第120話 エヌマ・エリシュ
二限の終わりの鐘が鳴った。
契約説法の教科書を閉じた。アーデルが教壇から黙礼して、教室を出ていった。
葵が荷物をまとめていると、隣の茜が体ごと向き直った。
「葵、ご飯食べましょ」
「私も」
反対側のセレンが続けた。
葵は手を止めた。
「ごめん、今日は用事があって」
茜が一拍、止まった。
「茜、じゃあ行こう」
セレンが自然な声で言った。
茜が答えるまでに、もう一拍あった。
「……ええ」
葵は鞄を肩にかけた。
「ごめんね」
「うん、また」
茜がそう言った。声はいつもと変わらなかった。
葵は教室を出た。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
廊下に出た。昼休みの空気が流れていた。Aクラスのホールから出て、本校舎の中央棟へ向かう廊下を歩いた。
礼拝堂はアカデミア・アルカナの敷地の端、丘の斜面に建っている。授業で使われることはない古い建物だった。学園長は、いつもここにいた。
中央棟を抜けて、外に出た。午後の光が、敷石の上に薄く広がっていた。風はなかった。十一月の空気は、まだ冷えきってはいなかった。
丘へ続く石畳の坂道を上った。坂の上に、礼拝堂が見えた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
石造りの扉を押した。冷たい空気が、廊下から流れてきたものと入れ替わるように内側から出てきた。葵はそのまま中に入った。
中は静かだった。高い天井から、縦長の窓を通った昼の光が、石の床に細長い影を落としている。木製の長椅子が並んでいて、正面に祭壇のような台がある。特定の宗教の装飾はない。あらゆる信仰を受け入れるための、抽象的な空間だった。
学園長は、前列の椅子に一人で座っていた。白髪の老人。皺の刻まれた顔に、深い疲労と、それ以上の何かが滲んでいた。葵が入ってきても振り返らなかった。
「小春葵か」
低く、静かな声だった。礼拝堂の天井まで届いて、戻ってきた。
「はい」
「座りなさい」
葵は学園長の隣に腰を下ろした。長椅子はいつものように冷たかった。
学園長の手元に、木の盆が置かれていた。サンドイッチの皿が二つ。紅茶のポットと、白い磁器のカップが二つ。
「食べながらでいい」
「ありがとうございます」
葵は皿を一つ、自分の膝の前に引き寄せた。サンドイッチはハムとレタス、もう一つはチーズと胡瓜だった。シンプルなものだった。
紅茶を注いだ。湯気が立った。
学園長は自分のカップを少しだけ口に運んだ。
「今日は、補習だ」
「はい」
「魔法世界史。お前は二回目を受けられなかった。」
「すみません」
「謝らなくていい」
学園長が短く言った。
「メソポタミアの話をする」
「はい」
サンドイッチを一口だけ食べた。それからノートを取り出して、膝の上に開いた。
学園長がそれを横目で見た。
「ノートを取るのか」
「あ……はい、すみません」
「いい」
短く、それだけ言った。それから少しだけ間を置いて、続けた。
「では、始めよう」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「メソポタミアは、人類の最古の文明の一つだ」
学園長が語り始めた。視線は、自分の手元の盆の方に落ちていた。
「シュメール、アッカド、バビロニア、アッシリア。順に栄え、順に滅びた。神話の体系は、その間に受け継がれた」
葵はノートに書いた。
「中心にあるのが、一篇の叙事詩だ。エヌマ・エリシュ。バビロニアの創世神話。『高きにありて』という冒頭の二語が題名になっている」
エヌマ・エリシュ、と書き留めた。
「神話の筋は短く話そう」
学園長が紅茶のカップを傾けた。
「原初に二柱の存在がいた。アプスー、淡水の神。ティアマト、塩水の女神。二柱が混じり、若い神々が生まれた。アヌ、エンキ、その他の神々」
「はい」
「若い神々の活動が、原初の静寂を乱した。アプスーは若い神々を滅ぼそうとした。だがエンキが先に父を討った」
葵が顔を上げた。
「神話は、しばしば残酷だ」
学園長が短く言った。
「ティアマトは夫の死を知った。他の神々に唆され、若い神々への報復を決意した。怪物を産み、十一の魔物を従え、配偶者のキングーを総司令に据えた」
ノートに書いた。
「若い神々は怯えた。アヌもエンキも、原初の母神と戦うことを恐れた。そこに進み出たのが、若い神マルドゥクだ」
「マルドゥク……」
「条件を出した。自分がティアマトを討つ。代わりに神々の頂点に立つことを認めろ。神々は受け入れた」
葵が一拍、黙った。
「マルドゥクは武装した。網と四方の風、雷霆、嵐の戦車、強大な弓矢」
「ティアマトが口を開いたところに、マルドゥクは四方の風を吹き込んだ。口が閉じられなくなった。閉じられない口に、弓矢を撃ち込んだ。心臓に達した」
葵がペンを止めた。
「ティアマトは死んだ。マルドゥクはその体を二つに引き裂き、半分を天に、もう半分を地に敷き詰めた」
「天と、地」
「アンキ。天と地。神々の住まう天と、人間が暮らす大地は、ティアマトの体だった」
ノートに書き留めた。
「総司令のキングーも討たれた。神話では、キングーの血から人間が作られたとされる」
葵が顔を上げた。
「人間が……ティアマトの軍勢の司令官から?」
「神話の上では、そうだ」
学園長が短く頷いた。それから少しだけ間を置いた。
「ここまでが神話だ。次は、現代の話をする」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
学園長が手を動かした。葵の前の長椅子の上にホログラムが展開した。中東の地図。イラク周辺に光が点いた。
「メソポタミアの地下深くから、ある鉱物が採れる」
地図が拡大した。
「アンキ石。天と地の境界から生まれた金属、と呼ばれている。深層採掘でないと取り出せない」
葵はノートに書いた。
「この鉱物から、ティアマトの魔力残滓が検出される。混沌と水属性の魔力。古いものだ。地中で長い時間をかけて結晶化したもの」
ホログラムの数値が並んだ。
「神話ではティアマトはマルドゥクに討たれ、その体が天と地に分かたれた。アンキ石は、その記録と一致する」
葵は頷いた。
「神話の通り、ということですね」
「そう解釈できる」
学園長が頷いた。
「ティアマトは討たれ、大地になった。アンキ石は、その死の証拠だ」
葵はノートに書いた。
「神話通りに、神は死んだ」
学園長が、もう一度静かに言った。
「神話通りに、神は死んだ」
その繰り返しを、書き留めなかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「ところが——」
学園長がゆっくりと言った。ホログラムが切り替わった。同じ中東の地図。今度はペルシャ湾の海域に、光が点いた。
「現代に観測される、もう一つの魔力がある」
葵はノートのペンを構え直した。
「ペルシャ湾の周辺で、たまに魔力が観測される。古い残滓ではない。生きた魔力だ」
葵が顔を上げた。
「ティアマトの、魔力ですか」
「性質は、一致する」
学園長が短く頷いた。
「死んだはずのものが、現代に観測される」
葵がしばらく黙った。ノートに書きかけて、ペンを止めた。書く言葉を選んでいるようだった。
「大戦争で、神々が復活したと言われています」
葵が口を開いた。
「ティアマトも、ですか」
「そう、考えられている」
学園長が頷いた。
「復活したとき、体も再構成されたのだろう。ティアマトは、人間界とは別の世界に住んでいると考えられている。たまに、故郷に戻ってくる」
葵がペンを動かした。
「故郷に……」
「自分の体が大地になっていた場所だ。懐かしいのかもしれない。あるいは——他の理由かもしれない」
それをノートに書いた。
「神話の通りに、神は死んだ」
学園長が静かに繰り返した。
「だが、現代に生きている」
葵は頷いた。
「死んだ証拠と、生きている証拠が、両方ある」
「そうだ」
学園長が一度、長く息を吐いた。
「これをどう解釈するか——私には、断言できない」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ホログラムが消えた。学園長は新しいスライドを出さなかった。指先で、木の盆の縁を一度なぞった。
「もう一つ、話しておきたいことがある」
「はい」
「神話では、キングーの血から人間が作られた」
葵は頷いた。さっきも聞いた話だった。
「現代の魔力スキャンで、人間の体を調べた結果がある」
ペンを構えた。
「結論から言う」
学園長が一度、瞼を閉じた。
「人間からは、キングーの魔力は検出されない」
葵が一拍、止まった。
「……検出されない、ですか」
「そうだ」
「神話と、合わない」
「合わない」
学園長が短く頷いた。
葵はノートを見たまま、しばらく動かなかった。
「ティアマトの魔力は、大地から検出される。神話通り。だが——キングーの血から作られたとされる人間からは、キングーの魔力が出ない」
学園長が紅茶のカップを一度、両手で包んだ。手のひらに少しだけ温度を移しているような動作だった。
「どういうことか、と聞かれることがある」
「はい」
「私には、分からない」
学園長が初めて、葵の方を向いた。深い目だった。葵を見ながら、葵を通り越して何かを見ているような目だった。
「人間が、神話通りに作られていないのかもしれない。あるいは、別の何かが起きたのかもしれない」
葵は黙ってその目を見ていた。
「神話の人間と、現代の人間は——同じものではない可能性がある」
ノートに書こうとして、書く言葉を見つけられなかった。
学園長は、もう一度ゆっくり息を吐いた。
「これも、断言はできない。だが——証拠は、そう示している」
葵はその沈黙を、しばらくそのまま受け取っていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
学園長が、静かに口を開いた。
「お前は、どう思う」
葵はペンを置いた。しばらく考えていた。紅茶のカップに、湯気がまだ立っていた。窓から差し込む光が、石の床の影を少しだけ動かしていた。
答えを探した。
「……神や悪魔は」
声が小さかった。葵自身が、口にしながら確かめているような声だった。
「人間の心から、生まれたものなのかもしれません」
学園長は答えなかった。
「神は、人々が信じることで存在している。たくさんの人が信じれば強くなり、信仰が薄れれば弱くなる。だとしたら——」
葵が一度、息を整えた。
「神話の中の神は、人間がそう信じた形のものなのかもしれません。だから神話の通りに、神は死んだ。でも——人間がまた信じれば、形を変えて生きていることもある。死んだ証拠と、生きている証拠が両方あるのは——人間の心が、神を支えているからかもしれません」
葵は自分の言葉を、自分で聞き直していた。
しばらく、礼拝堂の沈黙だけが二人の間にあった。
「……」
もう一度、口を開きかけて、やめた。
学園長が、それを待っていたように静かに頷いた。
「お前らしい答えだ」
否定でも、肯定でもなかった。
「では」
学園長がゆっくりと続けた。
「お前は、自分の力をどう考えている」
葵はペンを握り直した。
「……僕の力、ですか」
「そうだ」
しばらく黙っていた。それから、少しずつ言葉を選んだ。
「歪められた人がいると、思っています」
葵が言った。
「黒夢病の人たち。本当はこんなふうに苦しむはずじゃなかった人たち。誰かが運命を歪めている。僕は——その人たちを助けるために、神が力をくれたのではないかと、思っています」
「神が、お前に力をくれた」
学園長が繰り返した。
「はい」
葵は頷いた。
学園長は、しばらく葵を見ていた。深い目だった。葵を責めるでも、認めるでもない目だった。
「……」
葵は学園長の沈黙を、そのまま受け取った。何かを言われると思った。学園長は、何も言わなかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「それも、一つの答えだ」
しばらくして、学園長が言った。
「私が認めるかどうかは、別の話だ。だが——お前の中で、それが今の答えなのだろう」
「はい」
「急がなくていい」
学園長が、目を細めた。
「答えは、変わる。何度でも、変わっていい」
葵がノートに、その言葉を書き留めようとして——ペンを止めた。書く言葉ではない、と思った。
「また、問いを持って来い」
「はい」
葵が頭を下げた。
学園長は、もう何も言わなかった。葵のノートのページの上で、午後の光が少しずつ位置を変えていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「今日は、ここまでにしよう」
学園長が立ち上がった。葵も立ち上がった。
「ありがとうございました」
葵が頭を下げた。
学園長が頷いた。それから、ゆっくりと礼拝堂の奥へ歩いていった。
葵は一人になった。ノートと、まだ少し残っているサンドイッチと、冷めた紅茶のカップが目の前にあった。ノートを閉じた。サンドイッチを残すのは申し訳なくて、立ったまま最後の一口を食べた。
それから、礼拝堂の扉を押して外に出た。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
丘の上の空が、午後の光に染まっていた。葵は石畳の坂道を、ゆっくり下りた。
神は、人間の心から生まれたものなのかもしれない。
それは、補習で自分が言った言葉だった。
だとしたら——この力は、一体。
葵は歩きながら考えた。
神々はいる。それは間違いない。ライラがいる。バクがいる。フィオナさんがいる。玉座のルシファーも、いた。
だが、神々は人間の心から出来た存在なのか。
葵は途中で立ち止まった。
——そもそも、神とは、何なのか。
問いが、そこで一つの形になった。答えは、出なかった。
冷たかった。問いそのものが、冷たかった。
胸元で、ライラが動いた。葵の体温に寄り添うように、少しだけ近づいた。
温かかった。何も言わなかった。
葵もそれ以上、何も考えなかった。冷たい問いと、温かい何かが、胸の中に並んでいた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
三限の予鈴が、遠くで鳴った。
葵はもう一度、坂道を歩き始めた。教室は、丘の下にあった。




