第119話 鎧の音4
扉を開けると、音が聞こえた。テレビの笑い声と、何かを噛む音だった。
「ただい——」
リビングのソファから、振り向いた顔があった。横たわっている。ジャージ姿で、片手にスナック菓子の袋を持っていた。テレビには午後のバラエティ番組が映っている。
「葵殿!」
フィオナだった。
「お帰りなさいませ!」
フィオナがソファから半身を起こした。スナック菓子の袋が、お腹の上で揺れた。
「ただいま、フィオナさん」
葵はバッグを玄関の隅に置いた。靴を脱ぐ。床の冷たさが、足の裏に伝わってくる。
「アーデル殿は、まだお戻りでありませぬ。お夕食、いかがいたしましょう」
「うん、後で考えるね」
葵はリビングに上がった。フィオナの隣のソファに腰を下ろす。クッションが、葵の体重を一度、受け止めた。
ライラがふっと出てきて、フィオナの膝の上に乗った。スナック菓子の袋の隣に、ちょこんと座る。
「ライラ、来た」
フィオナがライラの頭に指を一本当てた。ライラが目を細めた。
葵は、少しだけ、息を吐いた。
テレビの中で、誰かが大きな声で笑っていた。
「葵殿、お菓子はいかがですか」
フィオナが袋を差し出した。葵の見たことのないパッケージだった。緑色の包装に、龍のロゴが入っている。
「天龍集団のおせんべいですか」
「はい。ネットスーパーで頼んでみたのです」
「いつ?」
「葵殿が朝、出かけられた後に」
「美味しそうだね」
葵は一枚つまんだ。塩味の強い、薄いせんべいだった。
「美味しいね」
「とても美味しいのです」
フィオナが頷いた。
「アーデル先生はおやつ食べないから、フィオナさんがネットスーパーで色々頼んでくれて、家が賑やかになったよ」
「賑やかですか?」
「うん。冷蔵庫を開けるたびに、新しいものが入ってる」
フィオナが嬉しそうに頷いた。
「葵殿のお好みのものも、これからどんどん頼みますね」
「うん、ありがとう」
「お任せください」
フィオナが胸を張った。
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窓ガラスを、何かが叩いた。
葵が振り返った。リビングの窓の外に、青白い光があった。
葵は立ち上がった。窓に近づいて、カーテンの隙間から外を見る。
そこに、人影があった。宙に浮いていた。背中に銀色の翼が広がっている。透き通る肌に、長い髪。性別がはっきりしない。
葵が瞬きを止めた。
「フィオナさん、誰か来てる」
「え?」
フィオナがソファから立ち上がった。葵の隣に来て、窓の外を見る。
「あ」
フィオナが固まった。
「天界の、使者さんです」
「天界?」
「はい。お顔から、ヴァニル海上銀行の方かと」
葵はフィオナを見た。
「ヴァニル海上銀行……?」
「私の口座のある、銀行です」
葵はもう一度、窓の外の人影を見た。人影は静かに、宙に浮いたまま、待っていた。
「開けますか?」
葵が聞いた。
「はい、お通しいたしましょう」
葵は窓を開けた。
潮風の匂いが、部屋に入ってきた。海の匂いだった。海が近くにあるはずがないのに、確かに、海の匂いがした。
使者がゆっくりと、窓枠の上に降り立った。翼を一度、たたんだ。
「フィオナ・オコナー様の御所はこちらでお間違いないでしょうか」
使者が頭を下げた。
「はい、フィオナはわたくしです」
フィオナが慌てて、襟元を整えた。ジャージ姿のままだった。
「ご無礼を、お許しくださいませ。突然のご訪問、申し訳ございません」
使者が丁寧に頭を下げた。
「お入りくださいませ」
フィオナがソファの方を示した。
使者が窓枠から、リビングの床に降り立った。翼が、もう一度、軽くたたまれた。
葵は窓を閉めた。潮風の匂いが、室内に残った。
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使者がソファの前に立った。腰は下ろさなかった。
「オコナー様、ヴァニル海上銀行よりの正式なご案内に参りました」
「は、はい」
フィオナがソファに座り直した。葵もその隣に腰を下ろす。ライラが葵の襟の中から、顔を半分だけ出した。
「貴行口座は、アスガルズ、ヴァニル海上銀行にて管理されております」
使者が空中に手を伸ばした。
巻物が現れた。
使者が巻物を広げると、空中に青白い光の文字が浮かび上がった。
『Nk 64,000,000』
葵はそれを見た。フィオナも、それを見た。
(……Nk?)
葵は内心で首を傾げた。
「フィオナ様、念のため申し添えさせていただきます」
「は、はい」
「Nkは、ヴァニル海上銀行の独自通貨、ノアトゥーン・クローネでございます」
「人間界の通貨はクレドでございますね」
葵は頷いた。
「お二人にもご理解いただきやすいよう、クレドで例えますと——」
使者が巻物の文字を書き換えた。
『640,000,000』
「およそ六億四千万クレドに相当する規模でございます」
フィオナが固まった。
「ろ、ろくおく……」
葵はフィオナを見た。フィオナの目が、真っ赤になっていた。
(人間界にいると、貯金が増えるんだ)
葵は感心した。
使者が巻物を少し下ろした。
「神魔界においては、中位神の口座と同等の規模でございます」
「新米ヴァルキリーの方が、わずか数日でこの規模に至った例は、当行史上にもございません」
使者が頭を下げた。
「フィオナ様」
「は、はい……」
「貴行口座は、特例ランク『ノアトゥーンの賓客』に到達しております」
「ノ、ノアトゥーン……」
「ニョルズ頭取の館の名でございます」
使者が巻物を、もう一度、空中に広げた。
『ノアトゥーンの賓客プラン』
「専属コンシェルジュをお付けいたします」
「ドラウプニル口座への切替が可能でございます」
「九日ごとに、預金が自動的に増殖いたします」
フィオナの口が、開いたまま止まっていた。
「ご検討、いただけますでしょうか」
使者が丁寧に頭を下げた。
「あ、あの……」
フィオナが葵を見た。
葵は頷いた。
「フィオナさんが決めていいよ」
「で、でも……」
「うん」
葵がもう一度、頷いた。
フィオナがしばらく考えた。
「あの、使者様」
「はい」
「専属コンシェルジュとは、何でございますか」
「オコナー様専属の銀行員でございます。お金のご相談・投資のご助言・各種手続きを代行いたします」
「ド、ドラウプニル口座は」
「九日ごとに、預金額が一定の割合で自動増殖いたします」
「自動、増殖……」
フィオナが声を震わせた。
「は、はい、ぜひ、お願いいたします!」
フィオナが深く頭を下げた。
使者が頷いた。
「ありがとうございます。手続きは即座に完了いたします」
使者が空中で、指を一度振った。
光の文字が、もう一度書き換わった。
『「ノアトゥーンの賓客」プラン適用済み』
『ドラウプニル口座切替完了』
「以上でございます」
使者が頭を下げた。
「では、わたくしはこれにて」
使者が窓に向かった。葵が窓を開けた。
「失礼いたします」
使者が宙に浮かんだ。銀色の翼が、夜空に溶けるように消えていった。
潮風の匂いが、しばらく残っていた。
葵は窓を閉めた。
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窓を閉めた葵は、ソファに戻った。
フィオナは、まだ、ソファに座ったままだった。
口が半分開いていた。
葵が、フィオナの隣に座った。
「フィオナさん、大丈夫?」
「は、はい」
フィオナが、ゆっくりと、葵を見た。
「葵殿」
「うん?」
「私、たくさんお金持ちになりました!」
「うん、よかったね」
「これからもどんどん召喚していただければ、もっとお金持ちになります!」
「うん、わかった」
「あとですね、葵殿」
フィオナが、胸を張った。
「もし葵殿が、その、いつかおなくなりになりましたら——」
葵が瞬きをした。
「私が天国で養って差し上げますので、ご安心くださいませ!」
葵が、しばらくフィオナを見ていた。
「うん、ありがとう、フィオナさん」
「お任せください!」
フィオナが、胸を張ったまま、得意げに頷いた。
「実はですね、葵殿」
フィオナが、声を少しひそめた。
「天界の駅近マンションを、もう一室——」
そこで、フィオナが言い直した。
「いえ、一棟、買おうかと思っております」
「一棟」
葵が瞬きをした。
「はい。そちらは、お貸しするのです」
「貸す」
「家賃をいただきまして」
フィオナが、両手を握り合わせた。
「働かずに暮らせるのです!」
葵がしばらくフィオナを見ていた。
「……不労所得?」
「はい、不労所得です!」
フィオナの目がきらきらしていた。
「葵殿、ご存知でいらっしゃいましたか」
「うん、まあ」
「素晴らしい発想ですよね!」
フィオナが、胸を張った。
「家賃が毎月入ってきますので、お庭付きのお家で、ゆっくり暮らせるのです」
「お昼は、神様の宮殿のレストランで」
「うん」
「アンブロシアという、神様の食べ物があるそうなのです」
「うん」
「夕方は、葵殿と天界の街を散歩いたしまして」
「夜は、天界の劇場でお芝居を観るのです」
葵が頷いた。
フィオナの目がきらきらしていた。
「私の昔のお給料では、とても叶わない暮らしでしたが——」
フィオナが、両手を組んだ。
「葵殿のおかげで、もう、お金は足りているのです!」
葵が、しばらくフィオナを見ていた。
「うん、たのしそうだね」
「とても楽しそうなのです!」
フィオナが、胸の前で両手を握り合わせた。
「葵殿と一緒に、毎日それをしましょう!」
「うん」
葵が頷いた。
(……フィオナさん、得意げだ)
葵が内心でそっと思った。
フィオナが、ソファの背もたれに、嬉しそうに体を預けた。テレビの音が、また聞こえ始めた。誰かが、大きな声で笑っていた。
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六時を回った頃、葵が立ち上がった。
「フィオナさん、夕食、作ろうか」
「あ、はい」
フィオナがソファから起き上がった。スナック菓子の袋を、テーブルの上に置く。
「今日は、ラムカレーね」
「ラムカレー!」
フィオナの目が、ぱっと開いた。
「冷蔵庫のラム肉、少しずつ消費していきたいから」
「ありがとうございます……!」
フィオナが、両手を組んだ。
葵が台所に立った。冷蔵庫を開ける。中段に、ラム肉がまだたっぷり残っていた。
「うん、今日は六百グラムくらい使うかな」
葵がラム肉をまな板に出した。包丁を取り、皮を剥いていく。
フィオナが、葵の隣に立った。
「葵殿、わたくしも、お手伝いいたします」
「うん、玉ねぎ剥いてくれる?」
「はい」
フィオナが白いエプロンを着けた。昨日も使ったエプロンだった。
葵が、ラム肉を一口大に切っていく。包丁の音が、まな板に響いた。
フィオナが、玉ねぎの皮を剥き始めた。すぐに、目を細めた。
「葵殿……」
「うん?」
「玉ねぎが……」
「うん、涙が出るよね」
「涙が、止まりませぬ」
フィオナが、目元を手の甲で拭った。
「フィオナさん、それ、玉ねぎだから」
「分かっておりますが……」
葵が小さく笑った。
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ラム肉を炒め、玉ねぎを加え、トマト缶を入れ、香辛料を振る。
カレーの匂いが、台所に立ち始めた。
「葵殿は、料理がお上手ですね」
「うん、慣れてるから」
「カレーは、お得意でいらっしゃいますか」
「カレーは結構作るね。ライラに教わって」
フィオナが、コンロの火を見ていた。
「葵殿……」
「うん?」
「あの……」
フィオナが、両手を握り合わせた。
「明日のお昼、なのですが」
「お昼?」
「葵殿は学校へ行かれますよね」
「うん」
フィオナが、エプロンの裾を、少し握った。
「私、今日のお昼は出前で済ませたのですが」
「うん、そうだね」
「出前は、おいしいのです」
「うん」
「とても、おいしいのです」
葵が頷いた。
「ですが……」
フィオナが、一拍、止まった。
「なんというか、愛情が、ない、と申しますか」
葵が瞬きをした。
「葵殿に作っていただかないと、味気ないと申しますか」
フィオナの顔が、もっと赤くなった。
「明日のお昼、作っていっていただけませんか」
葵がしばらく、フィオナを見ていた。
「……うん、いいよ」
フィオナの目が、ぱっと開いた。
「よろしいのですか!」
「うん。フィオナさん、何が食べたい?」
フィオナが、しばらく考えた。
「あの、シェパーズパイが」
「シェパーズパイ」
「はい。生前、母が作ってくれた……アイルランドの料理です」
葵が頷いた。
「分かった。明日のお昼、シェパーズパイ作るね」
「ありがたく頂戴いたします!」
フィオナが深く頭を下げた。
葵が、コンロの火を弱めた。
カレーの匂いが、台所いっぱいに広がっていた。
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七時を回った頃、扉が開いた。
「ただいま」
アーデルの声だった。続いて、オリビアの足音。
「お帰りなさいませ、アーデル殿、オリビア殿」
フィオナが台所から振り返った。
「ただいま、フィオナさん」
オリビアが、リビングに入ってきた。
「いい匂いがしているな」
アーデルが、コートを脱いだ。
「ラムカレーです」
葵が答えた。
「冷蔵庫のラム肉、まだ残ってたから」
「いいだろう」
アーデルが、ダイニングテーブルに着いた。オリビアもその隣に座る。
「フィオナさん、お手伝い、ありがとう」
オリビアがフィオナに微笑んだ。
「いえ、わたくしは、玉ねぎを剥いただけです」
「玉ねぎは大切なお仕事ですよ」
オリビアが頷いた。
フィオナが、ほっとしたように、エプロンを外した。
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葵が、ラムカレーを四つの皿に盛った。
ご飯の上に、香辛料が立ち上る赤いカレーが、たっぷりとかかった。
「いただきます」
四人が、声を揃えた。
アーデルが、最初の一口を、ゆっくりと味わった。
「小春、これは」
「うん?」
「このラムカレーは、レシピがだいぶ複雑だな」
「ライラがいろんな香辛料を試させてくれて」
「うむ。悪くない」
アーデルが、もう一口、運んだ。
オリビアも頷いた。
「ラム肉の臭みが、よく消えていますね」
「ありがとうございます、オリビア先生」
フィオナが、目を細めて食べていた。
「葵殿のお料理は、本当に美味しいのです」
「うん、ありがとう」
フィオナが、もう一口、運んだ。
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食事が、半分ほど進んだ頃。
「アーデル殿」
「うん?」
「実はわたくし、マンションを買おうかと思っております」
アーデルが、スプーンを止めた。
「マンション」
「天界の駅近マンションでございます」
「ふむ」
「一棟、買いまして、お貸しするのです」
「ほう」
「不労所得です!」
フィオナが、胸を張った。
アーデルが、しばらくフィオナを見ていた。
「商才があるな」
「あ、はい」
葵が頷いた。
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葵が、お風呂を済ませた。
着替えてベッドに入った時には、九時を回っていた。
フィオナは、まだお風呂に入っていた。
葵が、端末を手に取った。
シェパーズパイの作り方を、検索した。
オーブンで焼く時間が、四十分。
仕込みに、一時間。
冷ます時間と、お弁当箱に詰める時間。
学校の準備の時間。
朝食の時間。
逆算した。
葵が、端末のアラームを開いた。
普段は六時三十分。
明日は——
六時に設定した。
それから、もう一つ、変更した。
アラームの音を、バイブレーションのみに切り替える。
(フィオナさんを起こさないように)
葵がそう思った。
(明日のお昼、楽しみにしててね)
葵が、ライラを見た。
ライラは葵の襟の中で、半分眠っていた。
葵が端末を、枕元に置いた。
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しばらくして、フィオナが寝室に入ってきた。
ジャージ姿で、髪がまだ少し濡れている。
「葵殿、お先に失礼いたします」
「うん、おやすみ、フィオナさん」
フィオナがベッドの脇に立った。
「あの、今日は、本当に、ありがとうございました」
「うん」
「お金のことも、お昼のことも……」
「いいよ。ゆっくり休んで」
フィオナがベッドに入った。葵を抱き枕にした。
フィオナの体温が、葵の背中に伝わってきた。
「葵殿……」
「うん?」
「夫婦のことは——」
葵が瞬きをした。
「葵殿が大きくなるまで、我慢いたしますからね」
「うん」
「葵殿は、まだ十五歳でいらっしゃいますから」
「うん」
「私の方が、ずっと、お姉さんなのです」
葵が頷いた。
「ですので、わたくしが、しっかり、お待ちいたします」
フィオナが、葵の頭の上から、決意の声で言った。
「うん、ありがとう、フィオナさん」
葵が静かに答えた。
(……夫婦のこと、って何のことだろう)
葵が内心でそっと思った。
「おやすみなさいませ、葵殿」
「おやすみ、フィオナさん」
フィオナが、葵を抱きしめたまま、目を閉じた。
葵も、目を閉じた。
(明日は、六時)
葵が、最後にそう思った。
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バイブの振動が、葵の左手の中で、短く三度震えた。
時刻は午前六時。窓の外は、白み始めていた。
フィオナが、葵の背中に腕を回していた。寝息が、首筋に温く触れていた。
葵はそっとその腕をほどき、音を立てないようベッドを抜け出した。
洗面所で顔を洗い、台所に出ると、アーデルがすでにダイニングチェアに座っていた。
端末のニュースを印刷した新聞を広げている。紙じゃないと頭に入らないと、以前言っていた。
葵が冷蔵庫を開けると、視線だけこちらに来た。
「おはようございます」
「うむ」
葵はラム肉を二百グラム取り出した。フードプロセッサーでひき肉にする。
ライラが葵の襟から顔を出した。
「葵、早い」
「うん、シェパーズパイ、作るから」
「アイルランドの、お家の味」
「うん」
玉ねぎと人参をみじん切りにして、フライパンで炒めた。
ひき肉を加えて、塩、胡椒、ローズマリー、タイム。耐熱皿に移して、赤ワインとブイヨンを少し加える。
別の鍋でじゃがいもを茹で、マッシュポテトを作った。
具材の上にマッシュポテトを乗せて、フォークで波打たせる。バターを薄く塗って、二百度のオーブンに入れた。
タイマーを四十分にセットする。
「シェパーズパイか」
紙から目を上げて、アーデルが言った。
「はい。フィオナさんのお昼です」
「いい匂いだ」
アーデルが、再び新聞に目を戻した。
葵は、朝食の準備に移った。
パンケーキの生地を作って、フライパンで焼いた。
ハムを切り、サラダを盛る。
紅茶を淹れて、出来上がったものを順にアーデルの前に置いた。
「ありがとう」
紙から目を上げて、アーデルが言った。口元がわずかに緩んだ。
「いただきます」
葵とアーデルが、声を合わせた。
パンケーキにメープルシロップを垂らす。バターが、ゆっくり溶けた。
アーデルが、ゆっくりと一口食べた。
「ふんわりしているな」
「ありがとうございます」
タイマーが鳴った。
葵がオーブンを開けると、シェパーズパイの表面に黄金色の焦げ目がついていた。
作業台に置いて、紙のメモを添えた。
『フィオナさんへ
オーブンで十分温めて食べてね
紅茶も冷蔵庫にあるよ
葵』
ライラがメモを覗き込んだ。
「葵、丁寧」
「そうかな」
メモをシェパーズパイの脇に置いた。
時計は、七時十分を、指していた。




