿に載せて渡した。まだ温かかった。
オリビアは両手で皿を持って、立ったまま、その端を小さくかじった。
ぱり、と音がした。
オリビアの肩が、わずかに動いた。
「……おいしい」
前髪の隙間から、葵を見る。それから、もう一口かじった。
「葵くんは、なんでも作れますね」
「ライラが手伝ってくれたんです」
オリビアは皿の上の翼を見て、それから、もう一度かじった。三口目だった。立ったまま、少しずつ食べていた。
オリビアが美味しそうに食べているのが、葵には嬉しかった。
「オリビア先生。家庭教師のお金、用意できそうです」
オリビアが、かじる手を止めた。
「……え」
「これから、ちゃんとお支払いできます。お忙しいところ申し訳ないのですが、よろしくお願いします」
オリビアは皿を両手で持ったまま、少し言いにくそうに口を開いた。
「……あの。一年生には、大変な額だと思います。無理を、していませんか」
「大丈夫です」
「ハルトマン先生には内緒で、無償でやっても……」
オリビアは前髪の奥で、目を伏せていた。
葵は、オリビアがそう言ってくれた気持ちが、嬉しかった。
でも、それは受け取れなかった。
「ありがとうございます。でも、ちゃんとお支払いします」
「……でも」
「先輩たちにお世話になって、今日、商売を始めたんです。天使の羽根を売る会社で。初めてのお金が入る目処がつきました。だから、もう無理はしていません」
ハルトマンが対価を取るように決めたのには、理由があった。オリビアが葵にだけ無償で教えていたら、他の生徒から、えこひいきだと思われる。それはオリビアのためにならないし、葵のためにもならない。ハルトマンは、そう考えたのだと聞いていた。
葵は、揚げたてのクルシチキをもう一つ、オリビアの皿に載せた。
「これからも、お願いします」
オリビアはその翼を見て、少し黙った。それから、小さく頷いた。
「……はい。こちらこそ」
前髪の隙間から、葵を見ていた。
頬が、少し赤かった。揚げ物の熱のせいかもしれなかった。
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オリビアは結局、三つ食べて、満足そうに自分の部屋へ戻っていった。壁の穴をくぐる前に、もう一度だけ振り返って、小さく頭を下げた。
葵は残りの生地を手に取った。
明日のスタディホールで、ダンジョンに潜って羽根を拾う。戻ったら羽根を加工して、それから食堂のキッチンを借りて、揚げたてを作る。クルシチキは、揚げたてがいちばんおいしい。今夜のうちに全部揚げてしまうと、明日には少し湿気てしまう。
だから、生地だけ残しておくことにした。
葵は生地を丸めて、ラップで包んだ。冷蔵庫に入れる。一晩寝かせておけば、明日はもっと伸ばしやすくなるはずだった。
「ライラ、明日、本番だね」
「うん。羽根、拾って、揚げる」
ライラが指を折るようにして数えた。
試作したぶんは、小皿に少し残った。葵はそれを別の皿に取り分けて、ラップをかけた。アーデルの分だった。夜に揚げ物は重いかもしれない。いらなければ、葵が食べる。
それから、洗い物をした。
ボウルと泡立て器と、麺棒と包丁。フライパンの油は、冷めるまで置いておく。粉のついた台を、布巾で拭いた。甘い匂いが、まだリビングに残っていた。
ライラが肩の上で、その匂いを吸い込むようにしていた。
「いい匂い」
「うん。明日も、これを作るんだよ」
「楽しみ」
葵は手を拭いた。
明日のことを、頭の中で並べた。羽根を拾う。加工する。キッチンを借りる。生地を伸ばして、ねじって、揚げる。羽根を添える。
それを、蒼玲に渡す。
喜んでくれるといい、と思った。
甘い匂いが、まだ少しだけ残っていた。




