第122話 鎧の音5
教員寮の階段を上った。
二階の廊下の窓から、夕方の光が差し込んでいる。アーデルの部屋の前で、葵は鞄を持ち直した。
扉を開けた。
「ただいま」
「葵殿!」
ソファから声が上がった。フィオナがすぐに立ち上がった。ジャージの上下姿だった。
「おかえりなさいませ!」
フィオナが廊下まで小走りで迎えに来た。葵の前で、両手を胸の前で握っていた。
「お帰りなさい、葵殿。お風呂は、まだですよね。お夕飯は、まだですよね。私が、何か、お手伝いできることは——」
「フィオナさん」
葵が小さく笑った。
「落ち着いて」
「あ……はい」
フィオナが両手を下ろした。それから、もう一度言い直した。
「お帰りなさい、葵殿」
「うん、ただいま」
葵は鞄をリビングの椅子に置いた。
フィオナがその間ずっと、葵の少し後ろを歩いていた。
「シェパーズパイ、食べた?」
葵が振り返って聞いた。
フィオナの目が、一度大きくなった。
「葵殿……!」
それから、頬が赤くなった。
「美味しかったです……あの、本当に……すごく、美味しかったです」
「よかった」
「お肉が、こう、ふっくらしていて、上のジャガイモも、ちょうど、こんがりと焦げ目がついていて、それで、紅茶も、冷蔵庫に冷えていて、葵殿が、用意してくださって、私のために、朝早くから……」
フィオナの言葉が、止まらなくなっていた。
「フィオナさん」
「はい」
「うん、よかった」
葵がもう一度言った。
フィオナが、何度かうなずいた。
ライラが胸元から、フィオナを見上げていた。何も言わなかった。
葵はリビングを見渡した。アーデルとオリビアはまだ帰っていない。テレビが小さな音で点いていて、天龍集団のおせんべいの空袋がローテーブルに置かれている。
平和な部屋だった。
「夕飯、準備するね」
「お手伝い、します!」
「うん、お願い」
葵は台所に向かった。フィオナが後ろをついてきた。
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冷蔵庫を開けた。
ラム肉のブロックが、まだ残っている。二日前にフィオナが間違って五キロ発注したものだ。クスクスとカレーとシェパーズパイで減らしてきたが、まだ三キロほどあった。
「ラム肉、まだあるね」
「私のせいで……」
フィオナが背中の後ろで両手を握った。
「気にしないで。冷凍が利くって、アーデル先生も言ってたから」
「はい……」
葵は端末でラムチョップのレシピを検索した。塩・胡椒・オリーブオイル・にんにく。シンプルな焼き方が出てきた。にんにくは冷蔵庫の野菜室にあった。
「今日はラムチョップ、焼くね」
「ラムチョップ!」
フィオナの目が大きくなった。
「私、好物です」
「そっか」
葵が肉のブロックを取り出した。包丁を握った。
「フィオナさん、お皿、出してもらえる?」
「はい!」
フィオナが食器棚に向かった。葵がラム肉を切り分け始めた。
「葵殿」
「うん」
「葵殿には、ご家族は……?」
葵の手は止まらなかった。
「うん、いるよ。両親と従姉妹がスウェーデンにいて。雛——従姉妹だけど、僕にとっては妹みたいな感じで」
「妹様……」
「うん、雛っていうんだ」
「ご一緒には、住んでらっしゃらないのですね」
「夏に両親がスウェーデンに転勤になって。雛も一緒に行ったから」
「お寂しくはないのですか」
葵が一拍、間を置いた。
「毎日電話してるんだ」
「毎日?」
「うん、一限と二限の間の休み時間に。あっちは夜だから、おやすみって」
フィオナがお皿を出す手を止めた。
「優しいですね、葵殿」
(……雛が寂しがるから)
葵は心の中でそう思って、肉を切る手を動かした。
「フィオナさんの、ご家族は」
「私は……」
フィオナの声が、少しだけ小さくなった。
「父と、母と、兄が三人。生前は、アイルランドで」
「うん」
「今は……どうしておられるか、まだ、聞けていません」
葵が肉を切る手を止めた。
「フィオナさん」
「はい」
「いつか、会いに行こうか」
フィオナが顔を上げた。
「葵殿……」
「うん、いつか」
フィオナの目に、少しだけ何かが滲んだ。すぐに引っ込めて、お皿を差し出した。
「お皿、出しました!」
「ありがとう」
葵は切った肉を皿に並べた。
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六時半に、アーデルが帰ってきた。
「ただいま」
「お帰りなさい、アーデル先生」
「お帰りなさいませ!」
オリビアもすぐ後ろから入ってきた。前髪が片目を隠していた。
オリビアが匂いをかいだ。
「……いい匂い」
「ラムチョップです」
オリビアがうなずいた。それから少しだけ、葵の方を見た。それから自分の席に座った。アーデルは読書椅子に鞄を置いて、上着を脱いだ。
葵は焼きあがったラムチョップを皿に並べた。にんにくの香りが立っている。サラダはいつもの分を作って、四人の席に並べた。
四人で食卓を囲んだ。
ラムチョップにナイフを入れると、中はピンク色だった。フィオナが目を輝かせた。
「美味しい……」
フィオナの目が、少しだけ潤んでいた。
「生前、母が、よく作ってくれて……お祝いの日に」
葵は何も言わずに、自分の分を切った。アーデルが静かにラムチョップを口に運んでいた。オリビアは黙ってサラダを食べていた。
「葵」
アーデルが言った。
「美味い」
それだけだった。それで十分だった。
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夕食の片付けが終わった。
アーデルとオリビアはそれぞれの部屋に戻った。フィオナがリビングのソファで、テレビの天気予報を見ていた。葵は湯を張りに浴室に向かおうとした。
「葵殿!」
ソファから声がかかった。
「はい?」
葵が振り返った。
フィオナが立ち上がっていた。両手を胸の前で握っていた。
「お背中を、流して、差し上げます」
葵が一拍、止まった。
「えっと……」
「妻として、当然のことです」
フィオナが胸を張った。少しだけ赤くなっていた。
「……自分でできるから、大丈夫だよ」
葵が小さく首を振った。
フィオナの動きが、止まった。
「あ……」
胸の前の両手が、ゆっくり下がった。
肩も、ゆっくり下がった。
葵は何と返したらいいか分からなかった。
「ごめんね、フィオナさん」
「いえ……」
フィオナが俯いた。
数秒の沈黙があった。
葵がもう一度お風呂に向かおうとした。
「あ、わかりました!」
フィオナが顔を上げた。目に、何かが灯っていた。
「え?」
「お姉さんの体に、我慢、できなくなるから、断ったんですね!」
葵が黙った。
「葵殿は、お優しいです」
フィオナが小さく息を吸った。
「私が、男心を、惑わせてしまったのですね……」
「……?」
「だ、大丈夫です、我慢して差し上げます!」
フィオナの頬が、すこし赤くなっていた。
葵は言葉を探した。
「うん、ありがとう」
そう言うのが精一杯だった。
フィオナが胸の前で両手を握って、嬉しそうに目を細めた。
「お風呂、ごゆっくり、お入りくださいませ!」
「うん」
葵は浴室に向かった。
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脱衣所で服を脱いだ。
胸元のライラが、葵の手のひらに乗った。
「お風呂、入ろうか」
ライラが何も言わなかった。
葵が湯船にお湯を張る。湯気が立った。
ライラのために小さな木の桶を浮かべた。ライラがそこに座って、湯気を吸い込んだ。
葵は湯船に肩まで浸かった。
ライラの桶が、葵の方にゆっくり流れてきた。
葵は天井を見上げた。
「フィオナさん、最後は嬉しそうだったね」
ライラが小さく音を立てた。同意とも、ため息ともつかない音だった。
葵が湯船にしばらく浸かっている。
ライラは何も言わなかった。
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お風呂から上がった。
リビングではフィオナがソファに正座して、葵を待っていた。テレビは消されている。手元に小さなノートが開いてあった。
「葵殿、お風呂、いかがでしたか」
「うん、温まったよ」
「よかったです」
葵はソファのフィオナの隣に座った。胸元のライラが、湯気の名残でまだ少し温かい。
「葵殿」
「うん」
フィオナがノートをぱらぱらとめくった。
「明日のお昼のことで、ご相談が」
「うん」
「明日のお昼は、街に、行きたいです」
葵が一拍、止まった。
「明日は、予定があるんだ」
「えっ」
フィオナの目が、また大きくなった。
「ご予定?」
「うん、蒼玲先輩と」
「先輩……」
フィオナの口が、開いたまま止まった。
「そんなー」
声が、少しだけ尾を引いた。
「私というものが、ありながら……」
葵が一拍、間を置いた。
「ごめんね、フィオナさん」
「はい……」
フィオナが俯いた。ノートのページが、めくれかけたまま止まっていた。
葵は次の言葉を探した。
数秒の沈黙があった。
フィオナがゆっくり顔を上げた。
「じゃあ」
ノートを開き直した。
「明日のお昼の、リクエストを、聞いていただけますか」
葵が小さく笑った。
「うん」
「ラム肉、まだありますよね」
「うん」
「ラム肉のロースト、を、もう一度……」
「シェパーズパイ?」
「いえ、塊で、オーブンで、ローストにしていただいて……」
フィオナの目が、再び輝いた。
「分かった、ローストね」
「ハーブを少しだけ、塩を強めに、それと、グレービーソースを……」
「グレービーソース?」
「肉汁で作るソースです。私、お手伝いいたします」
「うん、いいよ」
フィオナがノートに何かを書き始めた。
葵はそれを横で見ていた。
「葵殿」
「うん」
「日曜日は、お時間ありますか」
葵が一拍、考えた。
「日曜日は、特に予定ないかな」
「で、では」
フィオナがノートを握り直した。
「日曜日は、一日、私と、おでかけしていただけますか」
「うん、いいよ」
「一日……?」
「うん、一日」
フィオナがノートに何かを書き加えた。書く手が、少しだけ震えていた。
「お、お、お決まりに、なりましたら、お教えくださいませ!」
「うん、どこかフィオナさんが行きたいところに」
葵は何も言わずに、それを見ていた。
ライラが胸元で、静かにしていた。
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部屋着に着替えて、寝室に向かった。
寝室の扉に手をかけた。中から、小さな声が聞こえてきた。
「……いい匂い」
葵が一拍、止まった。
「もしや、浮気、ですか」
葵が扉を開けた。
フィオナがベッドの足元に立っていた。両手で葵の昼間の制服を持って、襟元に顔を埋めていた。
「フィオナさん?」
フィオナが、びくっと動いた。
ゆっくり顔を上げた。頬が赤くなっていた。
「な、何してるの?」
「い、いえ、これは……」
フィオナの目が、左右に動いた。
「洗剤の、匂いを、確かめているだけ、でして……」
「……洗剤」
「は、はい。お洗濯の、出来栄えを、確認しておりまして」
葵がベッドの方に向かった。
「あ、洗濯、自分でやろうと思ったから、置いておいてもらえる?」
「い、いえ、私が、お洗濯、いたします」
フィオナが制服を抱きしめた。
「もう一度、念入りに、確認、してから……」
葵が一拍、間を置いた。
「フィオナさん」
「は、はい」
「自分で洗うから、置いてって」
「は、はい!」
フィオナが制服をベッドの脇のカゴに置いた。それから両手を後ろに回した。
葵はベッドに向かった。フィオナがそれを見て、自分の側のスペースを空けた。
葵が布団に入った。
フィオナも、自分の側から入ってきた。
寝室の電気が、自動で消えた。
少しの沈黙があった。
それから、フィオナの腕が、葵の体に回ってきた。
葵を、ゆっくり抱き寄せた。
「葵殿」
「うん」
「お休みなさいませ」
「お休み、フィオナさん」
葵は目を閉じた。
胸元のライラが、フィオナの腕の中で、温かかった。




