第131話 メレク•ルーメン2
商業研究部の部室には、イレムだけがいた。
「葵くんー、待ってたよ」
イレムが机から顔を上げた。机の上には紙の契約書が二部、きちんと並べてあった。
「登記、下りたよー。今日から私たち、正式な会社」
「おめでとうございます、イレム先輩」
「何言ってるの。葵くんの会社でもあるんだよ」
イレムが笑って、向かいの椅子を勧めた。
「おめでとうは、お互いさまでしょ」
葵は席に着いた。契約書には、もう半分の署名が済んでいる。イレム・アイドゥン。流れるような筆記体だった。
「読んでみて。要点は三つね。会社の持ち分は、葵くんと私で半分ずつ。葵くんは羽根の加工技術と商品を出す。私はお金と経営と販路を出す」
「半分ずつ、ですか」
葵は顔を上げた。
「先輩は、工場の土地に二百万クレドも出してるのに」
「葵くんがいなきゃ、あの土地はただの空き地だよ」
イレムがあっさり言った。
「商品を作れるのは葵くんだけ。私は売るだけ。どっちが欠けても会社は成り立たない。だから半分こ。これが一番きれいな形なの」
葵は契約書を読んだ。難しい言葉も多かったけれど、イレムの言った三つのことが、確かに書いてあった。
「それと、毎月の取り分。葵くんを多めにしてあるから」
「えっ」
「持ち分は半分こ。でも毎月の働きは別。羽根を作れる数が、そのままうちの売上の上限なの。事業の心臓は葵くんの加工。働いた分はちゃんと受け取る。商売の基本」
葵は契約書を見て、それからイレムを見た。
先輩ばかり、出している。
「じゃあ」
葵は言った。
「僕の取り分の半分を、工場と用地の費用に出してください」
イレムの手が止まった。
「……どうして?」
「先輩ばかりお金を出すのは、釣り合わないと思います。僕も会社に出したいです。半分あれば、足しになりますか」
イレムはしばらく葵を見ていた。
それから、髪を一房、指でいじった。
「……足しになるどころじゃないよ。工場の建設費が丸ごと浮いちゃう。研究だって進められる」
声がいつもより、少しだけ低かった。
「葵くんって、ほんと、そういう人よね」
「?」
「なんでもなーい」
イレムはペンを取って、すらすらと条項を書き足した。それから契約書を回して、葵の前に置く。
「はい、ここにサイン」
葵はペンを受け取って、名前を書いた。小春葵。流れる筆記体の隣に、四つの文字が並んだ。
「これで葵くんは、メレク・ルーメンの共同経営者。よろしくね、社長その二」
イレムが二部の契約書を重ねて、一部を葵に渡した。
「あ、そうだ」
思い出したように、イレムが言った。
「もうすぐ浄化の人が来るよ。アービターの公募で受けてくれた、修道女さん。礼拝堂があるから、お祈りしてから来るってさ」
「お祈りしてから」
「敬虔な人なんだろうね。お仕事の前に祈るんだって」
葵は、会ったことのないその人を少しだけ想像した。
「それでね、葵くん。肝心の売値だけど」
イレムが契約書を片付けながら、さらりと言った。
「一枚三十万クレドで売るね」
「……はい?」
「三十万クレド」
葵は聞き間違いかと思った。三十万クレド。学食の定食なら、三万食。家が一軒、買える。羽根、一枚で。
「さすがにそれは、高すぎませんか」
「ふふー。そう言うと思った」
イレムは楽しそうに端末を操作して、宙に資料を広げた。数字とグラフが並んでいる。
「葵くんが安定化した羽根、専門機関に出して調べてもらったの。そうしたら、面白いことが分かってね」
イレムが羽根を一本、つまみ上げた。
「この羽根に残ってる魔力、上級魔法で三十発分くらい。葵くんが込めた分ね」
「三十発分」
「で、ここからが本題。分かりやすく言うとね」
イレムが羽根を光に透かした。
「天使の羽根って、放っておくと崩れちゃうでしょ。でも魔力を通すと、固まって、もう崩れなくなる。使い捨てカイロ、知ってる? パチンってやると固まって、そのまま冷めない。あれと似てるの。一回きっかけを与えると、安定した状態に切り替わる」
「カイロ」
「魔法のものって、けっこう理屈は科学っぽく動くのよ。リース先生がよく言ってる」
イレムが羽根を机に戻した。
「でね、問題はここ。この羽根、魔力をものすごく弾くの。抵抗が高いって言うのかな。だから安定させるのに、すごい量の魔力を通さないといけない」
イレムが指を折った。
「機械で同じことをやろうとすると、電気代だけで一枚九万クレド。三十万キロワット時——普通のお家の電気、六十年分。しかも核融合炉級の電力契約と専用設備がいる。そんな会社、世界にほとんどないの」
「九万クレド……」
「なのに葵くんは、その羽根を、もう安定させちゃってる」
イレムが葵を見た。
「どうやって込めてるのか、私には分からない。調査の人にも分からなかったって。でも、葵くんのやり方なら、機械よりずっと効率がいいのは確かなの」
葵は自分の手を見た。実感はなかった。いつも通り、魔力を流しているだけだ。
「だから三十万クレドは妥当——どころか、機械で作るうちは、良心的すぎるくらい」
イレムが端末を畳んだ。
「工場の研究はね、葵くんの込め方を、なんとか解き明かすのが目的なの。それが分かれば、機械でもうんと安く作れる。リース先生に相談したら、目を輝かせそうでしょ」
「先輩、そこまで考えてるんですね。すごいです」
イレムが、一拍黙った。
「……商売人だからね」
それから、髪を一房いじって、ちょっとだけ得意げに笑った。
「ちなみに、採ってくる方は颯くんたちダンジョン部にお願いしてる。一枚百クレドのバイト。低い層だから危なくないし、いいお小遣いになるって、張り切ってたよ」
「百クレド」
三十万と百。差が、ありすぎる気がした。
「言っておくけど、それで合ってるからね」
イレムが葵の顔を読んだように言った。
「羽根は拾っただけだと、魔力が霧散してただの羽根になっちゃう。葵くんが加工して、初めて商品になる。価値を生んでるのは葵くんの手。拾う仕事の値段は、拾う仕事の値段。これも商売の基本」
「……分かりました」
「分かってなさそうな顔。まあ、いいけど」
「そういえば、浄化って、何をするんですか」
葵が聞くと、イレムは少し声を落とした。
「ダンジョンの羽根はね、本物の御使いのものじゃないの。ダンジョンが生んだ、写し。だから教会的には、ルシファーの気配を祓うお清めがいるんじゃないかな」
「ルシファーの、気配」
「検査では何にも出ないんだけどね」
イレムが肩をすくめた。
「でも『浄化済み』じゃないと、教会系のお客さんは買ってくれない。気持ちの問題って、商売では一番大事なのよ」
そのとき、扉が控えめにノックされた。
「どうぞ」
入ってきたのは、白と黒の修道服の女の人だった。
頭をヴェールが覆っている。胸元にはロザリオ。深いダークブラウンの目が、部室の中を静かに見渡して、葵とイレムの上で止まった。
「ごきげんよう。メレク・ルーメンの皆さまですね」
柔らかい声だった。
「コンスエロ・デ・ラ・クルスと申します。コンスエロと、お呼びくださいませ。本日は浄化の御用を承りました」
「お待ちしてました。イレム・アイドゥンです。こっちは共同経営者の小春葵くん」
「よろしくお願いします」
葵が頭を下げると、コンスエロは目を細めて、丁寧に礼を返した。
「ご丁寧に、ありがとうございます。……お祈りを済ませてから参りましたので、遅くなってしまいました。学び舎の中に礼拝堂があるのは、よいことですね」
イレムが保管箱を机に置いた。蓋を開けると、淡く光る羽根が二十枚、並んでいた。
コンスエロが羽根を見た。
「……まあ」
小さな声だった。コンスエロはしばらく、黙って羽根を見つめていた。祈るような、慈しむような目だった。
「美しい。写しとはいえ、御使いの形をこの目で見られるとは。……では、始めさせていただきます」
コンスエロはロザリオを両手で包んで、羽根の前に立った。
目を閉じる。
「主よ」
静かな声が部室に落ちた。
「この羽根より、堕ちたる者の影を祓いたまえ。これを手にする人々の上に、光がありますように」
ロザリオを持つ手から、淡い光がこぼれた。光は羽根の上をゆっくりと撫でて、消えた。羽根は何も変わらないように見えた。でも、部室の空気が、少しだけ澄んだ気がした。
「終わりました」
コンスエロが目を開けて、微笑んだ。
「ありがとうございます。それで、お代の話なんだけど」
イレムが端末を出すと、コンスエロは小さく首を振った。
「お布施を少し頂ければ、それで十分でございます」
「だめ。お仕事には適正な対価を払う。うちの方針なの」
イレムがきっぱり言った。コンスエロは少し困ったように目を伏せて、それから、ふわりと微笑んだ。
「……では、ありがたく。貧しい方々のために、使わせていただきます」
「毎月この量をお願いすると思うんだけど、大丈夫?」
「ええ。また来月、参ります」
コンスエロは保管箱に一礼して、扉へ向かった。
そして、振り返った。
「葵さま。イレムさま」
ロザリオに手を添えて、静かに十字を切る。
「お二人の上に、神のご加護がありますように」
深く一礼して、コンスエロは部室を出ていった。
扉が閉まる。
あたたかい人だ、と葵は思った。
「いい人だったね」
イレムが保管箱を仕舞いながら言った。
「さて。最後に、一番大事な話。葵くんのお給料」
イレムが端末を操作して、宙に数字を出した。
「来週から本格稼働ね。火・水・木の放課後に、一日二十枚。月にして二百四十枚。売上は、七千二百万クレド」
「なな……」
「そこから経費を引いて、葵くんの取り分から工場に回す半分を引いて、それでも毎月、二千万クレドくらいは葵くんの手元に来るよ」
二千万クレド。学食の定食、二百万食。
「そんな大金、どうすれば」
「使い道なら、あるよー」
イレムが右手を軽く開いた。
手のひらの上に光が集まった。次の瞬間、そこに細身の曲刀が一振り、現れていた。どこからともなく。鞘ごと、イレムの手の中に。
「わ」
「ソウルメタル製はね、魂に収納できるの。便利でしょ」
イレムが鞘から、少しだけ刀身を見せた。三日月のように反った、細身の刃。刃の中で、淡い金色がゆらりと揺れていた。沈んでいるのに、輝いている。見たことのない光だった。
「ヒラル。私の剣。アリアちゃんに打ってもらったの。これ、買おうと思ったら十億クレドはするよー。売らないけどね」
「じゅう、おく」
僕の杖も、ソウルメタル製だ。しかもアリア渾身の。
それ以上は考えないことにした。
「あの、イレム先輩」
「ん?」
「僕、お金が入ったら、お返しをさせてください。最初にいただいた杖も、お寿司も、試験の後のご飯も。先輩たちには、お世話になってばかりなので」
「ああ、あの杖? 一千万くらいの品だけどね」
「いっせんまん」
葵は固まった。一千万クレド。定食、百万食。そんなものを、なんでもないみたいな顔で渡されていた。
「やっぱり、お返しさせてください」
イレムはしばらく葵を見ていた。
それから、髪を一房、指でいじった。
「……あのね、葵くん。私のは全部、投資なの。杖もごはんも、葵くんに使ったお金と時間は、今日の契約書で、ちゃーんと回収できてる。商売人にお返しなんて要らないんだよ」
「でも」
「どうしてもって言うなら、会社を大きくして。それが一番のお返し」
イレムがにっと笑った。
「それにね、葵くんのお金には先約があるでしょ。ダンジョンを本気で進むなら、装備はいくらあっても足りないの。深い層に行くほど、命を預ける道具の値段は青天井。ダンジョン部のみんなの装備をちゃんと整えるつもりなら、毎月二千万でも全然余らないよ」
イレムがヒラルを軽く放った。剣は宙で光になって、ほどけるように消えた。魂に、戻ったらしい。
葵は自分の手を見た。
それなら、無駄にならない。
茜の装備。部のみんなの装備。オリビア先生の家庭教師。それから、いつか先輩たちに返せる日まで、覚えておくこと。
「……分かりました。頑張って作ります」
「その意気。共同経営者くんには、期待してるからね」
「あ、そうだ。イレム先輩」
帰り支度をしながら、葵は思い出した。
「明日、蒼玲先輩の誕生日会に呼ばれていて。何か持っていこうと思うんですけど、蒼玲先輩って、どんなお菓子が好きですか」
「美味しいものが好きだよ」
イレムが即答した。
葵は少し待った。続きは、なかった。
「……それだけですか」
「うん。美味しいものが好き。間違いないでしょ」
間違ってはいない。でも、何も分からなかった。
「まあ、葵くんなら何を持っていっても喜ぶと思うよ。それより、覚悟しておきなよ」
「覚悟?」
「皇女様の誕生日会だよ。ご馳走は出る、余興は出る、お土産まで持たされるかも。全部向こう持ち」
イレムがにやりと笑った。
「葵くん、また借金が増えちゃうかもね」
「うっ」
葵は言葉に詰まった。
返すために稼ぎ始めたのに、明日にはまた借りが増える。
「イレム先輩も、行くんですよね」
「もちろん行くよー。友達だもん。私はご馳走、楽しみにしてる」
「借りになるって、今……」
「もらえるものをありがたくもらうのも、商売人なの」
ずるい、と葵は思った。
「じゃ、明日は会場でね」
葵は契約書を鞄に仕舞って、部室を出た。
廊下の窓の外が夕方の色になっていた。
「明日は、誕生日会だね」
ライラが胸元で言った。
「うん」
何を作ろうか、と葵は考えた。
手がかりは、美味しいもの、だけだった。




