第129話 鎧の音7
扉の向こうに女の人が立っていた。
葵より、ずっと背が高い。白金の髪を後ろで固く束ねている。鋼みたいな色の、冷たい瞳。彫りの深い、整った顔立ち。頬に、古い傷が一つ、横に走っていた。
鎧を着ていた。フィオナのものと似ていた。でも、まるで違った。フィオナのは白くて軽くて、お祭りの飾りみたいに新しい。その人の鎧は鈍く光っていた。何度も磨かれて、何度も傷ついて、それでもまだ、使われ続けている鎧だった。
「……どなたですか」
葵が聞いた。
「フィオナ・オコナーの、関係者だ」
低い声だった。女の人が葵を見下ろした。
「少年。君が、オコナーの契約者か」
「はい。そうです」
葵が答えると、女の人は少しの間、葵を見ていた。値踏みするような目だった。
葵は扉を大きく開けた。
「とりあえず、中へどうぞ。もうすぐ夕食の時間ですが、よかったら、ご一緒にどうですか」
女の人が片方の眉を動かした。葵の言葉が予想と違ったらしい。
「……邪魔をする」
女の人が玄関をくぐった。
リビングに通そうとして、葵は「しまった」と思った。
フィオナがソファにいた。クッションを抱えて、横になったまま、お菓子を食べている。テレビでは、のんびりした音楽番組が流れていた。一日デートで歩き回って、すっかりだらけきった姿だった。
女の人がそれを見た。
長い間があった。
「少年。一つ、訂正する。 君は、オコナーの契約者ではなかったようだ。」
女の人が低く言った。
「飼い主、だったようだな」
「フィオナさん?」
葵が呼ぶと、フィオナが菓子をくわえたまま、振り返った。
そして、固まった。
「……ヒ」
菓子がぽろりと落ちた。
「ヒルド、さん……!」
フィオナの顔から血の気が引いていく。がばっと起き上がり、慌ててクッションを抱え直し、それから立ち上がろうとして、足をもつれさせた。
葵は、この人がフィオナを訓練していた人なのだと分かった。フィオナの怯えようがそれを物語っていた。
「ヒルドさん」
葵は、女の人とフィオナの間に自然に入った。
「フィオナさんについては、後ほど、お話をしましょう。よかったら、こちらでお茶でもどうぞ」
葵はヒルドをダイニングの椅子へ促した。フィオナから引き剥がすように。
ヒルドは葵を一瞥してから、椅子に座った。フィオナをまだ見ている。
葵はお茶を淹れた。来客用の、いい茶葉のものを出す。
その間に、フィオナはそそくさと葵の私室へ逃げ込んでいった。
「オコナー」
ヒルドが私室の方へ声をかけた。
「テレビは、もういいのか」
私室の中で、フィオナがびくっと震えるのが扉越しに伝わってきた。
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葵は台所に立った。
ラムシチューを作るつもりだった。フィオナがリクエストした、今日の夕食。鍋に火をかけ、ラム肉を炒め始める。
ヒルドはダイニングの椅子に座ったまま、動かなかった。背筋を伸ばし、出された茶に手をつけずにいる。視線が時々、葵の私室の扉へ向いた。
葵は、何とかしなければと思った。
このままではフィオナがまずい。サボっていたところを訓練の先生に見つかってしまった。何とか機嫌を取って、許してもらえないだろうか。
葵は戸棚から、来客用の菓子を出した。きれいな缶に入った焼き菓子だった。
「ヒルドさん、よかったら、こちらをどうぞ。お口に合うか、分かりませんが」
葵は菓子を皿に並べて、ヒルドの前に置いた。
ヒルドは菓子を見て、それから葵を見た。
「……気を遣わなくていい」
そう言いながら、ヒルドは一つ手に取った。小さく口に運ぶ。
「少年」
「はい」
「君は、妙だな」
「そうですか」
「私を警戒しない。オコナーはあの様だ。普通、契約者なら、もっと——」
ヒルドが言葉を探すように、少し黙った。
「……まあ、いい」
ヒルドはそれきり、茶を一口飲んだ。
葵は鍋に戻った。ラム肉に野菜を加える。トマトと、香草。ことこと煮込んでいく。台所に、肉とトマトの匂いが満ちていった。
私室の扉が少しだけ開いた。
フィオナが隙間から、こちらを覗いている。ヒルドの様子を窺っているらしい。葵と目が合うと、フィオナは、またそっと扉を閉めた。
しばらく煮込んで、シチューができあがった。
葵は三つの皿によそった。湯気が立っている。深い赤色の煮込み。ラム肉がほろほろと崩れそうだった。
「フィオナさん。できたよ」
葵が呼ぶと、私室の扉がおそるおそる開いた。
フィオナが出てきた。背筋を、不自然なくらいまっすぐにしている。ヒルドの前を通って、葵の隣の席にそろそろと座った。
三人で、食卓を囲んだ。
「いただきます」
葵が言った。
フィオナとヒルドは無言だった。
二人ともまっすぐ前を向いて、シチューを口に運んでいる。フィオナは、スプーンを持つ手が少し震えていた。ヒルドは姿勢を崩さず、淡々と食べている。
誰もしゃべらなかった。
スプーンが皿に当たる音だけが、響いていた。
葵の隣で、フィオナが石みたいに固まっている。向かいのヒルドからは何も読み取れない。鋼の瞳が、ただシチューを見ていた。
すごい圧だった。
葵は自分のシチューを一口食べた。ラム肉が口の中で崩れた。美味しいと思った。でも、この空気では、それを言える雰囲気ではなかった。
ライラが葵の胸元から、そっと顔を出した。食卓の二人を見て、すぐに引っ込んだ。
関わらないでおこう、と決めたようだった。
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食事が終わった。
葵は皿を片付けてから、お茶を淹れ直した。三人で、食卓に残っている。フィオナはまだ、背筋を伸ばしたままだった。
葵は思い切って口を開いた。
「ヒルドさん。フィオナさんのこと、なんですが」
「ああ」
「フィオナさん、訓練がとても、つらいそうです」
葵は言葉を選んだ。
「どうにか、してあげられませんか。少しでも、楽にしてあげることは、できないでしょうか」
フィオナが、はっと葵を見た。
ヒルドは茶碗を置いた。鋼の瞳が葵に向く。
「少年。一つ、教えておく」
低い声だった。
「ヴァルキリーに求められる水準は、非常に高い。お前が聞いている、あの訓練は入り口に過ぎん。あの程度で音を上げているようでは、本物の戦場に出れば、すぐに死ぬ」
「死ぬ……?」
「ヴァルキリーは死者を導く者だ。だが、導く前に、自分が、戦場で砕ければ、それまでだ。半端な力で、立とうとする者から、消えていく」
ヒルドが葵をまっすぐ見た。
「少年。お前は、オコナーが、死んでもいいのか」
葵は言葉に詰まった。
楽にしてあげたいと思っていた。つらそうだから、助けたかった。でも、それが、フィオナを死なせることになる。ヒルドはそう言っていた。
「……でも」
葵はそれでも言った。
「フィオナさんは、偶然、僕が、ヴァルキリーにしてしまったので。僕が、契約しなければ、フィオナさんは、こんなに、つらい思いを」
「いや」
ヒルドが遮った。
「そうではない」
きっぱりとした声だった。
「全ては、必然だった」
「必然……?」
「全父オーディン様は、すべてを見通す目をお持ちだ。偶然などというものは、ない」
ヒルドがフィオナを見た。それから、また葵に視線を戻した。
「お前たちの言う、大戦争。あの日、オコナーは戦った。逃げる民を、背に庇い、最後まで、その場に留まった。あの戦いぶりが、ヴァルキリーに、相応しいものだったからこそ——オコナーは、ヴァルキリーに、なれたのだ」
葵はフィオナを見た。
フィオナはうつむいていた。膝の上で、手を握りしめている。
「お前の契約はきっかけに過ぎん。オコナーが、ヴァルキリーの器でなければ、どんな契約も実を結ばなかった。器であったから、応えた。それだけのことだ」
ヒルドが葵を見た。
「そして、ヴァルキリーは、戦いの運命にある者の元へ遣わされる。これも、偶然ではない」
「戦いの運命……?」
「少年。お前には、大いなる戦いの運命が、待っている。私には、それが、見える」
葵はよく分からなかった。自分に、そんな大層なものがあるとは思えなかった。
「その戦いのとき、傍にあって、お前を助け——もし倒れれば、その魂を、ヴァルハラへ導く。それが、オコナーの務めだ」
ヒルドの瞳がフィオナへ向いた。
「その務めを、半端な力で、果たせると思うな。だから、鍛える。お前を死なせないために、オコナーを、死なせないためにだ」
ヒルドの声は淡々としていた。だが、揺るがなかった。
葵はしばらく黙っていた。
それから、フィオナの方を向いた。
「フィオナさんは」
葵は、静かに聞いた。
「フィオナさんは、どうしたいですか」
フィオナが顔を上げた。
葵を見て、それからヒルドを見た。鋼の瞳と目が合う。フィオナの肩が、小さく震えた。
でも、フィオナは逃げなかった。
「……少し」
フィオナが、言った。
「少し、時間を、ください」
声は小さかった。けれど、消えはしなかった。
ヒルドは何も言わず、フィオナを見ていた。
「ヒルドさん」
フィオナが続けた。
「天界フォンで、ご連絡します。だから、もう少しだけ、待っていて、いただけますか」
長い、間があった。
ヒルドが、ゆっくりと立ち上がった。
「分かった」
短く言って、ヒルドは玄関の方へ歩いた。
「今一度、帰ろう」
そして、振り返った。
「夕食、馳走になった。非常に、美味だった」
それだけ言うと、ヒルドは玄関を出ていった。扉が静かに閉まる。
リビングに、葵とフィオナだけが残された。
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扉が閉まってから、フィオナはしばらく黙っていた。
それから、葵の方を向いた。
「葵殿」
「うん」
「戦いの運命、というのは……本当、ですか」
フィオナの目が葵を見ていた。いつもの、はしゃいだ顔ではなかった。
葵は少し考えてから頷いた。
「うん。実は、そうなんだ」
葵は話した。ヴァルハラ・アームズという会社のこと。そこを内部から調べたくて、やっとボランティアの参加証を手に入れたこと。
「人造神魔っていう、作られた神魔がいるんだ。黒夢病っていう、悪い夢を見させる病気の、原因かもしれなくて。その秘密を、探りたくて」
「危ない、のですか」
「……たぶん。何が出てくるか、分からないから」
葵は正直に言った。フィオナに隠す気はなかった。
フィオナはそれをじっと聞いていた。
そして、ぐっと両手を握った。
「決めました」
フィオナが立ち上がった。背筋を伸ばす。さっきの、怯えていたフィオナとは違った。
「私、立派な騎士になって、葵殿を、お助けします!」
声に、力が戻っていた。
「そのために、天界で、修行してまいります! それまで、もう、甘えません! 戻ってくるのは、月に一度——」
フィオナが言いかけて、止まった。
「……いえ、月に、二回」
少し、考える。
「……週に、一回」
また、考える。
「……いえ、週に、二回しか、戻りません!」
結局、増えた。
葵は笑いそうになった。でも、フィオナが真剣なので、こらえた。
「うん。フィオナさんが、決めたなら」
「はい!」
フィオナは胸を張った。それから、少し考え込んだ。
「訓練は、つらいです。とても、つらいです。でも——」
フィオナが、ぱっと顔を輝かせた。
「私には、貯金が、あります! あの、6400の……くとぅーん? くろーね? とにかく、たくさんの、お金です! あれを持っていると、思えば、心に、余裕が、できます! どんな訓練も、乗り越えられそうな、気がします!」
葵は、フィオナが何を言っているのか少し考えて、銀行の使者が来たときのことだと気づいた。中位神級の口座、と言っていた。フィオナは、その単位を正確には覚えていないらしい。
「うん。たくさん、あったね」
「はい! お金は、心の、余裕です!」
フィオナが力強く言った。決意の理由がそれでいいのか、葵には分からなかった。でも、フィオナが元気を取り戻したなら、よかった。
フィオナは手のひらに、小さな光を呼び出した。天界フォンと呼んでいる、不思議な道具だった。
光が宙に広がる。そこに、ヒルドの上半身がホログラムのように浮かび上がった。鋼の瞳がフィオナを見る。
「ヒルドさん」
フィオナが姿勢を正した。
「話し合いました。私、天界に戻って、修行します。立派なヴァルキリーになります。葵殿を、お助けできるように」
ヒルドはしばらく、フィオナを見ていた。
それから、ぽつりと言った。
「よく、決心した」
低い声だった。
「ようやく、ヴァルキリーとしての、一歩を踏み出したな」
フィオナの顔が、ぱっと明るくなった。
「は、はい!」
通話が、ふっと消えた。
リビングが静かになった。フィオナはしばらく、宙を見ていた。それから、ふにゃりと肩の力を抜いた。
「……終わりました」
「うん。お疲れさま」
フィオナが葵を見た。それから、いつもの甘えた顔に戻って言った。
「葵殿。今日は、もう、遅いです。帰るのは、明日に、します!」
「うん」
「最後に、一緒に、寝ましょう! 明日からは、しばらく、できないので!」
フィオナが嬉しそうに言った。
それから、ふと、玄関の方を見て、小さくなった。
(……ヒルドさんに、怒られないかな)
葵は何も言わなかった。
たぶん、怒られる気がした。




