第130話 土曜日までの接続
月曜の朝。
目を覚ますと、体が動かなかった。
フィオナが葵を抱きしめたまま眠っていた。腕の力が強い。葵の頭は、フィオナの胸元にすっぽりと収まっていた。
「フィオナさん、朝だよ」
「……んん」
フィオナが目を閉じたまま、もぞりと動いた。
「あと、五分です……」
腕の力が少しだけ強くなった。最後の甘えだった。葵は抵抗をやめて、五分だけ、そのままでいた。
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朝食は、いつもより多めに作った。
卵を多めに焼いて、ベーコンも多めに。パンも厚めに切った。フィオナの皿には、全部を少しずつ多めに盛った。
「いただきます」
フィオナはきちんと手を合わせてから、食べ始めた。いつもより、静かだった。それでも、おかわりはした。二回した。
「美味しいです……葵殿のご飯」
しみじみと、フィオナが言った。
「天界のご飯も、美味しいんでしょ。終わらないお肉があるって言ってた」
「あれは、ただ終わらないだけです」
フィオナがフォークを置いた。
「葵殿のご飯は、終わってしまうから、美味しいのです」
うまいことを言ったつもりらしく、フィオナは少し得意げだった。それから、自分の言葉で寂しくなったのか、しゅんとした。
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出発の時間になった。
フィオナは鎧姿に戻っていた。白い、新しい鎧。リビングの真ん中に立って、もじもじしている。
「あの、葵殿」
「うん」
「やっぱり、今日はやめておこうかな、と」
フィオナが言った。
「ほら、月曜ですし。週の始めから帰天というのも、縁起が悪いといいますか。明日からでも、その」
葵は心を鬼にした。
フィオナの決意が鈍るなら、自分が押し出すしかなかった。昨日、フィオナは自分で決めたのだ。立派な騎士になると。それをここで崩させたくなかった。
「フィオナさん」
葵はフィオナに歩み寄った。
そして、ぎゅっと抱きしめた。
「はわっ……!?」
フィオナが固まった。鎧越しに体が跳ねるのが分かった。
「あ、葵殿!? あの、その、はわわ……」
「次は土曜日に呼ぶね」
葵はフィオナの背中に腕を回したまま言った。
フィオナの混乱がぴたりと止まった。
少しの間があって、フィオナの腕が、おそるおそる葵の背中に回された。それから、ぎゅっと、強くなった。
「……はい」
フィオナの声が頭の上から降ってきた。
「土曜日。指折り数えて、待っています」
フィオナは、土曜日までの日数をたっぷり数えてから、腕を解いた。一歩下がって、背筋を伸ばす。騎士の顔になっていた。目が少し赤かったけれど、もう揺れていなかった。
「行ってまいります、葵殿!」
フィオナの体が淡い光に包まれた。
光の粒が、ふわりと舞い上がって、天井を抜けて、消えていく。
最後まで、フィオナは笑っていた。
リビングが静かになった。
ライラが葵の胸元から顔を出した。フィオナの消えた天井をしばらく見ていた。
「……フィオナ、泣くの我慢してた」
ぽつりと、ライラが言った。
「うん」
葵も天井を見た。
「知ってる」
それから、葵は学校の支度を始めた。テーブルの上には、フィオナの皿が残っていた。綺麗に空になった皿が、二人分より一枚多かった。
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一限の世界史は、いつも通りに過ぎた。
二限は魔法工学だった。葵は教科書を抱えて、授業ホールへ移動した。魔法工学と契約説法だけは、葵は合同クラスで受ける。いつもの席に着くと、右隣に茜が、左隣にセレンが座った。いつの間にか、この並びが定位置になっていた。
「葵、おはよ」
「おはよう、茜。おはよう、セレン」
「……うん」
セレンが小さく頷いた。
鐘が鳴って、リースが入ってきた。
「今日から第四章。魔法陣だ」
リースが教壇で手をかざした。光の線が走って、巨大な魔法陣が宙に浮かび上がる。三重の円。外枠と、幾何学の紋様と、中心の文字。教室が少しざわめいた。
「魔法陣の役割は三つ。一つ、魔力の流れを制御し、固定する枠組み。二つ、術者の意図を現象に変換する媒介。三つ——」
リースが浮かんだ魔法陣を指で弾いた。
「神魔との、接続ポイントだ」
接続ポイント。
葵はポケットの端末を思った。あの中に、フィオナの契約陣が入っている。今朝、光になって帰っていったフィオナと、葵を繋いでいるもの。土曜日にあの陣を開けば、フィオナはまた来てくれる。
魔法陣は、神魔との接続ポイント。
実感があった。
「……葵」
左から、小さな声がした。セレンがノートの端をこちらに向けている。
「接続ポイントって、何」
セレンのノートには、リースの言葉がそのまま几帳面な字で写してあった。写してはあるが、意味は分かっていないらしい。
「神魔を呼ぶときの、入り口みたいなものだと思う。ドアみたいな」
葵は小声で答えた。
「魔法陣があると、神魔がこっちに来られる」
「……ドア」
セレンがノートに「ドア」と書き足した。納得したらしい。
視線を感じた。
右を見ると、茜がこちらを見ていた。ノートも開かず、頬杖をついて、じっと。
「茜、授業、前だよ」
「分かってる」
茜は前を向かなかった。
「葵、今朝、何かあった」
「……何で?」
「顔が、いつもとちょっと違う」
葵は少し考えた。フィオナが今朝帰天したこと。話そうとして、やめた。授業中だった。
「あとで話すよ」
「ん。約束ね」
茜はそれだけ言って、ようやく前を向いた。ノートは結局開かなかった。
講義は、描き方の話に進んだ。
「魔法陣の描き方は三種類」
リースが宙に表を出した。
「一つ、魔力で空中に描く。速いが、精度が低い。戦闘中の即席向きだ。二つ、物理的に刻む。遅いが、精度が高い。武器や建物への刻印に使う。三つ、AIや端末で生成する。精度が高く、速度もそこそこ。魔導具の量産刻印などは、これだ」
端末で生成する魔法陣。
葵がいつも使っているやり方だった。散盟の契約陣を端末から呼び出して、展開する。あれもこの三つ目にあたる。
そこで、ふと気づいた。
ヴァルハラ・アームズのボランティアでは、格のある神魔との契約を見せることになるはずだ。フィオナを呼んで、契約を示す。でも、端末から契約陣を呼び出したら、どう見えるだろう。
端末のおかげだと、思われないだろうか。
キオク社の優秀なメモリが陣を呼んでいるだけで、葵自身の契約ではない——そう見えてしまったら、見せたことにならないのではないか。
葵はノートの端に小さく書いた。
リース先生に相談。
左から、セレンがそれを見ていた。
「……相談?」
「うん。あとでね」
セレンは首をかしげてから、自分のノートに視線を戻した。「ドア」の字の横に、小さくドアの絵が描き足してあった。
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鐘が鳴って、二限が終わった。
「葵、お昼、一緒に行こ」
茜が席を立ちながら言った。
「ごめん。リース先生と話すことがあるから、先に行ってて」
「……ふうん」
茜の目がちらりと教壇の方を見た。
「長くなる?」
「分かんない。でも、すぐ追いかけるよ」
「茜。行こう」
セレンが立ち上がって、茜の袖を軽く引いた。
「葵の分、席、取っておく」
「……分かった。葵、今朝の話、覚えてるからね」
「うん。約束」
茜はセレンと並んで、教室を出ていった。出ていく間際に、もう一度だけ振り返った。
生徒がはけていく。葵は教壇に向かった。
リースは宙に残った魔法陣を指先で消しているところだった。
「リース先生。少し、聞きたいことがあるんですが」
「なんだ、小春」
最後の生徒が教室を出て、扉が閉まった。
「……で、何の話だ。」
教室には、もう二人しかいなかった。
「ヴァルハラ・アームズのボランティアのことです。あそこでは、格のある神魔との契約を見せることになると思うんです。フィオナさんを——ヴァルキリーを呼んで、契約を示す。でも、端末から契約陣を呼び出したら、端末のおかげだと思われませんか」
リースの眉が少し上がった。
「ほう」
それから、薄く笑った。
「いいところに気づいたな。その通りだ。連中は武器屋だ。道具の性能を見る目は、誰よりも肥えている。端末から陣を出せば、連中はまず端末を評価する。お前の契約は二の次だ」
「やっぱり」
「だが、解決は簡単だ」
リースは自分の腕をとんと叩いた。
「刻めばいい。契約神魔の魔法陣を体に刻む契約者は多い。タトゥーだ。体に刻まれた陣から神魔を呼べば、誰の契約かは一目瞭然だろう」
「体に、刻む……」
「端末を貸してみろ」
葵が端末を渡すと、リースは慣れた手つきで操作を始めた。指が画面の上を滑る。数秒で、フィオナの契約陣が画面に浮かび上がった。
「さすがキオク社。読み出しも速い」
リースが満足そうに言った。
「これをそのまま転写すればいい。精度も落ちない」
葵は少し考えた。
タトゥー。体に刻む。一生、消えない。
ふと思った。アルカディア島の日本人コミュニティには、温泉がある。家族で何度か行ったことがある。あそこは確か、タトゥーがあると入れない。
「あの、先生」
「なんだ」
「タトゥーがあると、温泉に入れなくなるんじゃ」
リースが、一瞬、黙った。
「……お前は、ヴァルハラの前にそれを心配するのか」
「大事なことだと思います」
リースは息を吐いてから、笑った。
「心配するな。一週間で消えるタトゥーシールを作ってやる。ボランティアの間だけ保てばいいだろう」
「それなら、温泉も入れますね」
「ああ。温泉も入れる」
リースは画面の契約陣を、もう一度だけ見てから、端末を返した。
「シールができたら渡す。貼るのは腕でいいだろう。見せやすい」
「ありがとうございます、リース先生」
葵は頭を下げて、教室を出た。
廊下を歩きながら、腕を見た。ここに、フィオナの契約陣が刻まれる。
接続ポイント、と葵は思った。
悪くない気がした。
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食堂は混んでいた。
葵は和食の盆を持って、席を探した。焼き鮭と、だし巻き卵と、味噌汁。日本人の多いアルカディア島では、学食にも和食の列がある。
「葵、こっち」
窓際の席で、茜が手を上げた。向かいにセレンが座っている。葵は茜の隣に着いた。
茜の盆を見ると、同じ和食だった。焼き鮭と、だし巻き卵と、味噌汁。
「あ、お揃いだ」
葵が言うと、茜がぱっと明るくなった。
「ね。お揃い」
茜がセレンの方を見て、得意気に胸を張った。
「セレン、見て。お揃い」
「……ん」
セレンは自分のシチューを口に運んでいた。動じる気配は全くなかった。茜の得意気が行き場をなくして少し萎んだ。
セレンの視線が葵の盆に止まった。
「葵。それ、なに」
「これ? だし巻き卵。出汁の入った、卵焼きだよ」
「……一口、頂戴」
セレンがスプーンを差し出した。シチューのミートボールが乗っている。
「代わりに、これを一口あげる」
「ちょっと待った」
茜が声をあげた。
「私があげるわよ。私のも同じだし」
茜は自分のだし巻き卵を一切れ、セレンの皿に置いた。素早かった。
「……ありがとう」
セレンは特に気にした様子もなく、ミートボールを茜の皿に乗せた。
茜とセレンが一口ずつ交換した。
「……おいしい」
セレンはだし巻き卵を食べて、小さく言った。
「そ、そう」
茜がミートボールを食べた。それから、ぼそりと付け足した。
「……こっちも、おいしい」
葵はそれを見ていて、嬉しくなった。茜とセレンはダンジョンでも一緒に戦っているけれど、食べ物を交換するのは初めて見た気がする。
「二人とも、仲良いね」
「は!?」
茜が振り向いた。
「うん」
セレンが頷いた。
正反対の返事だった。
「……まあ、いいわ。それで葵、今朝の話」
茜が箸を置いて、こちらを向いた。約束を覚えていた。
「うん。新しくできた友達が、故郷に帰ることになったんだ」
葵は言った。今朝、その見送りをしてきたこと。遠いところだけれど、土曜日にはまた会えること。
言いながら、葵は少しだけ言葉を選んでいた。フィオナと同じ部屋で暮らしていたことは、言わなかった。なぜかは分からない。でも、言わない方がいい気がした。理由のない勘だった。
胸元で、ライラが小さくうんうんと頷いた気配がした。
「ふうん。友達」
茜が葵を見た。じっと。
「女の子?」
「......うん」
「……ふうん」
茜の目が少し細くなった。何かを測っている目だった。
「また会えるなら、いい」
セレンが言った。シチューの皿はもうほとんど空になっていた。
嘘は言っていない、と葵は思った。全部を言っていないだけだった。
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午後の授業は、いつも通りに過ぎた。
三限の剣技で、ハルトマンが「今日から魔力を通しながら型をやる」と宣言して、生徒たちがうめいた。四限のリンガが終わると、終業の鐘が鳴った。
葵は教科書をしまって、立ち上がった。
放課後は、商業研究部に行く約束だった。今日は、メレク・ルーメンの登記が下りる日。イレムと契約書にサインをして、葵は正式に、会社の共同経営者になる。
「次は、お仕事だね」
ライラが胸元で小さく言った。
「うん」
葵は教室を出た。




