第110話 弱くない
階段を降りた。
肩のバクが、小さく身じろぎした。
「キュ」
青白い光が、葵の周囲にゆっくりと広がった。空気が、冷えた。
セレンが、葵を見た。
「……便利」
「うん。バクのおかげ」
茜が、葵の隣に並んだ。
「バクちゃん、いいわね」
「うん」
セレンが先頭を歩き出した。葵と茜がそれに続いた。
茜のドミニオンが、白く発光しながら茜の周囲を旋回している。バクの冷気の中でも、光は揺らがなかった。
岩陰の縁の下に、何かが映った。
神魔解析録が、視界の隅に名前を出した。
火間虫入道。
縁の下から首が伸びた。長い、異様に長い首。坊主頭の僧侶のような姿が、ぬるりと這い出してくる。
一体ではなかった。
二体、三体、四体——岩陰のあちこちから、首が伸びてきた。すべての目が、葵たちを見ていた。
「やる気だね」
葵が肩のバクに、意識を向けた。
「お願い」
「キュ」
バクが短く鳴いた。青白い目から、氷槍が三本、扇状に飛んだ。
三体の首が、ほぼ同時に折れた。
四体目はセレンの矢が射抜いた。短い吐息と共に倒れた。
最後の一体が炎を吐いた。
茜のドミニオンが光の壁で受け止め、殴り倒した。
岩の道を進んだ。
しばらくして、暗雲が天井に渦巻いた。雷鳴が、低く響いた。
視界の隅に名前が出た。火車。
毛むくじゃらの大型の化け猫が、火の玉を尾に絡ませて宙を駆けてきた。
「キュ」
肩のバクが目を光らせ、氷槍が空中で胴を貫いた。二体目はセレンの矢が頭を射抜いた。
「ありがとう、バク」
蒸気。階段。
今度はサラマンダーが、五体まとめて溶岩から這い出した。炎の尾を振り回し、葵たちを挟もうとする。
「キュー」
バクの氷槍が二体を貫いた。セレンの矢が二体を射抜いた。
最後の一体に、茜のドミニオンが光の杖を振り下ろした。鈍い音と共に、サラマンダーが炎を消した。
「……慣れたわね」
茜が、自分の手の中の光を見た。
また階段を降りた。
セレンが手のひらを横に振った。一同が止まる。
セレンが足元を指した。岩の表面の色がわずかに違っていた。
「踏むと溶岩が噴き出す」
「ダンジョンの仕掛け?」
葵が聞いた。
「うん」
セレンが、迂回路を進んだ。葵と茜はその足跡をなぞった。
しばらく歩いてから、茜が葵を見た。
「ねえ、葵」
「うん?」
「モンスターに、見つかってばかりじゃない?」
葵は少し考えた。
「茜、僕たちだけだったら、もっと見つかってたかもしれないよ」
茜が一瞬黙った。
「……それもそうね」
茜のドミニオンは、相変わらず茜の周囲を旋回していた。光を下げる気配はなかった。
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地鳴りが、近くから聞こえた。
岩壁が、崩れた。
三方向から、影が現れた。
視界の隅に、名前。
キマイラ。
前半身は黄金のたてがみのライオン、中胴から二つ目のヤギ頭、後ろには太い蛇が尾の代わりに伸びている。三つの顔が、それぞれ別の方向を見ていた。
頭上で、空気が震えた。
もう一つ、名前。
ズメイ。
洞窟の高い天井から、三つの頭を持つ竜が、翼を広げて舞い降りてきた。
「……二体同時?」
茜が珍しく、低い声を出した。
セレンが左腕のガントレットを構えた。
「葵、地上をやって。空は私と茜で」
「うん」
葵が杖を、剣の形に変えた。
肩のバクが、葵の頭の上に移った。
ライオンが咆哮した。前脚で岩を砕く。葵はその一撃をかわした。
ヤギの口から炎が吐かれた。葵は剣を盾の形に切り替える。剣身そのもので炎を逸らした。横に流れた炎が壁を焦がす。
蛇の尾が、葵の足元を狙って薙いだ。
葵は跳んだ。
空中で、剣を弓に切り替えた。
黒い宝石が、青白い光を帯び始める。
弓自体が、凍りついた。
セレンが、わずかに目を見開いた。
氷の矢を番え、三本続けて放った。
一本はライオンの目、一本はヤギの首、一本は蛇の頭。
ライオンが片目を失い、咆哮を上げる。ヤギの頭が垂れた。蛇の尾が動きを止めた。
三方向の連携が、崩れた。
頭上で、ズメイの三つの口が、同時に炎を吐いた。
茜のドミニオンが上空に飛び上がる。聖なる杖を真上に構え、光の壁を展開した。三方向の炎を真っ向から受け止めた。光が、揺らがなかった。
「葵、止めを」
茜の声だった。
葵が顔を上げた。
茜の目が、葵だけを見ていた。
葵は弓を剣に戻した。
剣身が、また黒く戻っていた。
ライオンの首に、踏み込む。戦技、スラッシュ。
瞬間、黒い刃が黄金の鬣を裂いた。
熱い血が噴き、ライオンの咆哮が途中で断ち切られる。重い首が、ごとりと岩に落ちた。
ヤギの頭にも、もう一閃。
蛇の頭にも、もう一閃。
キマイラが、崩れた。
頭上のズメイが、三つの頭で同時に咆哮した。翼で空気を打ち、急降下してくる。
セレンが地面を蹴った。
ガントレットからの連射。
三本の矢が、三つの頭にそれぞれ刺さった。
真ん中の頭が、まず動かなくなった。残る二つの頭も、勢いを失った。
茜のドミニオンが、上から光の鎖でズメイを地面に縫いつけた。
葵が、剣で胴体を貫いた。
ズメイが、崩れた。
蒸気と硫黄の臭いが、漂った。
バクが、葵の頭の上で短く鳴いた。
青白い光が、わずかに薄くなった。
葵は、剣を杖に戻した。
手のひらに、自分の鼓動が伝わっていた。
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岩の上に、三人が腰を下ろした。
茜のドミニオンが、相変わらず白く発光しながら、茜の隣で旋回していた。
「お疲れ様」
茜が、葵の隣に座った。膝が触れた。
セレンが、葵の杖を見ていた。
左腕のガントレットを撫でる手が、止まっていた。
「……属性まで、変えられるんだ」
「うん」
葵が杖を、剣の形に戻した。さらに杖の形に戻した。
黒い宝石が、淡く光を返している。
「アリア先輩が、作ってくれたんだ」
セレンは何も言わなかった。
しばらく、誰も何も言わなかった。
「葵」
セレンが、声をかけた。
葵が顔を上げた。
「あなたなんで、ダンジョンに潜っているの」
葵は少し考えた。
セレンには本当の理由を言いづらい。
「自分の意志だよ」
「自分の意志」
セレンが繰り返した。
葵は黙った。
「......黒夢病を調べているの?」
葵は答えられなかった。
「……なんで、知ってるの?」
「同級生だから」
セレンが、それだけ言った。
「今のあなたは強い。1年生にしては。
でも、その程度。
世界には、もっと強い人がいる。
今のあなたが、企業と戦うのは早い」
茜が葵を見た。葵はセレンを見ていた。
「このまま企業に戦いを挑んだら、死ぬ」
セレンの声が、少し低くなった。
左腕のガントレットを撫でる手が、一瞬止まった。
死ぬ。
葵の手が、少し止まった。
それだけのことを、しようとしている。
なぜ。
葵にはわからなかった。
だが、やめるという選択肢はなかった。
茜が葵の手を、そっと握った。
セレンを、横目で見た。
「急がなくていい。
......あなたがこの先に行くなら、無理やりにでも止める。
今は、力を付けるとき」
葵は何も言えなかった。
確かに自分は企業と戦うには力不足かもしれない。
その時、葵の胸元からライラが飛び出した。
「葵は、弱くない!」
セレンが目を細めた。
「見せてあげる」
ライラは葵を見ていなかった。
セレンだけを見ていた。
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セレンが、一拍置いた。
「……分かった。見せて」
短い返事だった。
葵は立ち上がり、杖を握り直した。
「次の層、行く」
茜が立ち上がった。葵の手を離さなかった。
セレンが少し遅れて歩き出した。
灼熱の岩壁の向こう、地鳴りが、わずかに重く響いた。
ボスの階層が近づいていた。




