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第115話 嵐の空中回廊

四限のチャイムが鳴った。


葵は更衣室で戦闘服に着替えてから、部室へ向かった。

ダンジョン部の部室は、もう人で埋まっていた。


颯が壁際で手を上げる。リオがその隣でストレッチをしていた。

エリックも、葵に気づいて「遅いぞ」と短く声を上げた。


「葵」


奥から茜の声がした。


葵が向かうと、茜とセレンが並んで立っていた。二人とも、戦闘服姿だった。


「葵、遅い」


「ごめん、リース先生に質問してて」


茜の眉が、少し上がった。


「何を?」


「魂晶鉄っていう金属のこと」


「ふうん」


茜はそれ以上、聞かなかった。


セレンが葵の腕を、軽く引いた。


「葵、装備の確認は?」


「うん、終わってる」


颯が部員を集めた。


「今日の目標。男子チームは三十層。葵チームは——七十層」


口笛が、誰かの口から漏れた。

「素材、頼むぞ」と、手が一つ上がった。

葵が頷いた。


「行くぞ」


ダンジョン部部室の隣の転移ゲート室に移動した。

中央で、光の膜が揺れている。


一人ずつ、光の膜を潜った。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


フレデフォート・クレーターの空が、頭上にあった。


南半球の朝の光が、岩肌を白く染めていた。

アルカディア島の四限はちょうど昼下がりだったが、ここはまだ朝。葵の体は、時差をもう何度か通り抜けている。

赤茶けた大地が、地平線まで広がっていた。


探索者の町が、視界の右手にあった。

プレハブのような簡易ホテル、武具屋の幟、東西の文字が混ざった看板。世界中から人が集まる町の、混ざり方だった。


「葵、こっち」


颯が先頭を歩いた。男子チームと葵チームが、一塊で町を横切る。


パンデモニウム・ラビリンスの入口が、町の奥にあった。

巨大な黒い石の門。表面には、古い文字が刻まれている。

門の前には、探索者の行列ができていた。装備の質も背格好も国籍もばらばらの、雑多な行列。


行列が少しずつ進んでいった。


葵たちの番が来た。

入口を抜けた先に転移石があった。

黒曜石のような漆黒の基盤の上に、直径二メートルほどの球体が浮かんでいた。表面は磨かれた鏡面のように滑らかで、その奥底では、永遠に燃え続ける地獄の炎が渦巻いている。


颯たち男子チームが転移石に手を触れた。

青白い光が男子チームを包んだ。瞬きの間に、姿が消えた。


葵が転移石に手を伸ばした。茜とセレンが、葵の両側に並ぶ。

三人が同時に球体に触れた。


——六十一層。


葵が思い浮かべた瞬間、視界が白く飛んだ。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


風が、最初に来た。


足が床に着いた時、すでに耳の奥で風が鳴っていた。低く、長く、咆哮するような音。


葵は目を開けた。


そこに、空があった。


灰青色の空が、際限なく広がっていた。

眼下を見ると、足元の少し先で世界が途切れている。石の床が途切れた先には、雲の海があった。雲は遥か下にあり、その下にさらに何があるのかは見えない。


葵は顔を上げた。


空には、無数の島が浮かんでいた。


巨大な岩の塊が、宙にいくつも漂っていた。その上に、白い大理石の神殿の残骸が乗っている。柱は折れ、壁は崩れ、屋根は半分が落ちていた。それでも、かつてそれが壮麗な聖域だったことは、見て分かった。苔と蔦が崩れた彫刻を覆い、ところどころにステンドグラスの欠片が残って、風に揺れて光っていた。


廃。


葵の頭の中に、その一文字が浮かんだ。


遠くで、何かが旋回していた。

巨大な影。鳥のような、龍のような、判別できない大きさのものが、ゆっくりと弧を描いていた。時折、雷光が走る。閃光が走るたびに、影が白く浮かび上がって、また闇に沈んだ。


風が、また強く吹いた。

葵の戦闘服の裾が、横に流れた。


天空の、葬送。


そういう言葉が、葵の中で組み上がった。

ここはかつて、神々の宮殿だった。今はゆっくりと崩れている。何百年も、何千年も、この崩落は続いているのかもしれない。


茜が、葵の左で立っていた。


「葵」


茜が言った。


「うん」


「落ちちゃっても、天使様が助けてくれるから、安心して」


葵は茜を見た。


茜の目は、真剣だった。冗談ではなかった。茜は本気で、葵が落ちたら自分の天使が助けると信じている。


「うん、ありがとう、茜」


葵が言った。


セレンが葵を見ていた。

何も言わなかった。


葵はもう一度、空を見渡した。

進む方向は、見えていた。石の橋が、次の浮遊島まで架かっている。途中で半分が崩れていたが、跳べる距離だった。


「行こう」


葵が言った。


三人は、橋に向かった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


セレンが先頭で橋を進んでいた。


葵が中央、茜が後ろだった。

ダンジョン内では、セレンが斥候を務めることになっている。


橋の半ばで、セレンが左手を真上に上げた。

止まれ、の合図だった。


葵は足を止めた。茜も止まった。


セレンが、人差し指を上空に向けた。

敵あり。


葵は視線を、上に向けた。


頭上に、五つの影があった。

女の顔と、鳥の体。腕の代わりに翼、足の代わりに鉤爪。長い髪が、風に乱れていた。五体が、円を描いて葵たちの頭上を旋回している。


視界の隅に文字が走った。


(ハーピュイアイ)


葵は黒翼杖を呼び出した。


セレンが腕のボーガンを構える。矢が、すでに番えてあった。


茜が後ろで、両手を胸の前で合わせた。


「天使様」


茜の声が、低く澄んでいた。


茜の背後の空間が、銀色に揺れた。

そこに、人型の影が立ち上がる。

銀色の軽やかな装甲に包まれた、しなやかで優美な体躯。兜のような面で顔を覆い、流れる曲線が女性の気品を示していた。冷たい青い瞳が、ハーピュイアイたちを見上げている。手には長い聖なる杖を持っていた。

全身から、温かな威光が、光のヴェールのように溢れていた。


葵はドミニオンを見上げた。何度見ても、その姿は美しい。


「天使様、よろしく」


茜が短く言った。


ドミニオンが、頷いた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


旋回していた五体のうちの一体が、急降下に転じた。


セレンが先に動いた。

ボーガンを構えて、躊躇わずに引き金を引く。

矢が空気を切った。風が乱れているはずだったが、矢は真っ直ぐに飛んだ。

ハーピュイアイの胸を貫いた。

そのまま、雲の海に落ちていった。


葵はセレンの射撃を見ていた。


風が乱れる空中で、矢が真っ直ぐに飛んだ。そういう射撃を、セレンはする。


葵は黒翼杖を、弓に切り替えた。

形が変わるのは一秒もかからない。


二体目が降ってきた。


葵は弓を構えた。

風を読んだ。引き絞った。

矢が、ハーピュイアイのいる空間ではなく、ハーピュイアイがこれから入る空間に向かって飛んだ。

ハーピュイアイが、その空間に入ってきた。

矢が、胸を貫いた。


声はなかった。

ただ、体が空中で止まり、翼が畳まれて、雲の海に落ちていった。


「葵、上!」


セレンが叫んだ。


葵は反射的に身を屈めた。

頭の上を、爪が掠めた。風が、頭を圧迫した。別の一体が、葵の頭上を通過していた。


葵は身を起こしながら、弓を回した。

近距離だった。引き絞らず、そのまま矢を放った。

矢が、通り過ぎていったハーピュイアイの背中に刺さった。


四体目と五体目が、同時に降ってきた。


ドミニオンが動いた。


聖なる杖が、横に振られる。

光の波が、空中に走った。光は風よりも速く、ハーピュイアイの片方の翼に当たった。光が触れた場所が、白く灼かれた。

ハーピュイアイの翼が、燃え落ちる。そのまま、雲の海に落ちていった。


最後の一体は、葵の弓と、セレンのボーガンが、同時に射抜いた。

二本の矢が、同じハーピュイアイの胸を貫いた。


ハーピュイアイは一瞬静止した。それから、雲の海に落ちていった。光の粒子が、雲海の中で散って消えた。

他の四体も、同じだった。

五つの影は、全て雲の海に消えた。


「雲海に落ちると、ドロップは取れないのかな」


葵が呟いた。


セレンが、ボーガンを下ろした。


「うん。たぶん」


風が、また強く吹いた。

浮遊島の縁には、何も残っていなかった。


ドミニオンが、聖なる杖を下ろした。光のヴェールが、薄くなる。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


橋を渡り終えた先に、小さな浮遊島があった。

かつての神殿の床の一部が残っていた。柱が二本、半分まで折れて立っている。


葵たちはそこで、一度足を止めた。

次の橋まで、少し距離があった。


セレンが、葵を見ていた。


「葵」


「うん?」


「その杖、連射できる銃には、変えられないの?」


葵が、セレンを見た。


連射できる銃。


葵はその言葉を、頭の中で繰り返した。


確かに、矢を一本ずつ放つよりも、連射ができる銃の方が、ハーピュイアイのような群れには有利かもしれない。セレンのボーガンも単発だが、彼女は一発の精度で群れを処理できる。葵はまだ、そこまでの腕がなかった。


「やってみる」


葵が言った。


葵は黒翼杖を、両手で持った。

銃の形を、頭の中で組み上げようとした。

アサルトライフル。映像や写真で見たことがあった。長い銃身、引き金、弾倉、肩当て——


葵が意識を集中した。


黒翼杖が、変形を始めた。


形が、変わっていく。

途中までは、それらしい形になりかけていた。銃身が伸びた。引き金がついた。


そこで止まった。


完成した形は、葵の予想と違っていた。


それは、銃というよりは、銃の形をした何かだった。

銃身の角は丸かった。引き金は大きすぎた。グリップは妙に短かった。肩当ては最初からなかった。全体の比率が、おかしい。


ただ、黒い宝石だけは、変わらずグリップの根元にあった。それだけが、本物だった。


葵は手の中の銃を、見つめた。


茜が、葵を覗き込んだ。


「葵、それ……」


セレンも、葵の手の中を見ていた。


葵は銃口を、空に向けた。

引き金を、引いた。


ピロロロロ、と音が鳴った。


葵が止まった。


もう一度、引いた。


ガガガガガ、バキューン、バキューン。


銃口の先で、何かが光った。

赤と緑の光が、銃口から飛び出して、空中で消えた。

弾は、出ていなかった。


茜が、口元を手で押さえた。


セレンが、目を見開いた。


葵はもう一度、引き金を引いた。


ピロロロロロ、バキューン、バキューン、ガガガガガ。


銃口の先で、光がチカチカと点滅した。


茜が、笑った。

最初は声を押し殺して、それから我慢ができなくなって、声を出して笑った。


セレンの肩が、震え始めた。

それから、堪えきれずに、声が出た。

最初は短く、すぐに大きくなる。

セレンが、笑っていた。声を上げて、笑っていた。


葵は、セレンを見た。


セレンが声を出して笑うのを、葵は初めて見た。

寡黙なセレンが、肩を揺らして笑っている姿は、別人のようだった。目尻に、涙が浮かんでいる。


葵は二人が落ち着くのを、待った。


「葵」


茜が言った。笑いの余韻で、声が少し震えていた。


「それ、何?」


「銃。アサルトライフル……の、つもり」


「アサルトライフルって、こんな音、しないと思うよ」


茜がまた笑った。

セレンが、両手で口元を押さえながら、頷いた。

笑いが、止まらないらしかった。


葵は手の中のおもちゃを、見つめた。


そっか。


葵は理解した。


イメージできていないものには、変形できない。実物を触ったことがなかった。映像でしか見たことがなかった。だから、葵の頭の中にある「アサルトライフル」は、おもちゃのアサルトライフルでしかなかった。


葵が黒翼杖を意識すると、銃は元の杖の形に戻った。

細く長い、黒い杖。先端の棘の意匠の中央に、黒い宝石。いつもの杖だった。


「分かった」


葵が言った。


「イメージできてないんだ。

実際に触ったことがある武器しか、ちゃんと作れない」


セレンが、ようやく笑いを収めた。

深く息を吐いて、目尻を指で拭った。


「……ごめん」


セレンが言った。


「謝らなくていいよ」


葵が首を振った。


「面白かったから」


セレンが、もう一度短く笑った。

今度はすぐに収まる。


茜が、葵の腕に触れた。


「葵、可愛かった」


葵は茜を見た。茜の頬が、まだ少し赤い。笑いすぎた、という感じだった。


葵は黒翼杖を、剣の形に戻した。

これは、訓練で何度も触ったことがある。だから、ちゃんと剣になった。


「次、行こう」


葵が言った。


セレンが頷いた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


橋を渡り、次の浮遊島に出た。

六十二層だった。


風の中に、何かが居た。

姿は見えない。だが、空気が二か所、奇妙に歪んでいる。

セレンが先に気付いた。手のひらを横に振る。

罠あり、の合図だった。


ドミニオンの光の波が、空中に走った。光に触れた瞬間、二つの影の輪郭が空気の中に浮かぶ。

細い体。透き通った翼。風の精のような姿だった。


視界の隅に、文字が走った。


(シルフ)


葵の矢が、その輪郭を貫いた。

シルフは、空中で霧のように消えた。


「葵」


セレンが言った。


「うん?」


「あれ、撃てる?」


セレンが、別の方向を指していた。

浮遊島の隅に、もう一体の影が空気の中で揺れていた。距離が遠い。風に隠れて見えにくい。


葵は弓を構えた。

風を読んだ。何度か矢の軌道を頭の中で組んでから、放った。

矢が、長い弧を描いて飛んだ。

影が、空気の中で霧になった。


「上手くなった」


セレンが言った。


「セレンが、教えてくれてるから」


「まだ、何も教えてない」


セレンが言った。


葵は弓を下ろした。

セレンは技術を直接教えていない。

ただ、葵はセレンのボーガンの構え方を、見ていた。引き方、風の読み方、矢を放つ瞬間の重心——

それだけで、何かを掴みかけている気がした。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


六十三層は、雷雲の中に浮かぶ島だった。


足を踏み入れた瞬間、空気の質が変わった。

湿った重さ。指先が、軽く痺れる。


ドミニオンが、聖なる杖を斜めに構えた。


「気をつけて」


茜が言った。


葵は、空を見た。


雲が、低く垂れ込めていた。雲の中で、光が走る。一瞬遅れて、雷鳴が来た。

低い音だった。腹に響くような音。


次は、雷。


葵はそう思った。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


橋を渡って、六十四層に入った。


雷雲を抜けると、空が一瞬だけ晴れた。

眼下に、巨大な浮遊島が見えた。広い平地のような形。神殿の柱が、その上にいくつも残っている。


葵たちはその浮遊島に降り立った。


風が、止んでいた。

さっきまでの嵐の咆哮が、急に途切れている。


静か、すぎる。


葵が思った。


頭上から、強い羽ばたきの音が来た。


セレンが葵の腕を引いた。

葵が後ろに下がる。


地面に、影が落ちた。

鷲の頭と、獅子の体。鋭い嘴、巨大な翼。

ハーピュイアイの三倍はあった。


視界の隅に、文字が走った。


(グリフィン)


セレンがボーガンを構えた。

だが、矢を放つ前に、グリフィンが動いた。

翼を畳んで、急降下に転じる。標的は、葵だった。


セレンの矢が、グリフィンの翼を掠めた。

グリフィンは止まらない。重い体の突進。


葵は咄嗟に、黒翼杖を意識した。


ゴーレム。


昨晩、ライラに言われて、契約陣を何柱分か作っていた。今日のために。

端末から、契約陣が展開した。

青い光が、葵の前に立ち上がる。

高さ三メートルほどの、岩の塊。


グリフィンが、ゴーレムにぶつかった。


岩が、軋んだ。

ゴーレムが、半歩下がる。地面が削れた。

だがゴーレムは、倒れなかった。


グリフィンの爪が、ゴーレムの胸の岩を掻いた。

岩の表面に、爪痕が走った。


硬い。両方とも。


葵はゴーレムの後ろから出て、弓を構えた。


「行ける」


葵が言った。


ゴーレムが葵の言葉に応じて、両腕を上げた。

グリフィンが翼を広げて、また空に上がろうとした、その時。


ゴーレムの両腕が、グリフィンの後ろ足を掴んだ。

岩の指が、獅子の毛皮に食い込む。

グリフィンが咆哮した。空気を裂くような音。

翼を激しく羽ばたかせて、空に上がろうとした。


ゴーレムの足が、地面に深くめり込んだ。

グリフィンは、上がれなかった。


葵は弓を引き絞った。

矢が、グリフィンの胸を貫いた。


グリフィンの咆哮が、途切れた。

体が脱力する。翼が畳まれた。


ゴーレムが、グリフィンを地面に下ろした。

グリフィンは、もう動かなかった。


雲の海ではなく、浮遊島の地面に倒れていた。


グリフィンの体が、光の粒子になって散った。

静かになった。


光が消えた後、地面に、鷲の羽根が一枚、落ちていた。

葵は、それを拾った。


「持ち帰る」


葵が言った。


セレンが頷いた。


葵はゴーレムを振り返った。

胸の岩に、爪痕が走っている。


「ゴーレム、大丈夫?」


葵が聞いた。


ゴーレムが、岩の頭を一度下げた。

平気だ、というように。


「ありがとう。一度、戻って」


葵が言った。


ゴーレムが、また頭を下げる。

青い光が、ゴーレムを包んだ。

姿が、消えた。


茜が、葵の隣に立った。


「葵」


「うん?」


「今の、新しい仲間?」


葵が頷いた。


「うん。助けてくれそうな時に、呼び出すね」


茜が、葵の顔をしばらく見ていた。

それから、頷いた。


「うん」


葵は次の橋に向かった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


橋を渡って、別の浮遊島に出た。

神殿の柱が、半分だけ立っている。風が、また強く吹いていた。


セレンが、左手を真上に上げた。

止まれ。


それから、人差し指を、柱の影に向けた。

敵あり。


葵は柱の影を見た。


何かが、立っていた。

高い背丈。赤い顔。長い鼻。背中に翼。手に、一振りの刀。


視界の隅に、文字が走った。


(天狗)


葵はゴーレムを呼び出した。

青い光が、葵の前に立ち上がる。

岩の塊の胸に、さっきの爪痕がまだ薄く残っていた。


天狗が、動いた。


姿が、消えた。

セレンが「葵、後ろ!」と叫んだ。

葵は反射的に振り返った。


天狗が、葵の背後にいた。

刀が、振り下ろされる。


ゴーレムが間に入った。

岩の胸が、刀を受け止める。

鈍い音が、空気を振るわせた。


刀の刃が、岩に食い込んでいた。

天狗が、刀を引き抜こうとする。

その瞬間、葵が弓を構えた。


矢が、天狗の脇腹を貫いた。


天狗が体を捻った。

姿が、また消える。


セレンが、ボーガンを構えていた。

セレンが「右」と短く言った。


葵が右に弓を向けた。

天狗が、右の柱の上に出現した。

葵の矢と、セレンの矢が、同時に放たれた。


二本の矢が、天狗の胸を貫いた。


天狗は柱から落ちて、地面に倒れた。

天狗の体が、光の粒子になって散った。

静かになった。


光が消えた後、地面に、小さな鈴が一つ、落ちていた。

葵はそれを拾った。


「持ち帰る」


葵が言った。


セレンが頷いた。


葵はゴーレムを振り返った。

胸の岩に、さっきよりも深い線が、もう一本走っていた。


葵は手を伸ばして、ゴーレムの肩の岩に触れた。


「ありがとう。戻って」


葵が短く言った。


ゴーレムが、頭を下げる。

青い光が、ゴーレムを包んだ。

姿が、消えた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


次の橋を渡って、六十五層に入った。


雷雲が、低く垂れ込めていた。

さっきまでより、雲の色が濃い。空気の重さも違った。指先の痺れが、強くなる。


セレンが、左手を真上に上げた。

止まれ。


雲の中で、青白い光が走った。

一瞬遅れて、雷鳴が来た。


光が、雲の中から降りてきた。

地面に着いた瞬間、影が形を持った。


獅子のような体。背中の毛が逆立っていて、その全てが青白く帯電している。爪の先から、絶え間なく細い稲妻が漏れていた。


視界の隅に、文字が走った。


(ライジュウ)


葵は黒翼杖を呼び出した。

剣の形に変えた。

雷の手前で、葵が動いた。


ライジュウの位置が、消えた。


そう見えた瞬間、葵の後ろで青白い閃光が走った。

セレンが「葵!」と叫んだ。

葵は反射的に振り返って、剣を構えた。


ライジュウが、葵の三歩後ろにいた。

雷とともに位置を変える。


葵は読んだ。

次の閃光が、左で走る。

左に剣を構えた。


ライジュウが、左に出現した。

その瞬間、葵の剣が振られた。

刃が、ライジュウの胴を斬った。


その時だった。


刃から、葵の腕に、青白い光が走った。


痛い。


葵がそう感じた瞬間、体が固まった。筋肉が、自分の意志を聞かなくなる。

雷の感覚は、内側から来た。骨を伝って、心臓まで届いた。

膝が、地面に折れる。


「馬鹿!」


セレンの声が、聞こえた。


セレンが「馬鹿!」と叫んだのを、葵は初めて聞いた気がした。


「天使様!」


茜の声が、続いた。


ドミニオンが動いた。

聖なる杖が、葵に向けられる。

温かい光が、ドミニオンの杖先から葵の体に注がれた。


筋肉の硬直が、ゆっくりと解けた。

痺れが、引いていく。

内側で焼けていた感覚が、和らいだ。


葵は剣を地面に落とした。

ライジュウは、斬られた胴から血を流して、よろめいていた。それでも、まだ立っている。


そうか。


葵は冷静に思った。


剣で戦うと、感電する。


葵は立ち上がった。

痺れは、もう抜けていた。


ライジュウが、また光った。

位置が消える。


ゴーレム。


葵は黒翼杖を意識した。

端末から、契約陣が展開した。

青い光が、葵の前に立ち上がる。岩の塊。胸の爪痕は、ほとんど見えない。元気そうだった。


ライジュウが、葵の右に出現した。

ゴーレムが、葵の前に動いた。


ライジュウの帯電した体が、ゴーレムの胸にぶつかった。


青白い閃光が、ゴーレムの全身を走った。


ゴーレムが、揺れた。

それから、青い光に包まれた。

姿が、消えた。


視界の隅に、文字が走った。


(ゴーレム) 再召喚不可


なぜ。


葵は一瞬だけそう思った。

だが、考えている時間はなかった。

ライジュウが、また光る。


葵は黒翼杖を、別の形に変えた。


木刀。


剣術部で何度も触ったことのある、その重さ。その手の中の感触。

形が、変わっていった。素材も、木に近くなる。

完成した木刀は、葵の予想通りの形をしていた。


ライジュウが、葵の左に出現した。


葵は木刀を、振った。


刃のないその一撃が、ライジュウの首に当たった。

木の打撃は、電気を通さなかった。葵の腕に、何も走らない。


ライジュウの体が、横に飛んだ。

首が、奇妙な角度に曲がっていた。

獅子のような体が、地面に倒れる。背中の帯電が、ゆっくりと消えていった。


ライジュウの体が、光の粒子になって散った。

静かになった。


光が消えた後、地面に、青白く光る毛が一房、落ちていた。

葵はそれを拾った。


「持ち帰る」


葵が言った。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


葵は息を吐いた。

木刀を、杖の形に戻す。


そういえば。


葵は気づいた。


ダンジョンに入ってから、自分が怪我をしたのは、初めてだった。

これまでに何度も戦ってきた。サラマンダーも、火車も、キマイラも、イフリートも、ハーピュイアイも、グリフィンも、天狗も。

それでも、自分の腕に矢が掠めたことはなかった。剣を受けたこともなかった。

今日まで、ずっと無傷で済んでいた。


——剣を、雷の体に振った。


葵はその時のことを、もう一度、頭の中で見た。

電気は、刃から、自分の腕に、走った。当然の経路だった。

あれは、自分が悪い。


葵は視界の隅を、見た。


(ゴーレム) 再召喚不可


文字が、まだ残っていた。


葵は考えた。


多分、ある程度のダメージを受けたら、帰ってしまう仕組みなのかもしれない。

死んでしまった訳ではなさそうだ。

今は元の住みかで体を直しているのかもしれない。


気を付けよう。

次から、無理をさせないようにしよう。


葵が顔を上げた。


セレンが、葵の前に立っていた。

ボーガンを下ろしている。


「葵、大丈夫?」


「うん」


「……雷を剣で斬ったら、感電するに決まってる」


セレンの声が、低かった。


「うん」


葵は頷いた。


「ごめん、考えてなかった」


セレンが、しばらく葵を見ていた。

それから、息を一つ吐いた。


「気をつけて」


「うん」


茜が、葵の隣に立った。


「葵」


茜が言った。


「茜、さっきはありがとう。」


「うん」


茜の手が、葵の腕に触れた。


「葵、ケガしたの、初めてだったよね」


「うん」


茜の目が、葵を見ていた。

心配というよりも、何かを確かめる目だった。


「次は、しないでね」


「うん」


葵は頷いた。

茜の手が、葵の腕からゆっくり離れた。


次の橋が、視界の先にあった。

雷雲は、もう晴れていた。

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