第123話 庶民遊戯2
端末がバイブで震えた。
葵が目を開けた。六時。
フィオナの腕が、葵の体に回ったままだった。寝息が、葵のうなじのあたりで規則正しく続いている。
葵はそっと、フィオナの腕を持ち上げた。フィオナが少しだけ眉を寄せた。すぐに、また穏やかな寝息に戻った。
ベッドから出た。
寝室の扉を、音を立てないように開けて出た。
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台所に出ると、アーデルがすでにダイニングチェアに座っていた。端末のニュースを印刷した新聞を広げている。
「おはようございます」
「ああ」
アーデルは紙から顔を上げなかった。葵は冷蔵庫を開けた。
ラム肉のブロックがあった。昨日のラムチョップで一キロ使ったから、二キロほど残っている。フィオナのリクエストはラム肉のロースト。塊で、ハーブを少しだけ、塩を強めに、グレービーソース。
葵は端末でローストのレシピを検索した。
二百度のオーブンで六十分。下ごしらえに塩を肉に擦り込み、十五分置く。
葵はラム肉に塩と胡椒を擦り込んだ。冷蔵庫のにんにくを刻んで、表面にすり込んだ。オリーブオイルを回しかけた。塊のまま、皿の上で休ませた。
オーブンを予熱した。
その間に、自分とアーデルの朝食を準備した。
トーストをセットしてから卵を割った。サラダを用意して、ベーコンをフライパンに並べた。紅茶を淹れて、出来上がったものを順にアーデルの前に置いた。
「ありがとう」
紙から目を上げて、アーデルが言った。口元がわずかに緩んだ。
オーブンが予熱完了の音を立てた。葵はラム肉を天板に乗せて、オーブンに入れた。タイマーを六十分に設定した。
「フィオナさん、まだ寝ています」
葵がアーデルに言った。
「そうか」
「ローストは、昼食用に作って、メモを添えておきます」
「フィオナは、本当によく休むな」
アーデルが新聞のページをめくった。
「疲れているんだと、思います」
アーデルがそれ以上は言わなかった。
葵は自分の席に座って、朝食を食べ始めた。
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六十分後、オーブンのタイマーが鳴った。
ラム肉のローストは、表面に綺麗な焦げ目がついていた。葵は天板を取り出して、肉を別の皿に移した。肉から染み出した汁が、天板の底に残っていた。
その汁を小鍋に移した。小麦粉を少し振り入れて、火にかけた。赤ワインを少しと、コンソメと、水。煮詰めながら、レシピの通りに混ぜた。
グレービーソースが、とろりとした濃い色に変わった。
ローストとソースを、フィオナのために大皿に盛り付けた。冷蔵庫に紅茶のポットも冷やしておいた。
メモを添えた。
『フィオナさんへ
昼食です。電子レンジで二分温めてから食べてね。グレービーソースをかけて。紅茶も冷蔵庫にあるよ。
葵』
時計を見た。
七時十分だった。
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寝室に戻った。
フィオナはまだ眠っていた。横向きで、両手を顔の前で軽く握っている。子供みたいな寝顔だった。
葵は寝室の机に向かった。
引き出しを開けた。一番下の段に、古いデッキケースがあった。
葵がそれを取り出した。
蓋を開けると、中のカードは、葵が小学生の頃に組んだ並びのままだった。一番上の一枚に、ハートリンク・ユニカ。葵が一番好きなカードだった。
葵は端末を開いた。
ルミナス・レガリアの公式サイト。最新の禁止制限リスト。葵はカードを一枚ずつめくりながら、リストと照合した。
ハートリンク・トモ。問題なし。
ハートリンク・ナギ。問題なし。
ハートリンク・ヒナタ。問題なし。
縁の導き。問題なし。
重なる心。問題なし。
還る縁。問題なし。
葵は全部のカードを確認した。
古いデッキだから、禁止に引っかかるカードはなかった。攻撃力の低い精霊ばかりだったが、それでよかった。
葵はカードを元の順番に戻して、デッキケースに入れた。
ケースのふたを閉めた。
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制服に着替えた。
リビングに戻ると、アーデルがコーヒーを淹れていた。
「行ってきます」
「ああ」
アーデルがコーヒーカップを上げて、軽く合図した。
葵は鞄を背負った。デッキケースは、内ポケットに入れた。
寝室の方を、もう一度見た。
フィオナの寝息が、ドアの隙間から聞こえていた。
葵は玄関に向かった。
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土曜の二限が終わった頃に、端末にメッセージが入った。
蒼玲だった。
『放課後、生徒会室に来なさい。準備はできている?』
葵は内ポケットのデッキケースを、上から軽く押さえた。
『はい、行きます』
そう返信した。
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生徒会室の扉の前に立った。
葵はノックをした。
「入りなさい」
蒼玲の声だった。葵が扉を開けた。
中は静かだった。
蒼玲が、部屋の中央のテーブルの前に座っていた。テーブルには黒いトランクが一つ開かれている。中に、新品のカードがびっしりと並んでいた。
蒼玲の正面に、もう一人立っていた。
葵が知らない人だった。
長い銀色の髪が、緩やかに腰まで流れていた。前髪の隙間から、紫色の瞳が葵を見ていた。瞳の色が、葵の知っているどの色とも違っていた。
白いロングコートの裾が、床近くまで届いている。中には紫のシャツドレスを着ていた。黒いタイツ。黒いハイヒール。
すらりとした長身。年齢が分からない女性だった。
葵が一拍、止まった。
「来たわね」
蒼玲が顔を上げた。
「あ、はい」
「紹介するわ」
蒼玲がテーブルの向かいの女性を指した。
「田中花子。ルミナス・レガリアの、作者よ」
葵がもう一度、田中花子を見た。
「えっ」
蒼玲が腕を組んだ。
「世界中の庶民が遊んでいる、あのカードゲーム。その作者の方ね」
葵が田中花子に向き直った。
「あの……はじめまして。小春葵、です」
葵が頭を下げた。
田中花子は瞬きをしなかった。葵を、じっと見ていた。
「……はじめまして」
低い声だった。
「あなたのこと、蒼玲様から、聞いていました」
「あ……ありがとうございます」
葵は何を言えばいいか、すぐには出てこなかった。
「あの、すごく好きです。子供の頃から、ずっと遊んでいて。本当に、素敵な世界だと、思います」
葵が頭を下げた。
田中花子が、少しだけ目を細めた。
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「花子に、特別に作ってもらったの」
蒼玲がテーブルのトランクを軽く叩いた。
葵が息を呑んだ。
「え、カードを、作ってもらったんですか」
「ええ」
蒼玲が当然のように頷いた。
「私とあなたが今日デュエルするためにね」
葵がトランクを覗き込んだ。新品のカードが、整然と並んでいた。一枚目に、龍の姿が描かれている。気高い東洋龍。黒と蒼の鱗。皇女の冠のような装飾。
蒼玲がそのカードに指をかけた。
「姫輝龍。プリンセス・ドラゴンよ。私のエース」
「すごい……」
葵がカードを見た。
「他にも、いるわ」
蒼玲が次のカードに指を移した。白い虎。
「姫輝虎。プリンセス・タイガー。白羽がモチーフよ」
「あ……白羽先輩……」
葵がもう一枚を見た。朱雀。
「姫輝鳥。プリンセス・フェニックス。アリアね」
「アリア先輩……」
「亀がカヴィヤ、麒麟がイレム。エリサベットは、姫輝の侍女よ」
蒼玲がトランクのカードを順に指していった。
「あの、全部……生徒会の皆さんを……」
「ええ」
蒼玲が腕を組んだ。
「私の生徒会のメンバーを、四神に見立てて、花子に描いてもらったの」
葵が田中花子を見た。
「すごい……本当にすごいです」
葵が田中花子に頭を下げた。
「あの、僕の小さい頃から好きだったカードゲームの作者さんに、こんなに素敵な絵を描いていただいて、生徒会の皆さんが、こうやってカードになっていて……」
葵の言葉は、止まらなかった。
田中花子が、葵をじっと見ていた。
「ありがとうございます」
田中花子が小さく言った。
それだけだった。
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「それで」
蒼玲がトランクを閉じた。
「私たち、これから北京に行くわよ」
葵の動きが止まった。
「えっ」
「不壊の龍巣で、デュエルする」
「不壊の、龍巣?」
葵が首を傾げた。
蒼玲が立ち上がった。
「中国にある体育場よ。あなたも知らない?」
「すみません……」
「鳥の巣をベースに、天龍集団が建て直したの。
体育大会や、企業間決闘や、そういう用途に使われる。今日は、私が貸し切ったわ」
「貸し切り……」
葵がもう一度、首を傾げた。
「行けば分かるわ」
蒼玲が薄く微笑んだ。
葵が田中花子の方を見た。
田中花子は何も言わなかった。
「行くわよ」
蒼玲がコートを羽織った。
「あ、はい」
葵が頷いた。何か言うべきだったかもしれない。でも、何を言えばいいか分からなかった。
田中花子が、トランクを閉じた蒼玲の隣に立った。
三人で、生徒会室を出た。
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中央棟の階段を下りて、正面玄関へ向かった。
車寄せには黒い車が待っていた。葵が後部座席に乗ると、蒼玲がすでに奥に座っていた。田中花子は助手席だった。
車が動き出した。
「先輩、これから北京まで、どれくらいかかるんですか」
「専用機で一時間よ」
「一時間で?」
「急ぐこともないわ」
蒼玲が当然のように答えた。
葵がもう一度、首を傾げた。
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専用機の中は、葵が知っている飛行機ではなかった。
天井が高く、座席は革張りのソファのようなものが並んでいる。中央にローテーブルがあって、その上にすでに紅茶のセットが用意されていた。窓は普通の旅客機の三倍ほどの大きさだった。
蒼玲がソファに優雅に座った。葵を向かいの席に促した。葵が座った。
田中花子は少し離れた一人がけのソファに、静かに腰を下ろした。
機体が滑走を始めた。離陸の感覚が、葵の体に伝わってきた。
機体が安定した頃、蒼玲がテーブルの上に黒いアタッシュケースを置いた。
「葵」
「はい」
「私のカードを、見せてあげる」
蒼玲がアタッシュケースのロックを外した。
蓋を開けると、中にカードがびっしりと並んでいた。デッキ用のカードではない。コレクションのカードだった。一枚一枚が透明なスリーブに入って、ピンと整列している。
「すごい数……」
「私のコレクションよ。世界中から集めたわ」
蒼玲がその中の一枚を、指で軽く弾いて取り出した。
「これ、見て」
葵が受け取った。
光の精霊のカードだった。表面に、特殊な箔押しがされていた。光の当たる角度によって、絵柄の中の精霊が動いて見える。
「綺麗ですね……」
「ホログラム加工。一枚しか出回ってないわ」
「一枚?」
「世界に一枚」
蒼玲が薄く微笑んだ。
「次はこれ」
蒼玲がもう一枚取り出した。葵に渡した。
それは、レアでも何でもない通常精霊カードだったが、サイン入りだった。
「これ……」
「世界選手権の、優勝者のサインよ」
「すごい……」
「そして、これ」
蒼玲が三枚目を取り出した。深紅の縁取りがされた、儀礼カード。
「特別仕様。プロモーション限定。世界に十枚」
「うわあ……」
蒼玲の口元が、満足げに上がっていた。
「葵」
「はい」
「あなたのデッキ、子供の頃のものでしょう」
「うん、はい」
「これ、貸してあげてもいいのよ」
蒼玲がアタッシュケースの中のカードを、指で示した。
「強いカードを、何枚か入れていいわ」
葵が一拍、間を置いた。
「あの、ありがとうございます」
「いいのよ。私のカードよ」
「でも」
葵が首を振った。
「このデッキで、戦いたいんです」
蒼玲がカードから指を離した。
「……変な子ね」
蒼玲が腕を組んだ。
「葵」
「はい」
「あなた、子供の頃から、このカードたちで?」
「うん、はい。八歳の頃から、ずっと」
「八年も……」
蒼玲が黙った。
「同じ精霊たちで、戦っているんです。新しいカードを入れると、何だか、悪い気がして」
蒼玲が葵を見た。何も言わなかった。
それから、別のカードに指を伸ばした。
「分かったわ。だったらいいわよ。私のだけ、見せてあげる」
蒼玲が次々とカードを取り出していった。レアカードの自慢が、止まらなくなっていた。
「これは、宇宙帝国シリーズの初版」
「すごい……」
「これは、限定パック十周年記念」
「綺麗ですね」
「これは、私が世界大会の表彰式で買った、特別仕様の——」
葵は一枚ずつ、本気で見ていた。一枚ごとに「すごい」「綺麗」と感心していた。お世辞ではなかった。本当に、一枚一枚がすごかった。
蒼玲がますます得意になっていった。
「もっとあるわ。これも、これも——」
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三十分ほど、蒼玲のレアカード自慢が続いた。
ようやくアタッシュケースが半分まで進んだ頃、葵がふと聞いた。
「あの、蒼玲先輩」
「なに?」
「ルミナス・レガリアって、いつから、やっているんですか」
蒼玲が一枚のカードを持ったまま、葵を見た。
「一週間前からよ」
葵が言葉を失った。
「……一週間?」
「ええ」
蒼玲がカードをアタッシュケースに戻した。
「一週間前に、興味を持って始めたわ。庶民達が楽しんでいると聞いて」
葵が瞬きを忘れた。
——一週間で、これだけのコレクションを集めたのか。
——一週間で、不壊の龍巣を貸し切るのか。
——一週間で、世界的な作者に専用デッキを発注したのか。
——それなのに、こんなに自信満々なのか。
葵は心の中でそう思った。
声には出さなかった。
「すごいですね、蒼玲先輩」
そう言うのが精一杯だった。
蒼玲が薄く微笑んだ。
「当然よ」
蒼玲が次のカードを取り出した。
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専用機が降下を始めた。
葵が窓の外を見た。
眼下に、青金色の光が広がっていた。街全体が、薄く光を放っていた。昼の時間のはずなのに、街は一面、自分で発光しているように見えた。
葵が息を吐いた。
「すごい……」
無意識に出た声だった。
高層ビルの間を、銀色の細い線が走っていた。葵が目を凝らすと、それは列車だった。地面ではなく、ビルの中ほどの高さを、滑るように動いている。
「あれは……」
「浮遊列車よ」
蒼玲がカードを片付ける手を止めずに答えた。
「龍脈の流れに沿って走るの。線路は要らないわ」
別の場所では、空に小さな黒い点がいくつも見えた。点が、ゆっくり別の場所へ移動していく。
「あの飛んでいるのは?」
「龍翼タクシーね。十分な高度を保てば、誰でも空を移動できる」
「すごい……」
葵がもう一度、繰り返した。
街の中心に、特別に大きな建物が見えた。赤い壁と、金色の屋根。明らかに古い、伝統的な様式の宮殿だった。だが屋根の上に、何か青いものが、薄くうねっていた。
葵が目を細めた。
それは光だった。動いている光。長く、蛇のように。あるいは、龍のように。
「あれが、紫禁城?」
「ええ」
蒼玲が、声を少しだけ静めた。
「天龍宮。父の、玉座のあるところよ」
蒼玲が一拍、置いた。
「いずれ、私のものになるのよ」
葵が窓の外を見たまま、何も言わなかった。
「屋根の上の、青いものは……」
「青龍の気」
蒼玲がそれだけ答えた。
葵が一度、瞬きをした。
赤い壁・金色の屋根・青く流れる光。三つの色が、揺らがずに重なって見えた。
——派手で、綺麗だ。
葵は心の中で思った。
——でも、これだけの光、どれだけの魔力なんだろう。
——アルカディア島も、街は光っているけれど。
——ここは、規模が違いすぎる。
葵が窓から目を離さないまま、もう一つ思った。
——効率は、悪そう。
声には出さなかった。
機体が、ゆっくり高度を下げ続けていた。
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下方に、巨大な構造物が現れた。
格子状の鋼鉄が、地上から空に向かって編み上がっている。鳥の巣のような形だった。中心が大きく開いていた。
「あれが、不壊の龍巣?」
「ええ」
蒼玲がカードのトランクを閉じた。
「鳥の巣を建て直した建物よ。屋根が開閉するの。今日のために、開けてあるわ」
専用機が、その開いた屋根の中へ降下していった。
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滑走路ではなかった。
機体は、巨大な空間の中央に静かに着陸した。葵が窓から見ると、機体の周りに広大な空間が広がっていた。観客席が、円形に幾重にも重なって、上空まで続いている。
天井は、開いた屋根から差し込む青い空。
機体が完全に停止した。
「降りるわよ」
蒼玲が立ち上がった。
葵もデッキケースを内ポケットで押さえながら、立ち上がった。田中花子はすでに通路に出ていた。
機体のドアが開いた。
ステップが地上に伸びた。
葵が外に出た。
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広大な空間だった。
ステップを下りた瞬間、空気が変わった。気温が、わずかに低い。空調が、施設全体に薄く効いているらしかった。葵の肌に、冷たい空気が触れた。
足元の床は、磨き上げられた黒い石だった。葵の足音が、空間に反響して、後ろから戻ってきた。
中央のフィールドは、ヘリポート二つ分ほどの広さがあった。観客席は、ぐるりと一周している。何万人入るのか、葵には分からない。
誰もいなかった。
一人も。
葵がもう一度、上を見上げた。開いた屋根の向こうに、青い空。北京の昼の光が、その空から静かに降りてきていた。
空気の中に、薄い金属の匂いがあった。新しい施設の、鋼鉄と空調の匂い。それと、もう一つ。葵には分からない、何か別の匂いも、混ざっている気がした。
「すごい……」
葵がそれだけ言った。
「ええ」
蒼玲が満足そうに頷いた。
「貸し切りよ」
「貸し切り……」
葵がもう一度、観客席を見渡した。
「広いですね」
「八万人収容できるの」
「八万……」
「今日は、三人だけ」
蒼玲が手で観客席を一周指した。
「私と、あなたと、花子。それだけ」
葵が言葉を見つけられなかった。
——八万人入る場所を、三人で。
——これだけの空調も、これだけの照明も、三人のため。
——派手だ。綺麗だ。
——でも、やっぱり、効率は悪そう。
葵は心の中でそう思った。
声には出さなかった。
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フィールドの中央に、黒い装置が二つ向かい合って置かれていた。
葵には、それが何か分からなかった。テーブルでもなく、椅子でもなく、何かの計器のような形をしている。
「あれは……」
「行けば分かるわ」
蒼玲がフィールドの中央に向かって歩き始めた。
田中花子は、観客席の一段目の方へ向かっていた。葵が振り返ると、田中花子はすでに座る位置を選び終えていた。一人だけの観客が、空席の真ん中に静かに座っていた。葵と目が合いそうになったが、田中花子の視線は、フィールドの中央を見ていた。
葵は蒼玲の後を、ゆっくり歩いた。
足音が、フィールドの床に響いた。歩くたびに、自分の足音が観客席のどこかから跳ね返って戻ってきた。八万人分の空席の壁に、葵の足音が一人だけ響いていた。
葵は内ポケットに手を入れた。デッキケースが、そこにあった。指先に、いつもの紙の感触が伝わってきた。
——僕の小さい頃からのデッキで、これから、ここで、デュエルする。
——蒼玲先輩の、世界に10枚しかないようなカードと。
——専用に作られたばかりの、新しいカードと。
葵が足を止めた。
蒼玲が振り返った。
「葵」
「あ、はい」
「来なさい」
葵がもう一度歩き始めた。
中央の装置の前まで、進んだ。




