第126話 蒼穹の覇者
「銀河帝国の、皇帝」
葵はもう一度、その言葉をなぞった。
「左様」
田中花子が頷いた。
「我が真名は、この遠き蒼穹の彼方……星の海を統べる玉座より響くもの。されど葵様、今宵この場では——銀河帝国が皇帝、と。それで十分にございます」
葵は内ポケットのデッキケースにそっと触れてから、田中花子を見た。紫の瞳が瞬きもせず葵を捉えている。冗談を言う顔ではなかった。
葵は信じなかった。銀河帝国も皇帝も、すぐには頭に入ってこない。
でも、田中花子の顔は真剣だった。とても真剣だった。
——本気で言ってるんだ。
葵はそう思った。
「あの」
葵が口を開いた。
「この話って、僕以外には」
「いえ」
田中花子がすぐに答えた。
「葵様だけです」
葵は少し驚いた。
「あなたの、カードの精霊への接し方を見て。信頼できる者だと判断しました」
カードの、精霊。
葵はその言葉が少しだけ引っかかった。今日のデュエルで、精霊を見たわけではなかった。実体化システムが、カードを立体に映し出していただけだ。
——カードの精霊って、なんだろう。
葵はそう思ったが、田中花子の真剣な顔を見ていると、それを聞き返すのは無粋な気がした。だから心の隅に小さく置いておいた。
「そんな、重要な話を」
葵は姿勢を少し正した。
「してくれて、ありがとうございます」
田中花子の瞬きが一度あった。
「会ったばかりなのに、信頼してくれて。僕、嬉しいです」
葵は本当にそう思った。
銀河帝国のことは信じていない。皇帝のこともよく分からない。でも、初めて会った自分を信頼に足る人間だと選んでくれた。それは嬉しいことだった。
田中花子はその言葉を長い間受け止めているようで、紫の瞳の奥が静かに満ちていくのが見えた気がした。
「……いえ」
田中花子が小さく言った。
「礼を言うのは、私の方です」
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「順を追って、説明いたします」
田中花子が姿勢を正した。
「我が真名は——この卑俗なる地球の言語などでは、到底発音すること叶わぬ。田中花子などという凡庸極まりない名は、ただこの蒼き惑星を徘徊するための仮初めの仮面に過ぎませぬ……」
「タナカハナコ、好きです。呼びやすくて」
「……ありがとうございます」
田中花子が一度、瞬きをした。
「私はある目的のために、この星に来ました」
「目的」
「地球の、侵略です」
葵は窓の外を見た。青金色の街はもう、ずいぶん遠い。雲が月の光を受けて白く光っていた。
「侵略」
葵はその言葉を口の中で転がした。
「やめたんですか」
田中花子の動きが止まった。
「……なぜ、そう思うのですか」
「だって、田中さん、蒼玲先輩にカードを届けに来てましたよね。侵略する星に、カードゲーム、配らないと思います」
田中花子は数秒黙った。
「……地球が、まこと強すぎたのです」
「強すぎた」
「無論——我が銀河艦隊をもってすれば、この蒼き惑星など一日と経たぬうちに平らげられたでありましょう」
田中花子の声に、わずかに矜持の響きが戻った。
「されど、私は思い直したのです。神魔という存在。一部の実力者たち。ラビリンスという訓練場。これほどの文化とこれほどの魂が、この星には根付いていた。これを力で蹂躙するのは——あまりに惜しい。ゆえに侵略は断念し、今は情報収集に切り替えております」
葵は少し考えてから、姿勢を正した。
「侵略、しないでくれて。ありがとうございます」
田中花子の動きが止まった。
葵は本気でそう思った。
理由はどうあれ、この人は侵略をやめてくれた。地球に住んでいる一人として、それはちゃんとお礼を言うべきことだった。
「……いえ」
田中花子が小さく言った。声が少しだけ揺れていた。
「礼を言われるようなことでは」
「いえ、お礼です」
葵は言った。
「僕、地球、好きなので。残してくれて、嬉しいです」
田中花子はしばらく葵を見ていた。紫の瞳が瞬きをしなかった。冷たい指先が膝の上で、また組み直された。
「……お仕事、大変ですね」
葵が付け加えた。
「遠い星から来て。侵略しようとして、思い直して。それでも残って、調べ続けて」
田中花子は答えなかった。
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「葵様」
田中花子がふいに言った。
「田中、ではなく。花子と、お呼びください」
葵は少し考えた。
「いいんですか」
「葵様には、本当の名で呼ばれたいのです。発音できる方の名で」
「じゃあ、花子さん」
葵がそう呼ぶと、花子はわずかに目を細めた。冷たい指先が膝の上で一度、組み直された。
「はい」
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「葵様にお話ししたいことがあります」
花子が声を少しだけ低くした。
「私が、どこから来たのか。私が、何者なのか。その始まりの話です」
「始まりの話」
「太古。時間も空間もなかった頃」
花子が語り始めた。
「無の彼方に、一枚のカードが浮かんでおりました。表は——光と、希望と、生まれくる多様性を。裏は——闇と、平等と、すべてを呑み込む終焉を、宿していた」
葵は黙って聞いていた。
「そのカードが、初めて、翻ったのです。その瞬間、ビッグバンが起きた。表の光が爆発的に広がり、銀河と、星と、生命と、法則を、生み出しました」
機内は静かだった。無音のフィールドの中で、花子の声だけが響いている。
「原初のカードは、自らを無数の欠片に分かちました。その欠片こそが——ルミナス・レガリアのカード。だからこそ、それぞれのカードには、精霊が宿っているのです」
葵は少しだけ目を見開いた。
カードの、精霊。さっき花子が言った言葉だった。ここに繋がっていたのか、と思った。
「そして——」
花子が葵をまっすぐ見た。
「私は、その原初のカード、その裏側より生まれ落ちし存在。闇と、平等と、終焉を司る側より……銀河すべてを統べる定めを負って、この宇宙に投じられた者です」
無音のフィールドの中で、花子の言葉が静かに置かれていった。
一枚のカードから、宇宙が生まれた。
葵は世界史の授業を思い出す。学園長が語った、魔法世界史。
あれは世界中に点在する神話の実在の証拠を一つずつ積み上げていく、本物の歴史の話だった。
だが、花子の話には証拠が一つもない。どう考えても、本当のはずがなかった。
——でも。
葵は花子の真剣な顔を見た。
この人は本気だ。誰にも話したことのない、自分の始まりの話を、本気で自分に打ち明けている。
それなら、と葵は思った。
本気で、聞いてあげよう。
「すごい話ですね」
葵は言った。
信じてはいなかった。それでも、花子の語る宇宙に本気で付き合うことにした。一枚のカードから始まる壮大な物語。それを抱えて遠い星から来た人が、目の前にいる。その人の話を途中で投げ出すのは、葵にはできなかった。
「カードの裏側から生まれた、っていうの、かっこいいです。もっと聞かせてください」
花子はその言葉を長い間噛みしめているようだった。紫の瞳が葵をまっすぐ見ていて、瞬きをしなかった。
「……あなたは」
花子が呟いた。
「やはり、信頼に足る方です」
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「葵様」
花子がふいに言った。
「証拠を、お見せしましょう」
「証拠?」
葵が首を傾げた。
「私が、地球の生物ではないという証拠です」
花子は葵の方へわずかに身を寄せ、口を大きく開けた。舌を優雅に、上へと差し出す。
その瞬間、葵は息を止めた。
舌の上で、唾液が光っていた。透明ではない。淡い薄紫色だった。機内の照明を受けて、細かい粒が星屑のようにきらきらと瞬いている。
花の匂いがした。何の花かは分からない。甘くて、少し冷たい匂い。葵の知っている、どの花とも違った。
「ご覧ください」
花子が言った。声に、これまでとは違う響きがあった。
「この、深淵の紫光を帯びし我が体液を。地球の卑しき血潮とは、まるで異なる神聖なる成分が……この一滴に、宿っております。漂う芳香は、星々の死と再生をくぐり抜けし、はるか彼方の花の香り——」
葵はしばらくそれを見ていた。
すごい、と思った。不思議だった。人の口の中がこんなふうに光るなんて、見たことがない。薄紫の粒が舌の上でゆっくりと揺れている。綺麗だった。
花子が口を閉じてから、わずかに視線を逸らした。まじまじと見られたことを、どう受け止めていいのか分からない様子だった。冷たい指先が膝の上で、また組み直された。
「これが、証拠です」
花子が言った。さっきの威厳の名残が、まだ声の端に残っている。
「地球の生物の、体液とは違います」
葵は頷いた。
きっと何か理由があるんだ、と思った。
体液が光って、花の匂いがする。どうしてそんなことが起きるのかは分からない。でも、何か理由があるはずだった。
それより、葵には引っかかることがあった。
花子はこれまで、自分が宇宙人だなんて誰にも言ってこなかったはずだ。地球で人間のふりをして暮らしてきた。それなのに、体液だけがこんなふうに、宇宙人みたいに光っている。
——隠してるのに、ここだけ、宇宙人みたいなんだ。
葵はそれが不思議だった。
「これ、他の人に見られたら。何て言ってるんですか」
葵が聞いた。
「……魔法治療の、後遺症と説明しています」
葵はぽん、と手を打った。
「上手いですね」
葵は言った。
「もし誰かに、光るところを見られても。後遺症だって説明できるんだ」
「……ええ」
「宇宙人だってこと、隠してるんですもんね。後遺症ってことにしておけば、見られても大丈夫ですね」
花子はしばらく葵を見ていた。何かを言いかけて、やめたようだった。
「……その通りです」
花子が静かに言った。
葵は頷いた。花子が自分の見立てを認めてくれた。それが少し嬉しかった。
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「あの」
葵が口を開いた。
「一つ、聞いてもいいですか」
「なんなりと」
「デュエルエナジーって、何ですか」
花子の視線が葵に戻ってきた。
「今日、デュエルの最中に何度か言ってましたよね。口上を言わないとデュエルエナジーが足りない、って。あれが何なのか、ずっと気になってて」
花子はわずかに目を細めた。
「デュエルエナジーとは」
静かに言った。
「真のデュエリスト——その魂より放たれし、純粋なる輝きのこと」
葵はその言葉を頭の中で繰り返した。
真の、デュエリスト、魂より放たれし、純粋なる輝き。
「魂から、放たれる」
「カードをただの紙切れとして扱う卑俗なる者からは、決して生まれぬもの。精霊を仲間として遇し、一戦一戦に魂を捧げる者——そのような真のデュエリストからのみ、デュエルエナジーは生まれます」
「そういうものなんですね」
葵は頷いた。
カードに込めた本気がエネルギーになる。葵にはそれが本当かどうかは分からなかった。でも、花子の言いたいことはなんとなく分かる気がする。
八歳から使ってきたこのデッキ。負けたくないと思って、勝てて嬉しいと思って、何百回も戦ってきた。あのとき確かに、何かを込めていた。それをエネルギーと呼ぶのなら——そう呼んでもいいのかもしれない。
「いい言葉ですね。デュエルエナジー」
葵は言った。
「カードに本気を込めるのを、そういうふうに呼ぶの」
花子の瞳の奥がまた光った気がした。
「……あなたは」
花子が言った。
「本物の、デュエリストです」
「そうですか?」
「ええ」
花子が頷いた。
「あなたほど純度の高いデュエルエナジーを発する者を、私はこの星で他に知りません」
葵は少し照れた。
「ありがとうございます。でも僕、強い人にはよく負けますよ」
「勝ち負けは、関係ありません」
花子が言った。その声にはこれまでで一番、力がこもっていた。
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「葵様」
花子が姿勢をまた正した。
「一つ、お願いがあります」
「お願い?」
「私の調査に、協力していただけませんか」
葵は首を傾げた。
「調査」
「私はこの星で、デュエルの文化を調べています。地球のデュエリストたちが、どのように戦い、どのようにカードと向き合うのか。その記録を集めています」
「はい」
「世界各地に、デュエルのスペシャリストたちがいます。彼女らと戦っていただきたいのです」
葵は少し考えた。
「僕が、ですか」
「あなたのような本物のデュエリストが、彼女らと本気で戦う。その一戦一戦が、私の調査にとって何より貴重な記録になります」
世界中の、強いデュエリストたち。八歳から使ってきたこのデッキで、その人たちと戦う。
葵は内ポケットのデッキケースに触れた。
楽しそうだ、と思った。
いろんな人がいるんだろう。いろんなデッキで、いろんな戦い方をする人が。その人たちと一戦ずつ、本気で向き合う。それはきっと、楽しい。
「やってみたいです」
葵は言った。
花子の紫の瞳がわずかに揺れた。
「ただ」
葵が続けた。
「勝てるかどうかは、約束できません。僕、強い人と戦うの好きですけど、負けることも多いので」
「構いません」
花子が即答した。
「あなたが本気で戦ってくださる。それだけで十分です」
「分かりました」
葵は頷いた。
「じゃあ、協力します。花子さんの調査」
花子はその言葉をしばらく受け止めてから、ゆっくりと言った。
「ありがとう、ございます」
冷たい指先が膝の上できゅっと握られた。
「あなたと出会えて、私はこの星に来た甲斐がありました」
「大袈裟ですよ」
葵は笑った。
花子は笑わなかった。ただまっすぐに葵を見ていた。本気だ、とその目が言っていた。
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「花子さん」
葵が言った。
「一つだけ、聞いてもいいですか」
「なんなりと」
「どうして僕に、全部話してくれたんですか。皇帝のことも、星のことも。会ったばかりなのに」
花子はすぐには答えなかった。窓の外を見ている。遠ざかる地上の光を、紫の瞳が映していた。眼下では夜の海が月の光を鈍く返している。
「あなたは——」
花子が静かに言った。
「私の、孤独なる永劫の旅路において。初めて出会った、真に我を理解せし者……」
葵は黙って聞いていた。
「悠久の昔より、私は誰にも理解されぬ星々を渡り続けてまいりました。皇帝と名乗れば嘲笑され、星の話を語れば狂人と呼ばれ……ゆえに私は、永い永い時を、ただ一人、この胸に宇宙を抱えて歩んできたのです」
「でも、あなたは。私の話を最後まで聞いてくれました。一度も笑わずに」
花子の声が、ふっと、低くなった。
「ふふ……運命の赤い糸とは、かくも残酷に美しいものか……」
葵は内ポケットのデッキにまた触れた。
笑うわけがない、と思った。
信じてはいない。銀河帝国も皇帝も、本当のことだとは思っていない。でも、目の前の人が誰にも言えずにずっと一人で抱えてきた話を、自分に打ち明けてくれた。それを笑う理由なんて、どこにもなかった。
「大事な話、してくれて。ありがとうございます」
葵は言った。
花子が葵を見た。
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花子が指先を軽く動かした。
機内の音が戻ってきた。エンジンの低い唸り。空気の流れる音。世界が急に賑やかになって、葵は少しだけ、耳が変な感じがした。
「今日の話は」
花子が言った。
「誰に話しても、構いません」
「いいんですか。秘密じゃ」
「ええ。どうせ」
花子が紅茶のカップに手を伸ばした。
「誰も、信じませんから」
葵はその言葉を聞いた。
そうか、と思った。誰も花子さんに、本気で向き合ってこないんだ。
皇帝だと名乗っても、星の話をしても、笑われるか、変人だと思われるか。話したところで誰もまともに取り合わない。花子さんはきっとそう思ったのだろう。だからこんなに淡々と、「どうせ誰も信じない」と言える。
それは寂しいことだ、と葵は思った。
——僕だけは。
葵は内ポケットのデッキに触れた。
僕だけは花子さんの世界観を、大事にしてあげよう。信じる、信じないじゃなくて。この人がずっと一人で抱えてきたものを、ちゃんと受け止めてあげよう。
「じゃあ、デュエルの日が決まったら。教えてください」
葵が言った。
「はい。連絡いたします」
花子がカップを両手で包んだ。冷たい指が温かい陶器に触れている。
専用機は夜の海の上を飛んでいた。アルカディアまで、あとしばらく。葵は革張りのソファに身を預けた。
向かいで、銀河帝国の皇帝を名乗る女が静かに紅茶を飲んでいる。
——面白い人だな。
葵はそう思った。
窓の外の暗い海を見た。月が波の上で細かく砕けている。
明日からまた、いつもの日々が始まる。学校があって、剣の稽古があって、鍛冶部があって。その合間に世界中のデュエリストと戦う日が加わる。
少しだけ、楽しみだった。
胸元でライラが小さく動いた。
「葵」
「なに?」
「あの人、ずっと葵のこと見てる」
「そうかな」
「ずっと、な感じ」
葵はもう一度、窓の外を見た。
ライラはそれ以上、何も言わなかった。




