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第117話 ヘシオドスの怪物

最後の橋を渡った先に、巨大な浮島があった。


他の浮島とは違った。

広さも、高さも、別物だった。

浮島の最上層に、白い大理石の神殿が立っていた。半壊していたが、輪郭はまだ神殿のものだった。

柱が十二本。半分が折れて、半分が立っている。

柱の隙間から、中央広間が見えた。


葵は神殿の入口に立った。


足の下で床が軋んだ。

広間の床は大理石だった。一面に深いひび割れが走っている。所々ですでに崩れて、雲海まで穴が抜けていた。

踏める場所と踏めない場所が混ざっていた。


ここは、かつて誰かが封じた場所だった。


葵はそれを直感した。

床に走るひび割れの形が、自然のものではなかった。何かを封じるための紋様が、長い時間を経て、輪郭だけを残していた。

封印はもう機能していない。

だが、封印が機能していた時代の重さだけが、まだ床に残っていた。


ーーーーーーーーーーーーーーー


風が、戻った。


止まっていた六十九層の風とは別物だった。

広間の中央から外側に向かって、強い風が吹き続けていた。

風の中心は、広間の最奥にあった。


葵は視線を上げた。


最初に見えたのは、大きさだった。


全長は二十メートルを超えていた。葵たちが立つ場所から見上げても、頭の先までは届かなかった。

半壊した神殿の天井を、すでに突き破っていた。


上半身は人型だった。

だが、肩から無数の蛇の頭が生えていた。十本でも二十本でもない。

百本——あるかもしれなかった。

それぞれの蛇の頭が、別々の方向を向き、別々の速度で舌を出していた。


下半身は絡み合う蛇の尾だった。

人の脚はなかった。代わりに、太い蛇の胴が何本も組み合わさって床を覆っていた。


背中に翼があった。

蝙蝠の翼でもなく、ドラゴンの翼でもなかった。

両方を混ぜたような膜だった。

広げられた翼の縁がゆっくり動いていた。羽ばたいてはいない。それでも、翼の動きに合わせて、広間の外側で小さな竜巻が生まれていた。


そして、目。


百の蛇の頭。それぞれの両目。

全てが雷光を帯びていた。

広間の中で、無数の青白い光が、別々の方向を、別々の速度で動いていた。


口からは、黒い嵐の息が絶え間なく漏れていた。

息が広間の床に届くと、大理石の表面が薄く溶けた。


経典の中だけにあるはずの怪物が、目の前にあった。


(テューポーン)


視界の隅に文字が出た。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


ヘシオドスがそれを記した。

ゼウスと互角に渡り合った、神話最強の怪物。

神々の側ではなく、神々と戦った側の、最後の存在。


葵はそれを知っていた。

礼拝堂で、世界史で、何度か名前を聞いていた。


知っていたが——目の前に立つと、知識は意味を持たなかった。

ただ、その大きさが、葵の視界の全てを占めていた。


葵は息を吐いた。

息は白くならなかった。

六十九層の冷気はここにはない。代わりに、熱と毒の匂いが混じった黒い嵐が、広間全体を満たしていた。


遠くで、別の浮島がゆっくり沈んでいくのが見えた。

ここよりも遥か下に、もう一つの浮島が傾いて、雲海に飲まれていく。

音はしなかった。


頭上で、巨大な雷雲が渦を巻いていた。

渦の中心は、ちょうど、テューポーンの真上にあった。


「葵」


ライラが胸元から声を出した。


「頑張って」


ライラの声は、いつもの戦闘中の指示の声ではなかった。

短く、静かで、信頼があった。

少しだけ不安も混じっていた。

それでも、ライラは葵を送り出していた。


葵は頷いた。


「うん。頑張る」


茜が葵の隣に立っていた。

セレンが葵の反対側に立っていた。

三人で、テューポーンを見上げていた。


「行こう」


葵が言うと、茜が頷いた。

セレンが左腕のガントレットを上げた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


テューポーンが動いた。


最初に動いたのは口だった。

人型の上半身の中央——本体の口が開いた。


黒い嵐が噴き出した。


風と煙と、雷光と毒の混じった、暗い気体だった。

それが葵たち三人に向かって、扇形に広がって押し寄せてきた。


葵は息を吸う前に、両手を前に上げた。


「光よ、砦となれ——フォルティス・ルクス」


三枚の壁が、それぞれの前に、寸分の狂いもなく立った。


黒い嵐が壁にぶつかった。

壁の表面がわずかに沈んだ。それでも貫通はしなかった。

嵐が壁の両側に流れて、神殿の柱の根元を削った。


柱の一本が根元から折れた。

落ちる音が、嵐の中に消えていく。


「葵」


茜が言った。


「壁、すごい」


「ありがとう」


葵は短く返した。

フォルティス・ルクスの三枚はまだ立っていた。

黒い嵐が止んだ後も、壁は薄く光ったまま、その場に残っていた。


セレンが左腕を上げた。


「右、来る」


テューポーンの本体の右肩から、雷光が走った。

肩の蛇の頭の一つが口を開けた。

雷がその口から、雲の上に向けて、垂直に放たれる。

雲の中で雷が広がる。

雲が別の形を持って、地面に降りてきた。


獅子の体。雷の毛皮。

ライジュウだ。

一体ではなかった。三体、同時に地面に降りた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


葵は視界の隅から、契約陣のリストを呼び出した。

端末の表示が、視界の右下に展開する。


キマイラを選んだ。


青い光が葵の前で渦を巻いた。

光の中から、三つの体が組み合わさった獣が現れた。

ライオンの頭。ヤギの頭。蛇の頭。

一つの胴体に、別々の頭が生えていた。

ヤギの頭が、葵の方を一度だけ見た。


「キマイラ、ライジュウを」


キマイラが地面を蹴った。

ライオンの口が火を吐く。


ライジュウの一体が火を浴びて、雷の毛皮を焼かれた。

それから、二体目のライジュウに、キマイラのヤギの頭が突進する。

角がライジュウの胸を貫いた。


最後の一体は、葵の弓が距離を取ったまま射抜いた。

矢がライジュウの首を貫く。


三体とも、雷の毛皮がゆっくり消えていった。


その時、床が揺れた。


葵は床を見た。

さっきまでひび割れていた大理石の一部が、完全に消えていた。

直径二メートルほどの穴が、葵の三歩前に開いている。

穴の向こうに雲海が見えた。

落ちれば、戻れない。


「葵」


セレンが叫んだ。


葵は穴の縁から二歩下がった。

茜とセレンも別の方向に下がる。


「床、崩れる」


葵は頷いた。


戦闘中、床は崩落し続けるらしい。

踏める場所と踏めない場所が、戦闘の最中に入れ替わる。

位置取りが、重要になる。


葵は視線をテューポーンに戻した。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


テューポーンの肩の蛇の頭が一斉に動いた。

百本の頭が、同時に、葵たち三人の方を向いた。


百の口が開いた。


葵は咄嗟に耳を塞ぐ前に、衝撃波が来た。


音だった。

百の蛇の頭が、同時に咆哮した、その音だった。

空気そのものが葵の体を押した。

押された葵の足が、床の上で半歩ずれた。


茜の体が後ろに飛んだ。


セレンが葵の腕を引いた。

葵がセレンと一緒に後ろに倒れる。

そのまま、二人で床を転がった。

さっきまで葵が立っていた場所の床が、咆哮の振動で崩れた。

穴がまた一つ増えた。


葵は身を起こした。


「茜!」


茜は五メートルほど後ろの、柱の根元にいた。

ドミニオンの聖なる杖が、茜の体を支えていた。

ドミニオンが、咆哮の直前に、茜を抱き止めていた。


「私、大丈夫」


茜の声は少し震えていた。

だが、立っていた。


テューポーンの下半身が動いた。


絡み合う蛇の尾の一本が、地面から離れた。

それが横に薙がれる。

広間の床の上を、巨大な蛇の胴が、横回転で走った。


葵は跳んだ。

セレンも跳ぶ。


尾の通った後の床が、大理石ごと削れていた。

削れた大理石の破片が、雲海に向かってゆっくり落ちていく。


葵は空中で振り返った。

キマイラがまだ広間にいた。

ライオンの体が、テューポーンの蛇の尾の前で踏ん張っている。

尾の薙ぎ払いを、キマイラの体が受け止めた。


ライオンの体が横に飛んだ。

キマイラが床に叩きつけられて、青い光に包まれた。

姿が消えていく。


視界に文字が走った。


(キマイラ) 再召喚不可


葵は着地した。


キマイラの送還を、葵は冷静に受け取った。

キマイラは、葵を守るために尾を受け止めた。

だが、死んだ訳ではないはず。

ありがとう、と葵は心の中で言った。


葵はテューポーンを見上げた。


百の蛇の頭。本体の口。蛇の尾。翼。

全てがまだ動いていた。


ただ、最初より、動きがわずかに重くなっていた。

百の蛇の頭の動きが、ほんの少しだけ揃ってきている。

本体の口から漏れる黒い嵐の息も、最初の咆哮の時より、薄くなっていた。


葵は堕星の黒翼杖を握り直した。


「茜、セレン」


二人が同時に頷いた。


「次、来るよ」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


テューポーンの肩で、四方の蛇の頭が一斉に動いた。


四本の蛇の首が、それぞれ別の方角を向く。

北、南、東、西。

四本の口が同時に開いた。


四つの風が出た。

さっきと同じ風だった。

さっきは四体に分かれていた風が、今度はテューポーンの体から、四つ同時に出ている。


葵は契約陣を開き、火車を選んだ。


青い光が渦を巻く。

大きな黒い猫が現れた。

体は黒く、輪郭の周りに炎が纏わりついている。

四つの足で地面に降り立った。

牙と爪が白く鋭い。


「火車、北と南」


葵が言うと、火車は地を蹴った。


葵は堕星の黒翼杖を弓に変えた。


東から砂混じりの風が押し寄せる。

葵が矢を放つと、光の矢が砂の中を貫いた。

東の蛇の頭の口に、矢が入る。

東の蛇の頭が口を閉じ、砂の風が止まった。


「西、私が」


セレンの矢が空気の刃の中を抜け、西の蛇の頭の喉に刺さる。

西の風が止まった。


火車は北で氷の風と組み合っていた。

炎と氷がぶつかり、白い湯気が立つ。

南でも同じだった。

熱と毒の風が、火車の炎と混じり合っていく。


四方の風が止まった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


テューポーンの百の蛇の頭が、一斉に上を向いた。

百の口が同時に何かを吐く。

霧のようなものが雲の中に消えていった。


数秒、間があった。


雲の中から、無数の鳴き声が降りてくる。


半人半鳥の体。女の顔。長い髪。

ハーピュイアイの群れが、空から落ちてきた。

十、二十、三十——


茜が空を見上げる。


「天使様」


ドミニオンが茜の後ろから上に出た。

翼が雲を払う。

聖なる槍が、最初の一体を貫いた。


セレンが左腕を構え直した。


「葵、群れは私たちで」


「本体、僕がやる」


葵が頷いた。


その時、テューポーンの背中から鳴き声が聞こえた。

鷲の鳴き声と、獅子の唸り声が混じった声。


テューポーンの背中の翼の付け根から、四足の獣が顔を出す。

鷲の頭。獅子の体。

グリフィンだ。


グリフィンがテューポーンの背中に足をかけた。

そのままテューポーンが、グリフィンを乗せて翼を深く広げる。

翼の動きで生まれた竜巻が、葵の方へ押し寄せてきた。


葵は跳んだ。

竜巻が、葵が立っていた床を削っていく。

削れた大理石が雲海に落ちていった。


葵は空中で弓を構え、矢をつがえる。

光が矢の先で集まり、ライラの魔力が足に流れていた。

着地の衝撃が、軽くなる。


葵がグリフィンに矢を放つと、矢がグリフィンの胸を貫いた。

グリフィンがテューポーンの背中から空中に投げ出され、雲海に向かって落ちていく。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


葵はテューポーンの本体を見上げた。


百の蛇の頭の、その下。

人型の上半身の、中央。

黒い嵐の息を吐き続けている、本体の口。

そこが、当たるべき場所だった。


葵は堕星の黒翼杖を剣に変えた。


「ライラ」


ライラの魔力が、葵の腕に流れ込む。

剣の輪郭が、白く薄く輝いていた。

ライラとの合一の、第一段階。


葵は走った。


半壊した神殿の柱の一本が、葵の前にあった。

葵は柱の根元を蹴り、壁を駆け上がっていく。

柱の頂上で、もう一度蹴った。


葵の体が、空中で、テューポーンの胸の高さまで上がった。


百の蛇の頭が、葵の方を向いた。

百の口が開く。


葵はそれを見ていなかった。

葵の視界には、テューポーンの本体の胸だけが入っていた。


葵は剣を突き出した。


光の剣が、テューポーンの胸の中央に刺さる。

刺さった場所が、白く焼けていった。


テューポーンが、初めて、咆哮以外の声を出した。

低く、長く、苦しそうな声だった。


百の蛇の頭の動きが、一瞬止まる。

百の目の雷光も、一瞬消えた。


葵は剣を深く押し込んだ。

光が、テューポーンの体の中で広がっていく。


葵は剣を引き抜き、そのままテューポーンの胸を蹴った。

反動で、葵は空中に下がる。


落下しながら、葵は弓に変え、矢をつがえる。

光の矢を、もう一発、本体の口に撃ち込んだ。


矢が口の中で光った。


葵は床に着地した。

ライラの魔力が、膝の衝撃を和らげる。


テューポーンの動きが、もう一段、重くなっていた。

百の蛇の頭の動きが、揃ってきている。

本体の口から漏れる息が、薄くなっていた。


火車はまだ動いていた。

ハーピュイアイの群れも、半分残っている。

茜とセレンが、まだ抑えていた。


「葵、まだ来る」


ライラが胸元から言った。


葵は頷いた。


「次、来るよ」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


テューポーンの胸の中央——葵が剣を刺した場所——から、白い光が漏れていた。

裂け目の幅が、少しずつ広がっている。


百の蛇の頭が、一斉に首を伸ばし始めた。


それまで肩の周りで動いていた蛇の頭が、首の長さを増していく。

一本、また一本と、葵たちの方へ伸びてくる。

それぞれの口が、独立して開閉していた。

百の蛇の頭が、別々の意志で動き始めている。


伸びた蛇の頭が、最初に向かったのは葵たちではなかった。


蛇の頭の半数が、まだ空に残っていたハーピュイアイの群れの方へ首を向けた。

ハーピュイアイたちが、雲の中に逃げようとした。

逃げ切れなかった。


百の口のうちの五十が、同時に開いてハーピュイアイを呑み込んだ。

飲み込まれたハーピュイアイの体が、蛇の喉の中で消えていく。

蛇の頭の鱗が、ハーピュイアイを呑むたびに、青白く光った。


テューポーンの全体が、一回り、大きくなった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


蛇の頭が、葵たちの方を向き直した。


最初の蛇の頭が、葵に襲いかかった。

葵は横に転がってかわす。

蛇の頭が床に突き刺さり、大理石が割れた。


二本目が、別の角度から来た。

葵は堕星の黒翼杖を剣に変え、首の根元を斬り落とす。

斬られた首が、青い光に包まれて消えた。


三本目、四本目が、同時に来た。


茜のドミニオンが、上空から光の槍を投げた。

槍が三本目の蛇の頭を貫いた。

セレンの矢が、四本目の蛇の頭の喉に、続けて刺さる。


火車が、葵の横を駆け抜けた。

炎を纏った前足が、五本目の蛇の頭を踏みつけた。

炎が鱗を焼き、蛇の頭が動かなくなった。


蛇の頭は、まだ何本も残っていた。

斬っても、撃っても、新しい首が、テューポーンの肩から伸びてくる。


葵は剣で蛇の頭を斬りながら、テューポーンの本体を見上げた。


テューポーンの本体が、ゆっくり、両手を上に上げた。


百の蛇の頭が、一斉に静止する。

百の目の雷光が、テューポーンの頭上に集まり始めた。


雷光が、一本の槍の形になっていく。


巨大な雷の槍だった。

神殿の天井よりも長く、テューポーンの全長よりも太かった。

かつてゼウスを撃ったと、ヘシオドスが記した武器。

経典の中だけにあるはずの槍が、目の前で形を持ち始めている。


葵は堕星の黒翼杖を盾に変えた。

盾の表面に、左手を当てる。


「フォルティス・ルクス」


三枚の壁が、葵と茜とセレンの前に、寸分の狂いもなく立った。


テューポーンが、雷の槍を、葵たちの方へ振り下ろした。


雷の槍が、壁にぶつかった。


壁の表面が白く焼けた。

壁の輪郭が、一瞬揺らぐ。

それでも、壁は立っていた。


雷の槍が、壁の上で砕けた。

砕けた雷が、四方に散っていく。

散った雷光が、神殿の柱を、何本か焼いた。

広間の半分が、青白い光に満たされた。


光が消えた時、壁はまだそこにあった。


葵は壁の向こうで、息を吐く。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


テューポーンが両手をゆっくり広げた。


百の蛇の頭が、一斉にテューポーンの体の周りで動き始める。

翼の縁の竜巻が、大きくなっていく。

広間の床のひび割れから、もう一段、深い亀裂が走った。

広間の中央の床が、ゆっくり傾き始めている。


これは、終わらせる動きだった。


葵にはわかった。

広間全体を、抱え込むようにして、崩落させようとしている。


時間は、ない。


葵は走り出した。


堕星の黒翼杖を短剣の形に変える。

右手で逆手に握る。


「ライラ」


ライラの魔力が、葵の左手の中で、形を持ち始めた。

光が、左手の中で、短剣の形になっていく。

ライラとの合一の、第一段階。


葵はテューポーンの胸を見上げる。


両手を広げたテューポーンの胸の中央に、白く光る裂け目があった。

葵がさっき剣を刺した場所。

今度は、もっと深く、刺さなければならなかった。


百の蛇の頭が、葵の方を向いた。


蛇の頭が、葵の進路を塞ごうとしてくる。

左から、右から、上から、下から——


葵は走るのをやめなかった。


左から来た蛇の頭の下を、葵は屈んでくぐる。

右から来た蛇の頭を、葵は短剣で逸らす。

上から来た蛇の頭の脇を、葵は跳んで抜ける。

下から来た蛇の頭を、葵は踏みつけて駆け抜けた。


茜の声が、後ろから聞こえた。


「葵、上!」


茜のドミニオンの光の槍が、葵の頭上を抜けて、上の蛇の頭を貫いた。

セレンの矢が、続けて、葵の前方の蛇の頭の喉に刺さる。

火車が、葵の足元で、別の蛇の頭を踏みつけていた。


葵はテューポーンの足元まで辿り着いた。


葵は、絡み合う蛇の尾の鱗を、足場にした。

ライラの魔力が、葵の足を支える。

鱗の動きに合わせて、葵の体が、上へ駆け上がっていく。


蛇の尾。

人型の下半身。

胸の高さ。


葵の体が、テューポーンの胸の前に上がった。


百の蛇の頭が、葵の体に集まってきた。

百の口が開く。

百の牙が、葵を狙う。


葵はそれを見ていなかった。

葵の視界には、テューポーンの胸の裂け目だけが入っていた。


葵は両手の短剣を、同時に振り下ろした。


振り下ろす動きの中で、右手の短剣が、大剣に変わった。

左手の光の剣も、同じ動きの中で、大剣の形に変わった。


右の堕星の黒翼杖の大剣が、裂け目の右半分に刺さる。

左の光の剣の大剣が、裂け目の左半分に刺さる。


二本の剣が、テューポーンの体の中で、交差した。


光が、テューポーンの体の内側で広がっていく。

白い光が、裂け目を内側から押し開けた。

裂け目の幅が、急に広がる。


テューポーンが、声を出さなかった。


咆哮もなく、苦しみの声もなく、ただ、動きが止まった。


百の蛇の頭が、ゆっくり垂れていく。

百の目の雷光が、一斉に消えた。


葵を狙っていた百の牙が、葵の体に届かなかった。

牙が、葵の周りで止まったまま、空中で動かなくなった。


葵は二本の大剣を、深く押し込んだ。


テューポーンの体の中で、光が満ちていく。


葵は剣を引き抜いて、そのままテューポーンの胸を蹴った。

反動で、葵は空中に下がる。


ライラの魔力が、葵の足の動きを支えていた。


葵は神殿の床に着地した。

ライラの魔力が、膝の衝撃を和らげる。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


テューポーンの全身が、青い光に包まれていった。


翼の膜が、縁から砂のように崩れていく。

広げられたまま、形だけが残っていた。


下半身の絡み合う蛇の尾が、一本ずつほどけていく。

ほどけた尾が、床の上で動かなくなった。


人型の上半身の胸の裂け目から、光が外へ溢れた。


百の蛇の頭が、本体の方へ引き戻されていく。

本体の中に、全ての蛇の頭が吸い込まれた。


テューポーンの本体が、最後に、青い光の中に消えていった。

神殿の中央に、テューポーンが立っていた跡だけが残った。


広間が静かになった。


雷雲は頭上で渦を巻いていたが、もう雷は落ちてこなかった。


火車が、葵の足元に戻ってきた。

炎が、火車の体の周りで揺れていた。

火車が、葵の足に頭を擦り付ける。


「火車、ありがとう」


葵はしゃがんで、火車の頭を撫でた。

炎が、葵の手のひらの周りで消えていく。

熱さは感じなかった。


「お疲れさま。戻って、休んで」


葵が言うと、火車は青い光に包まれて消えていった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


葵は立ち上がる。


茜とセレンが、葵の方へ歩いてきた。

茜のドミニオンは、もう光の槍を持っていなかった。

セレンは、左腕のガントレットを下ろしていた。


「葵」


茜が葵の名前を呼んだ。


「終わったね」


「うん。終わったね」


葵が頷くと、茜は短く息を吐いた。


セレンが葵の前に立った。


セレンは葵の顔を見ていた。

いつもより長く、見ていた。


「葵」


「あなた、危ないのが、分かってない」


セレンが言った。


「だから、私が危険教える」


「ありがとう、セレン」


危険を教える、つまり斥候のことか。

斥候ができる人が、複数いた方が、セレンも楽だろう。

葵はそう思った。


セレンは、何か言おうとしてやめた。

口を開きかけて閉じる。

セレンの視線が、葵から外れた。


葵は、テューポーンが立っていた跡を見た。


神殿の中央に、青白い欠片がいくつか落ちていた。

雷光を帯びた、テューポーンの体の一部だった。


広間の床に、まだひび割れが残っていた。

だが、もう崩落の動きは止まっていた。


葵は、欠片を一つ拾った。

手のひらの中で、青白く光っていた。

雷の余韻が、まだ欠片の中に残っている。


「葵」


ライラが胸元から顔を出した。


「がんばったね」


「ライラ、ありがとう」


ライラは頷いた。

それから、葵の胸の中に戻っていった。

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