第13話 剣と短剣
木曜の朝、葵は手首のブレスレットに触れながら呪文を唱えた。
——光よ、満ちよ。サナティオ・ルクス。
温かさが体の奥に広がって、夜の重さが消えていく。もうすっかり朝の日課になっていた。
葵は起き上がりながら、机の端に置いてある細長い箱に目を向けた。
昨晩届いた、クラウ・ソラス・レプリカ。
まだ箱に入ったままだった。受け取ってから、部屋の明かりの中で一度だけ刀身を見た。それだけだ。触れ方がわからなくて、なんとなく、そのままにしていた。
胸元でライラが、温かく揺れた。
「わかってる」と葵は小さく言った。「今日、どうするか考える」
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颯に急かされて家を出た。いつもの角で茜が待っていた。モノレールで丘へ向かう。
颯が「そういえば」と言った。
「お前、昨日カヴィヤ先輩から何かもらったって本当か? マルコが言ってたんだけど」
「カヴィヤさんのこと知ってるの?」
「知ってるも何も!有名人だぞ!あのエキゾチックな美貌! 俺も癒されたい! で、何もらったんだよ」
「短剣」
「短剣?」とさらりと返しておいて、颯は一拍置いた。「……短剣?」
「魔法武器。光属性の」
颯はしばらく葵を見た。
「お前、美女から貰うものがそれでいいのか? もっとこうアクセサリーとか」
颯はもう一度葵を見た。複雑な顔をしていた。葵の身に起きたことを思い出しているのか、それとも短剣への純粋な好奇心なのか、あるいは両方か。
「……今度見せてくれよ」
「うん」
茜は何も言わなかった。ただ葵のブレスレットに一瞬だけ視線を落として、また前を向いた。
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昼休み、食堂の窓際の席で、葵は颯と茜と並んで食事をした。
外は晴れていた。丘の上から海が見える。青く静かな海の向こうに、空が広がっていた。
颯がシチューをすくいながら言った。
「そういえばお前、短剣の使い方わかるの?」
「わからない」
「だよな。剣技の授業で木剣は使ったけど、短剣って全然違うだろ。使い方、誰かに聞くの?」
「……ハルトマン先生に聞きに行こうと思う」
颯が箸を止めた。
「ハルトマン先生に?」
「剣技の先生だから」
「そりゃそうだけど……お前、あの人に自分から会いに行けるの?」
葵は少し考えた。怖い、と言えば怖い。でも——ハルトマンは無駄口を叩かない人だった。聞いたことには答えてくれる気がした。少なくとも、追い返すような人ではないと思った。
「スタディホールの時間を使う。今日」
颯はしばらく葵を見た。それから、何か納得したように頷いた。
「まあ、お前が行くなら大丈夫か。俺はちょっと無理だけど」
茜が静かに言った。
「一人で行くの?」
「うん」
茜はそれを聞いて、少しだけ葵を見た。何か言いたそうな顔だったが、何も言わなかった。
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三限は魔法工学だった。
今日のテーマは「魔法武器と魔力の同調」だった。
リースが前に立ち、淡々と説明した。
「魔法武器というのは、単体で機能するものではありません。使用者の魔力と同調することで初めて本来の性能を発揮する。逆に言えば、同調できなければ普通の武器と変わらない」
オルタが隣で図を投影した。武器の断面図に、魔力の流れを示す光の線が重なっている。
「同調の方法は武器によって異なりますが、基本的には使用者の魔力の流れを武器の中に通すことで起動します。魔力属性が武器の設計属性と合っている場合、同調は自然に起きることもある」
葵はノートを取りながら、胸元のライラの気配を確かめた。
——クラウ・ソラスは光属性との親和性が高い、とカヴィヤは言っていた。
「同調が深まると——」とリースが続けた。「武器が使用者の意図に敏感になります。熟練者の場合、武器に魔力を流すことなく、意識だけで同調を維持できるようになる。剣が使用者の体の延長になる、という感覚に近い」
葵は少し考えた。
剣が体の延長になる——木剣を初めて持ったとき、手のひらに馴染む感触があった。あれに少し似た話かもしれない。
「質問があります」
手を挙げたのは、前の方の席の生徒だった。
「同調が失敗すると、どうなりますか」
「武器が機能しない、というだけです」とリースは答えた。「爆発したり、暴走したりというのは、粗悪な武器か、相性が極端に悪い場合に限られる。一流の魔法武器は、同調に失敗しても安全なように設計されています」
葵はそれを聞いて、少しだけ気が楽になった。
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四限のスタディホールの時間が始まった。
他の生徒たちが各自の作業に入る中、葵は鞄に短剣の箱を入れて立ち上がった。
颯が小声で言った。
「行くの?」
「うん」
「頑張れよ、俺は数学の課題と向き合う」
葵は小さく頷いて、教室を出た。
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剣技室は校舎の南棟にあった。
木製の扉に「剣技室」とだけ書かれた板が掛かっている。葵は扉の前で少し立ち止まった。
でも——来たなら、ノックくらいはできる。
葵は扉を叩いた。
少しの間があった。
「入れ」
低い声が返ってきた。葵は扉を開けた。
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剣技室は広かった。
壁に木剣と模擬剣が整然と並び、床には演習の跡が染みついている。窓から午後の光が斜めに差し込んでいた。
ハルトマンが部屋の中央に立っていた。上着を脱いで、腕まくりをした状態で木剣を手に持っている。何かを点検していたのか、刃の部分を丁寧に布で拭っていた。
葵を見た。
「1年の小春葵です」
「知っている」
ハルトマンはそれだけ言って、木剣の点検を続けた。葵を招き入れるでも、追い出すでもない。ただ、そこにいることを許容している——そういう空気だった。
葵は扉を閉めて、部屋の中に入った。
「お時間をとっていただいてありがとうございます。スタディホールの時間に来てしまって、すみません」
「構わん。用があるから来たんだろう」
「はい」
葵は鞄から箱を取り出した。
「先日、魔法武器を受け取りました。短剣です。使い方を教えていただけないかと思って」
ハルトマンは木剣を点検する手を止めた。葵の方を向いた。
「見せろ」
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葵は箱を開けて、クラウ・ソラス・レプリカを取り出した。
細身の短剣だった。刀身が淡い光を帯びていて、柄の部分には細かい文様が刻まれている。ハルトマンの目が、刀身の上をゆっくりと動いた。
ハルトマンは手を伸ばした。葵はそっと短剣を渡した。
ハルトマンは短剣を受け取り、刃を目の高さに持ち上げた。光の当たり方を変えながら、鎬の線を確認する。柄を握って重さを測る。手首を返して、バランスを確かめる。
葵はその様子を黙って見ていた。ハルトマンの目が、別の表情をしていた。怖い、とも、厳しい、とも少し違う。職人が良い仕事を見るときの目、とでも言うような——静かな集中の目だった。
「クラウ・ソラスのレプリカだ」
「はい、そう聞いています」
「一流の仕事だ。本物同様、光属性向けの設計になっている」
ハルトマンは短剣を葵に返した。
「お前の属性は光か」
「はい」
「では合っている」
ハルトマンはしばらく葵を見た。
「短剣の扱いを学びたい、ということか」
「はい。木剣の授業は受けていますが、短剣は初めてで。正しい使い方を知りたいと思って来ました」
ハルトマンは少しの間、何も言わなかった。葵は黙って待った。
「授業の時間外に、わざわざ来た」
「スタディホールの時間なので」
「それはわかっている」
ハルトマンは腕を組んだ。葵を上から下まで、一度だけ見た。
「……フォム・タークの構えは覚えているか」
「はい」
「やれ」
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葵は短剣を右手に持ち、フォム・タークの構えを取った。
木剣とは違う。短剣は軽い。重心の位置が全然違う。肩に乗せる、というより——肩の前に立てる、という感覚に近い。
ハルトマンは葵の構えを見た。
「違う」
「……どこがですか」
「短剣はロングソードと同じに持つな。刃が短い分、間合いが短い。その分だけ体を寄せる必要がある。構えも、体に近くていい」
ハルトマンは自分の腰に手を当てて、位置を示した。
「こちらへ引き寄せろ。脇が開きすぎている」
葵は言われた通りに直した。
「そうだ。もう少し肘を締めろ」
直した。
「振ってみろ。オーバーハウ」
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葵は振った。
木剣のときと同じように——でも、何かが違った。短剣は軽いから、振り抜くときに制御が難しい。軌道が微妙にぶれる。
「止めろ」
ハルトマンが言った。
「短剣で大振りするな。それはロングソードの動きだ」
「では、どう振るんですか」
ハルトマンは葵の前に立った。自分の腰に模擬短剣を一本取って、構えを作った。
「短剣は刺す、引く、小さく斬る——それが基本だ。大きく振る必要はない。届く間合いに入ったとき、最短の軌道で急所に当てる。それだけでいい」
ハルトマンはゆっくりと動いた。前に踏み込みながら、短剣を真っ直ぐに突き出す。引く。今度は横に小さく薙ぐ。それだけだった。派手さがない。でも一つひとつの動作が、無駄なく、鋭かった。
「やれ」
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葵は繰り返した。
突く。引く。小さく薙ぐ。
ハルトマンが時々止めて、角度を直した。踏み込みが浅い、引くのが遅い、肘が下がっている——一つひとつに言葉が短くついた。
何度か繰り返すうちに、少しずつ感触が変わってきた。木剣のときのあの感覚——体が動き方を知っている、というあれが、少しずつ戻ってくる感じがした。
「魔力は通しているか」
ハルトマンが聞いた。
「……いえ、まだ」
「通してみろ」
葵は短剣を握り直して、ライラに向けて意識を向けた。魔力の流れを——指先から、柄へ、刀身へ。
刀身が、ふっと光った。
淡い青白い光が、刃の線に沿って走った。ライラの色に似た光だった。
葵は少し驚いた。魔法工学の授業で「同調が自然に起きることもある」とリースが言っていたが——こんなにあっさりと。
ハルトマンは刀身の光を一瞬見た。それから、無表情のまま言った。
「相性がいい」
「……はい」
「もう一度、さっきの動作をやれ。魔力を通したまま」
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突く。引く。小さく薙ぐ。
魔力を通すと、短剣が手のひらに吸い付くような感触になった。重心がはっきりする。どこに剣があるか、目で見なくてもわかる。
——剣が体の延長になる。
葵はもう一度突いた。今度は少し、踏み込みを深くした。
ハルトマンは何も言わなかった。ただ、見ていた。
葵はそれを感じながら、もう一度繰り返した。
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しばらくして、ハルトマンが「止めろ」と言った。
葵は動きを止めた。息が少し上がっていた。
「今日はここまでにしろ。最初から飛ばしすぎると体が覚える前に癖がつく」
「はい」
「来週、また来るか」
葵は少し驚いた。
「……来てもいいですか」
「問いに問いで返すな」
「来ます」
ハルトマンは短く頷いた。それだけだった。
葵は短剣を鞄にしまいながら、ふと聞きたいことが浮かんだ。
「先生」
「なんだ」
「短剣と剣、どちらが強いですか」
ハルトマンは少しの間、葵を見た。
「問い方が悪い」
「……どういう意味ですか」
「強い弱いは、使う者と状況による。長い剣は間合いが取れるが取り回しが難しい。短剣は懐に入ると強いが遠距離に弱い。お前が問うべきは『どちらが強いか』ではなく、『自分はどう戦うか』だ」
葵はその言葉を聞いて、少し考えた。
「自分はどう戦うか……」
「魔法が使える。短剣もある。足もそこそこ動く」ハルトマンは淡々と言った。「組み合わせ方を考えろ。それが戦い方だ」
葵は頷いた。
「ありがとうございます」
「次に来るときは、基礎トレーニングを済ませてから来い。体ができていない者に剣の細かい話はしない」
「わかりました」
葵は一礼して、剣技室を出た。
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廊下に出ると、空気が少し違って感じた。
胸元でライラが、温かく揺れた。
「ライラ」
葵は廊下を歩きながら、胸元に小声で言った。
「さっき光ったね」
ライラはしばらく黙っていた。それから、短く言った。
「……綺麗だった」
葵は少し笑った。
「そっか」
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スタディホールが終わり、三人でモノレールに乗った。
颯がすぐに聞いた。
「どうだった? ハルトマン先生」
「怖かったけど、教えてくれた」
「何か言われたか?」
「『どちらが強いか』じゃなくて、『自分はどう戦うか』を考えろ、って」
颯は少しの間その言葉を転がして、「……なんか深いな」と言った。
茜が窓の外を見たまま言った。
「来週も行くの?」
「うん。来いって言われた」
茜は何も言わなかった。でも葵には——茜が少しだけ、何かに安心したように見えた。
それが何への安心かは、わからなかったけれど。——茜は窓の外を、ずっと見ていた。
モノレールが丘を下りていく。窓の外に、アルカディアの夕暮れが広がっていた。
葵はそっと鞄を膝の上に引き寄せた。中に、短剣がある。
——自分はどう戦うか。
まだ答えはない。でも——問いが生まれたことは、なんとなく悪くない気がした。
ライラの温かさが、静かにそこにあった。




