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第113話 鎧の音3

寮に戻った。


玄関の扉を開けると、焦げ臭かった。

台所の方から、薄く煙が漂っていた。


「フィオナさん?」


返事はなかった。


葵は鞄を置いて、台所へ向かった。


フィオナがエプロンをつけてフライパンの前に立っていた。

背中が縮こまっていた。鎧の音はしなかった。ジャージの上にエプロン。

フライパンの中で、肉が黒くなっていた。


「葵殿……」


フィオナが振り返った。顔が赤かった。

コンロの火を消そうとして、つまみを反対に回した。火が大きくなった。


「あ、わ、これは違う方で——」


葵がコンロに近づいて、火を消した。

フライパンの底から、煙が立ち上り続けていた。


「フィオナさん、大丈夫?」


「は、はい……葵殿、申し訳ございません……」


フィオナがうつむいた。


葵は換気扇のスイッチを入れた。回り始めた音が、台所に低く響いた。


「火傷してない?」


「は、はい。大丈夫です」


葵はフィオナの手を見た。指先に赤くなった箇所はなかった。


「よかった」


そこで葵は気づいた。

キッチンに散らばる梱包材の量が明らかに多い。


葵は冷蔵庫の方に歩いた。

扉を開けた。


冷蔵庫の中が、肉で埋まっていた。

真空パックされた赤い塊が、棚に積まれていた。何重にも。


「……これは」


葵は扉を閉め、もう一度、開けた。

やはり、大量のラム肉だった。


「葵殿」


フィオナが横に立っていた。


「申し訳ございません……」


「フィオナさん、これ、何キロ?」


「……」


「フィオナさん」


「……5キロ、です」


葵はフィオナを見た。


「500グラムを、注文するつもりで……」


フィオナの声が小さくなった。


「数字を、間違えていたようです」


葵は冷蔵庫の扉に手をかけたまま、少しの間黙っていた。


「天龍集団のネットスーパー、届いたら返品できないんだよね」


「……届いてから、気づきました」


「うん」


葵は冷蔵庫の扉を閉めた。


ライラが胸元から少し顔を出した。何も言わなかった。


「自分で消費しようと思って、焼いていました」


フィオナがフライパンの方を見た。

焦げた肉が、まだ底にこびりついていた。


「途中で、焦げてしまって……」


「うん」


葵はフライパンを覗き込んだ。

ラム肉が三切れほど、表面が真っ黒になっていた。

底にも、脂と肉汁が焼き付いていた。


葵は少し考えた。


「フィオナさん」


「は、はい」


「これ、使えるかもしれない」


フィオナが顔を上げた。


「使える、とは……?」


「焦げを活かす料理を、調べてみるね」


葵は端末を取り出した。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


葵は端末で検索した。


「ラム肉 焦げ 料理」


ライラが胸元から覗き込んだ。


検索結果が並んだ。

葵は上から順に見ていった。

クスクスという料理が、画面に出ていた。


「これ」


葵はフィオナに端末を見せた。

画面の中に、ラム肉の煮込みと、小さな粒状の主食が映っていた。


「クスクスっていう料理。北アフリカの方の」


「くすくす……?」


「うん、焦がした肉を、香ばしさとして活かす料理らしいよ」


フィオナが画面を覗き込んだ。


「ラム肉を、捨てないで済む、ということですか?」


「うん」


フィオナの肩が、少し下がった。


葵はレシピを読んだ。


タマネギ、にんじん、ズッキーニ、トマト、ひよこ豆。

スパイスはクミン、コリアンダー、ターメリック、シナモン、生姜。

クスクスの粒は小麦粉から作るが、市販のものが届く。

これも全部、ネットスーパーで揃った。


葵は注文を送った。


「すぐ届くから、その間に肉の準備をするね」


「葵殿」


「はい」


「私も、何かさせてください」


フィオナが葵を見ていた。


葵は少しの間黙った。


「フィオナさん」


「はい」


「頑張ってくれてありがとう」


フィオナが瞬きをした。


「でも、無理に役に立とうとしないで大丈夫だよ」


フィオナが何か言いかけて、止まった。


葵は続けた。


「フィオナさんはもう、いるだけで僕の役に立ってるから」


フィオナの顔が、ゆっくり赤くなった。


「……葵殿」


「うん」


「……それでも、何かさせてください」


葵はフィオナを見た。


「役に立たないと、私が、落ち着かないのです」


葵は少し考えた。


「じゃあ、ひとつ」


「はい」


「玉ねぎを、出してくれる?」


「玉ねぎ」


「ネットスーパーで来るやつ。届いたら、洗って、皮を剥いて」


「承知いたしました」


フィオナが少し背筋を伸ばした。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


玄関のチャイムが鳴った。


葵が受け取りに行った。

野菜とスパイスとクスクスの粒が、ドローンの箱に入っていた。


台所に運ぶと、フィオナが既にエプロンを直して待っていた。


葵はラム肉を取り出した。

焦げた三切れは、表面の真っ黒な部分だけを薄く削いだ。

中の赤い断面が見えた。


「焦げた表面、ここまで削ぐと、香ばしさだけ残るらしい」


「なるほど」


フィオナが横で見ていた。


葵は別のラム肉を出した。

真空パックを開けると、肉の匂いがした。

1キロ分。残りは冷凍庫に入れた。


「フィオナさん、玉ねぎ、お願い」


「はい」


フィオナが玉ねぎを持った。

シンクで丁寧に洗い始めた。

水の音が、規則的だった。


葵はラム肉を一口大に切った。

包丁の音が、何度か続いた。


フィオナが玉ねぎの皮を剥いた。

途中で、フィオナの目に涙が浮かんだ。


「あ……」


フィオナが片手で目をこすろうとして、もう片方の手で玉ねぎを持ち直した。

ぎこちなかった。


「玉ねぎ、目に染みるよね」


「は、はい……」


「水で手を洗うと、少し落ち着くよ」


「承知いたしました」


フィオナが手を洗いに行った。

目を瞬かせていた。


葵は鍋に油を引いた。

ラム肉を入れた。

焦げを削いだ肉と、新しい肉を、一緒に入れた。


油の音が、強く立った。

ラムの脂の匂いが立った。


ライラが胸元で、少し顔を出した。

(いい匂い)


葵にだけ聞こえる声だった。


小さく頷いた。


フィオナが戻ってきた。

玉ねぎを持っていた。皮が剥かれていた。


「葵殿、できました」


「ありがとう、フィオナさん」


葵は玉ねぎを受け取った。

切るのは葵がやった。


包丁の音が、また続いた。


フィオナが横で見ていた。


「葵殿は、料理が、お上手なのですね」


葵は手を止めなかった。


「ライラが教えてくれたんだ。一人暮らししてた頃から」


フィオナがライラを見た。

ライラが葵の胸元で、少し顔を出した。


「ライラ殿が」


「うん」


葵は玉ねぎを鍋に入れた。

ジュ、と音が立った。

にんじんも切って入れた。


スパイスを順番に入れた。

クミン、コリアンダー、ターメリック、シナモン、生姜。

色が変わっていった。

鍋の中が、深いオレンジ色になった。


香りが、台所に広がった。

ラムの脂とスパイスが混ざった匂いだった。


フィオナが少し目を閉じた。


「……いい匂いです」


トマトを入れた。

潰れて、煮汁が広がった。

水を加えた。

ひよこ豆も入れた。


蓋をした。


「あとは煮込むだけ。30分くらい」


葵は手を洗った。

タオルで拭いた。


フィオナが鍋の前に立っていた。


「葵殿」


「うん?」


「玉ねぎを剥いただけですが」


「うん」


「役に立てたでしょうか」


葵はフィオナを見た。


「もちろん、立ったよ」


「……」


「フィオナさんが洗って剥いてくれたから、僕は肉を切れた。それだけで助かったよ」


フィオナが何か言いかけて、止まった。


葵は鍋の蓋を一度開けて、確認した。

ふつふつと、煮汁が動いていた。

蓋を戻した。


「フィオナさん、座っててもいいよ」


「はい」


フィオナが椅子に座った。

背筋を伸ばしたままだった。


葵はクスクスの粒を別の鍋で蒸す準備をした。

塩を一つまみ。オリーブオイルを少し。


ライラが胸元で、また少し顔を出した。

(フィオナ、頑張った)


葵にだけ聞こえた。


「頑張ってたね」


葵は小さく答えた。

ライラが胸元に戻った。


煮込み鍋から、ふつふつと音が続いていた。

台所が、ラムとスパイスとトマトの匂いで満ちていた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


食卓に皿が並んだ。


クスクスの粒の上に、ラム肉と野菜の煮込みが、たっぷりかかっていた。

湯気が四つ、揃って立っていた。


アーデルが先に席についた。

オリビアが続けて座った。

フィオナが葵の隣に座った。

葵は最後に座った。


「いただきます」


四人で言った。


オリビアがフォークを取った。

ひと口、口に運んだ。


止まった。


「……葵くん」


「はい」


「これ、何ですか」


「クスクス。北アフリカの料理らしいです」


「クスクス……」


オリビアがもうひと口食べた。

噛んでいた。

飲み込んだ。


「……美味しいです」


「ありがとうございます」


オリビアがまた食べた。

今度は止まらなかった。


アーデルが静かに食べていた。

噛む音はしなかった。スプーンとフォークが揃っていた。


フィオナがおずおずとスプーンを動かした。

ラム肉を口に運んだ。


止まった。


「……」


もうひと口。

さらにもうひと口。


目が潤んでいた。


「葵殿」


「どうしたの?」


「これは、その」


「うん」


「ラム肉が、すごく、香ばしいです」


「焦がしたところを、活かしたからだよ」


フィオナがうつむいた。


「私が、焦がしてしまったところを」


「そう」


「葵殿が、料理にしてくださった」


「うん」


フィオナがもうひと口食べた。

湯気で、フィオナの目がさらに潤んだ。

それとも別の理由かもしれなかった。

葵には分からなかった。


アーデルがスプーンを置いた。

水を一口飲んだ。


「葵」


「はい」


「冷蔵庫に、ラム肉があったが」


「あ……」


フィオナが小さくなった。

背筋が縮んだ。


葵がアーデルを見た。


「フィオナさんが、数字を間違えて注文してしまって」


「数字」


「500グラムのところを、5キロ」


アーデルがフィオナを見た。

フィオナがさらに縮んだ。


「申し訳ございません、アーデル先生……」


「気にすることはない」


アーデルが短く言った。

スプーンを取り直して、また食べ始めた。


「ラム肉は冷凍が利く」


「はい」


「明日からしばらく、ラム肉のメニューが続くな」


葵が頷いた。


「うん、しばらく続くと思います」


「悪くない」


アーデルがそう言って、また食べた。


オリビアが葵を見た。


「明日も、これを?」


「明日は、別の料理にしようかと思ってます。ラムカレーとか」


「……ラムカレー」


オリビアの目が、少し動いた。


「明日もご馳走になります」


「うん、どうぞ」


オリビアが小さく頷いた。

皿の中身を見た。

半分以上、なくなっていた。


「あの、葵くん」


「はい」


「おかわり、いいですか」


「もちろん」


葵が立ち上がった。

鍋を持ってきた。

オリビアの皿に、もう一杯分よそった。


「ありがとうございます」


オリビアがまたフォークを取った。


フィオナが横で見ていた。

自分の皿は、もう空になっていた。


「……あの」


「フィオナさん?」


「私も、よろしいでしょうか」


「いいよ......どうぞ」


葵がフィオナの皿にもよそった。

たっぷり盛った。


「ありがとうございます、葵殿」


フィオナが両手で皿を受け取った。

すぐに食べ始めた。


アーデルが視線を上げた。

フィオナとオリビアを、順番に見た。


「……」


何も言わなかった。

また食べた。


葵は自分の皿を見た。

半分くらいだった。

ライラが胸元で、少し揺れた。

葵にも、まだひと口分くらい食べる余裕があった。


フィオナがおかわりの分も、ほぼ食べ終わっていた。


「葵殿」


「うん?」


「これは、生前食べた、母の料理に似ているような気がします」


葵が手を止めた。


「お母さん、何の料理?」


「シチューでした。ラムと、根菜と。スパイスは違いますが、なんとなく」


「うん」


「葵殿の作るものは、温かいです」


葵は少し考えた。


「フィオナさんが、お母さんを思い出してくれたなら、よかった」


フィオナが頷いた。

それから、また食べた。

今度は、ゆっくり噛んでいた。


ライラが胸元で、温かく揺れた。

何も言わなかった。


アーデルがスプーンを置いた。


「葵」


「はい」


「美味かった」


それだけ言った。


オリビアがちょうどおかわりを食べ終わったところだった。


「私も、ご馳走様でした」


「お粗末様でした」


葵が立ち上がろうとすると、フィオナも立った。


「片付け、私がやります」


「フィオナさん、無理しなくて——」


「役に立ちたいです」


フィオナが葵を見ていた。


葵は少し考えた。


「じゃあ、お皿を運ぶの、お願い」


「承知いたしました」


フィオナが皿を集め始めた。

オリビアも自分の皿を取った。

アーデルも自分の皿を流しに運んだ。


葵は鍋を片付けた。


台所が、静かになっていった。

湯気は、もう立っていなかった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


片付けが終わると、アーデルとオリビアが部屋に戻った。


リビングが、静かになった。


葵はソファに座った。

フィオナも隣に座った。

ライラが葵の膝の上で丸まった。


「フィオナさん、お風呂、もう入った?」


「はい、葵殿が帰ってくる前に」


「うん、じゃあ僕、入ってくるね」


「はい、ごゆっくり」


葵は浴室へ向かった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


お風呂から上がると、リビングにフィオナが座っていた。

紺色のジャージのまま、葵が貸した端末で、何かを読んでいた。


葵がリビングに入ると、フィオナが顔を上げた。


フィオナの視線を感じながら髪を乾かす。


乾かした後、キッチンで水を一杯飲んだ。

コップを置いた。


「フィオナさん」


「はい」


「そろそろ寝ようかと思うんだけど」


フィオナが端末を置いた。

ソファから立ち上がった。


「葵殿」


「うん」


「今日も、よろしいでしょうか」


葵は少し考えた。


「うん、どうぞ」


フィオナの肩が、わずかに緩んだ。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


葵の部屋に入った。


ベッドはシングルだった。

二人で寝るには狭い。葵が先に入った。

壁側に詰めた。


フィオナが続いて入ってきた。

ベッドが少し沈んだ。

フィオナの体温が、布団越しに伝わってきた。


「電気、消すね」


「はい」


葵が手を伸ばして、リモコンで電気を消した。

部屋が暗くなった。


カーテンの隙間から、月の光が少しだけ入っていた。


フィオナが葵の背中に腕を回した。

昨日と同じだった。

鎧の音はしなかった。


「葵殿」


「うん?」


「今日は、私のために、ありがとうございました」


「気にしないで」


「葵殿」


「うん」


「……いつまでも、ここに、いていいですか?」


葵は少しの間、黙っていた。


「もちろん、いていいよ」


フィオナが葵をぎゅっと抱きしめた。

力は強かったが、痛くはなかった。


「ありがとうございます」


声が、小さかった。


「おやすみなさい、フィオナさん」


返事はなかった。

もう、眠っているように見えた。


ライラが葵の枕元で、小さく丸まった。

何も言わなかった。


葵は天井を見上げた。


(また明日)


葵はそれだけ思って、目を閉じた。

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