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第121話 ソウルチューニング

南棟の階段を地下へ下りた。


足音が固い床に響く。天井の照明が白く落ちていた。廊下には誰もいない。


葵の鞄の中にはノートがあった。


昨日の夜にまとめたものだ。これまでアリアに教わったことを、最初から順に書き留めてあった。初めて鍛冶部を訪れた日のこと。銃の手入れを膝の上で教わった日のこと。羽根を渡した朝のこと。黒い杖を受け取った夕方のこと。リース先生が魂晶鉄(ウィルフォージ)の仕組みを話してくれた授業のこと。


葵の細い文字で順番に並んでいる。書きながら、自分でも覚え切れていなかったことに気づいた。


ライラが胸元にいた。


地下の廊下を奥へ歩いた。金属の匂いがする。古い鉄と、それより細かい何か。魔力が空気に薄く溶けて、息を吸うたびに鼻の奥に届いた。


鍛冶部の扉の前で足を止めた。


ノックの形に指を握った。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



扉を開けた。


中は明るかった。魔力炉の低い唸りが、空気を細かく震わせている。金属の匂いがさっきよりも濃くなった。


奥の作業台にアリアが立っていた。


エプロンの作業着。腕の付け根まで届く革の手袋。眼鏡だけが、いつもの細い銀のフレームのままだった。


「来た」


アリアが顔を上げた。短く、それだけ言った。


「アリア先輩、こんにちは」


葵は頭を下げた。


壁にアリアの武器が並んでいた。火を弾く形のライフルと、刃の細いナイフ。腕に着けるデバイス。前にも見たものだが、今日はもう少しよく見えた気がした。


アリアが作業台の手前に椅子を一つ引いた。


「座って」


葵は鞄を下ろし、横の床に置いた。ノートだけを手に取って、椅子のそばに立った。


「先輩」


「うん」


「ゴーグルは、しないんですか」


葵は前から気になっていた。アリアの目元は、いつも眼鏡だけだった。


アリアが葵を見た。


「火は、私に効かない」


「……すごいです」


葵が言った。


アリアが小さく息を吐いた。手袋を持った手を一度握って、もう一度開いた。


「手袋は、するんですね」


葵が続けて聞いた。


アリアが手袋を見た。


「昔の癖」


それだけ言って、作業台に戻った。


葵は椅子に座った。ノートを膝の上に置いた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



「今日は基礎編の一回目」


アリアが作業台の前で言った。


「道具から教える」


葵はノートを開く準備をした。


アリアが葵を見た。それから自分の椅子に座った。


膝を、軽く叩いた。


葵は一拍、止まった。


やっぱりか、と思った。


椅子から下りた。ノートを抱えて、アリアの膝の上に座った。


「動かないで」


アリアが短く言った。


「はい」


葵はノートを膝の上に広げた。


アリアが葵の手元を覗き込んだ。革の手袋を外した素手が、葵の肩のすぐ後ろにあった。


「……何」


「今までアリア先輩に教わったこと、まとめてきました」


アリアが一拍、間を置いた。


「見ていい?」


「はい、もちろんです」


アリアが葵の肩越しに、ノートに目を落とした。


葵が一ページ目を開いた。


最初のページは銃の手入れの工程。次が短剣の研磨。間に小さな絵が混じっている。各地域のエーテライトの色見本。葵の知っている範囲で、覚えたままを書き写したものだった。


アリアがゆっくりめくった。一ページ、もう一ページ。


葵は黙ってめくる手を見ていた。


工房の魔力炉が低く唸り続けている。


アリアがノートを閉じた。


「悪くない」


そう言って、作業台の方を見た。


それからもう一度、ノートに目を落とした。葵には背中で見えなかった。


葵は少し息を吐いた。


「ありがとうございます」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



「最初に、安全」


アリアが言った。


「火と魔力は危ない。私の指示がないときに勝手に道具を触らないで」


「はい」


「作業着・革手袋・ゴーグルは、後で渡す」


「実技、あるんですか」


「見学。私の手入れを見せる」


「はい」


葵は頷いた。


アリアが工房を見渡した。葵もそれに合わせて、視線を上げた。


「道具を、覚える」


アリアが奥の炉を指した。


「魔力炉。マナ・フォージ。普通の炉と違って、魔力で熱を出す。各属性の魔力で、違う熱になる」


葵はノートに書き込もうとした。


机が遠い気がした。手元が膝の上で揺れる。


書きにくいかも、と一瞬思った。


それでもペンを置いて、書こうとしてみた。


意外と書けた。


アリアの腕が葵の左右にあって、机の手前まで届いていた。背中に少しだけ体が当たる。前のめりになっても倒れない。手元が安定していた。


身長差があるからだろう、と葵は思った。


「鞴。ふいご」


アリアが葵の肩越しに、別の道具を指した。


「魔力の風を送る。普通の鞴の魔法版」


「はい」


ペン先が紙の上を走った。アリアの素手が葵の手元のすぐ脇にあった。


「冷却槽。焼き入れの水。普通の水じゃない。魔力液」


うなずいた。


ペンを持ち直したとき、アリアの手袋を外した指が葵の指先に触れた。革を取った後の素手は、思ったより冷たくなかった。


気にしないで書いた。


「作業台。これ」


アリアが目の前の台を軽く叩いた。


「魔力の流れを安定化する。鍛冶の基本」


紙の上に一行増えた。アリアの息が、葵の左の耳の上のあたりで止まっていた。


少しだけ、止まっていた。


葵はそれもメモに収めようとして、書く言葉を見つけられなかった。


「次は、計測装置」


アリアが言った。


声が、いつもと変わらなかった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



アリアが小さな筒のような装置を取った。


「マナ・メーター。魔力の量と質を測る」


葵が書こうとした。


アリアが葵の手の甲に、メーターの先を当てた。


数字が出た。画面に目を落とした。


——測定不能。


アリアが一拍、止まった。指がメーターを握り直した。


「……まあ、いい」


気にしないでメモを取った。前にも魔力適正調査で言われたことだった。慣れていた。


「次。ソウル・ゲージ。武器と持ち主の同調度を測る。あなたの杖でも使う」


「はい」


ペンが走った。


「レゾナンス・テーブル。複数の魔法陣の共鳴を確認する台。上級向け」


「はい」


「最後に、工具」


アリアが棚の上の小さな箱を指した。


「ヤスリ。番手で何種類かある。磨き布。小型のブラシ。治具」


ノートに増やした。


「使うときに、また説明する」


「はい、ありがとうございます」


葵がノートを閉じた。


アリアが葵の頭の上で、軽く息を吐いた。


「次、実技」


アリアが葵の脇に手を入れて、軽く持ち上げた。葵が膝から下りた。


アリアが立ち上がった。作業台の横の戸棚を開けた。中から畳んだ作業着を取り出した。革手袋とゴーグルもひと組、上に乗せた。


「これ」


アリアが葵に渡した。


葵が受け取った。布が思ったより大きかった。


「先輩のですか」


「予備。今日はこれで」


葵は服の上から作業着を羽織った。袖が手のひらを半分隠した。革手袋は指先に余裕があった。ゴーグルを頭にかけると、少し緩んで額の上で止まった。


匂いがした。


工房の金属の匂いに混じって、何か違うものが、布の内側にあった。


葵はそれを作業着の匂いとして受け取った。


アリアが葵を一度、上から下まで見た。


「ブカブカね」


そう言った。


「はい」


葵が答えた。


アリアがゴーグルを少し下げて、葵の目の位置に合わせた。指が葵のこめかみのすぐ脇に触れた。


「次は、合うのを用意する」


アリアが言った。


葵は何と返したらいいのか、すぐには出てこなかった。


「……ありがとうございます」


そう言った。


アリアが手袋を着け直した。


「来て」


作業台の方へ歩いた。


葵はノートを抱えて、後についた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



アリアが葵に手を出した。


「杖」


葵は自分の魂から堕星の黒翼杖を呼び出した。手の中に黒い感触が生まれて、それをアリアに渡した。


アリアが杖を作業台に横たえた。


ソウル・ゲージを杖の中ほどに当てた。針が動いて、止まった。


「同調度、確認」


アリアが葵を見た。


「悪くない」


葵は少し安心して、ノートに書いた。


アリアが手袋の指で杖を撫でた。指先が黒い表面を一往復した。


「中に、ばらばらに入ってる」


アリアが言った。


「素材ですか」


「魔力。雑多」


アリアが台の上の小さな結晶板に手を伸ばした。板を杖の中央に置いた。手のひらを杖の上にかざした。


低い唸りが工房に増えた。魔力炉の音とは違う、もう少し近い音だった。


杖の表面が薄く光った。


中から何かが、ゆっくり外へ出てきた。


色のついた糸のようなものだった。赤と、橙色と、淡い青が、結晶板の上に重なっていった。


葵は見ていた。


「火」


アリアが赤い糸を指した。


「火」


うなずいた。


「これも、火」


別の橙色の糸を指した。


「ほとんど、火」


ペン先が紙を擦った。


「これは、風」


アリアが淡い緑を指した。


「五十一層から七十層」


アリアが続けた。


「下の層で、何を倒したかが、ここに残る」


葵がノートに書いた。


アリアが結晶板の上に集まった糸を、一度に手のひらで覆った。


工房の音が、急に静かになった。


葵は見ていた。


アリアの手のひらの下で、糸が混ざり始めていた。赤が深く、橙が落ち着いた色になり、青が一段澄んで、すべてが一つに溶けていった。


葵はそれを、息を止めて見ていた。


アリアの顔が、いつもよりずっと近くにあった。眼鏡の縁に、結晶板の光が反射していた。


「ふぅ」


アリアが息を吐いた。


手を退けた。


板の上にあった糸の束は、なくなっていた。代わりに、一筋の細い光だけが、板の中央に残っていた。


赤と橙と緑が、同じ一筋の中に並んでいた。


「混ぜた」


アリアが言った。


「これを、戻す」


アリアが光を持ち上げた。指のあいだに細く伸びていた。それを、杖の中ほどに押し当てた。


光が杖に吸い込まれた。


杖の表面が、一度だけ大きく息をするように脈打って、また元の黒に戻った。


アリアがソウル・ゲージを当て直した。


針が、さっきより上のところで止まった。


「上がってる」


アリアが言った。


「悪くない」


ノートに一行書いた。


杖を渡された。手の中の重さが、来たときと少し違っていた。


軽くはなっていなかった。むしろ少しだけ、芯の通った重さに変わっていた。


「分かる?」


アリアが聞いた。


「はい」


葵が答えた。


「変わった気がします」


「成長した。敵を倒すたびに、これが続く」


ペンが走った。


アリアが葵をしばらく見ていた。


それから手袋を外して、作業台の端に丁寧に置いた。


「今日は、ここまで」


そう言った。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



葵がゴーグルを外した。額に少し痕が残っていた。


革手袋を外した。指がほんの少し汗ばんでいた。


作業着を脱いだ。畳んで、アリアに返した。


アリアが受け取って、戸棚に戻した。


「次は、火曜日」


「はい」


「ノート、また持って来て」


「はい、もちろんです」


葵は杖を握ったまま、魂の中へ戻した。手の中の重さが消えた。


ノートを閉じて鞄に入れた。


アリアが葵を見ていた。


「葵」


「はい」


「真面目だね」


短く、それだけ言った。


葵は何と返したらいいのか、すぐには出てこなかった。


「……ありがとうございます」


そう言った。


アリアが小さく息を吐いた。それから、作業台の方を向いた。


「気をつけて」


「はい、失礼します」


葵は鍛冶部の扉に向かった。


扉を開けたとき、工房の魔力炉の音が、一度大きく聞こえた。


廊下に出た。


夕方の光は届かない地下だった。それでも、廊下の照明がさっき来たときよりも、少しだけ温度を持って見えた。


葵は階段の方へ歩き始めた。


ライラが胸元にいた。


ライラが葵の耳元で言った。


「葵」


「うん」


「アリア、ちょっと嬉しそうだった」


葵が止まった。


「そうかな」


「うん」


「……真面目にやっただけだよ」


葵が言った。


ライラがそれ以上は言わなかった。


足音が、固い床に響いた。

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