第10話 スカウト
火曜の午後、スタディホールが始まる少し前だった。
廊下を歩いていると、後ろから声がかかった。
「小春」
振り返ると、アーデルが立っていた。
「少し時間があるか」
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人気のない廊下の角で、アーデルは静かに言った。
「企業のスカウトが来ている。君に会いたいと言っている」
葵は少し驚いた。
「僕に?」
「詠唱なしで上級魔法を発動したという話が、外に漏れたらしい。早速動いてきた」
アーデルは少し間を置いた。
「私からは、会わないことを勧める。その場合、私が穏当に追い返そう」
「なぜですか」
「企業のスカウトというのは、君を囲い込むために来る。今の君には、まだその必要はない。それだけだ」
葵は少し考えた。
アーデル先生が止めてくれている、と思った。
ありがたかった。
でも——わざわざ来てくれた人を、会いもせずに帰すのは、葵にはできなかった。
「でも、わざわざ来てくれたんですよね。会ってみます」
アーデルはしばらく葵を見た。それから、静かに言った。
「……わかった。応接室に案内する」
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応接室は校舎の端にある小部屋だった。
ドアを開けると、二人の人間が待っていた。一人は四十代ほどの男性で、仕立ての良いスーツを着ている。もう一人は二十代の若い男性で、手元にタブレットを持っていた。
「やあ、来てくれたね」
四十代の男——部長と思しき人物が立ち上がり、手を差し出した。葵は握手した。
「わざわざありがとうございます」
「いや、こちらこそ。噂は聞いているよ。入学一週間で上級魔法を詠唱なしで発動したとか。いやあ、驚いた。座って、座って」
部長は上機嫌だった。若い男がタブレットを操作して、データを呼び出している。その目が一度だけ葵を見た。値踏みするような、静かな目だった。
テーブルを挟んで向かい合った。
「君のような人材は、うちの会社にとって非常に価値がある。詠唱なしで魔法を発動できる——それがどれほど実戦で有利か、わかるよね? 戦闘の場では詠唱の一瞬が命取りになる。それをすっ飛ばせる君は、今の時代の最高の武器になりえる」
「はあ」
「もちろん、今すぐどうこうという話じゃない。卒業後の専属契約を見越した早期接触ということだよ。条件は悪くない。というより、破格だと思ってもらっていい」
若い男がタブレットを葵の前に差し出した。数字が並んでいた。葵には相場がわからなかったが、確かに大きな数字に見えた。
「貴重なお時間をかけていただいて、ありがとうございます」と葵は言った。「ただ、まだ入学したばかりなので——」
「もちろん、今決める必要はない。ただ、こういう話は早いほうがいい。他社も動き出す前に、ね」
部長は満足そうに笑った。
「ところで——契約神魔は、何だったかな」
若い男がタブレットを操作して、申告データを確認した。
「ピクシーです」と葵は答えた。
一瞬、間があった。
部長の表情が、わずかに固まった。
「……ピクシー?」
「はい」
部長はもう一度、若い男を見た。若い男が小さく頷く。
「ピクシーというのは——ハイピクシーでも、バンシーでもなく?」
「ただのピクシーです」
部長は椅子の背もたれに体を預けた。にこやかだった表情が、少しずつ消えていった。長い沈黙があった。
それから、低い声で言った。
「ピクシーで上級魔法を出した、か」
部長は少し笑った。笑顔ではなかった。
「どういうカラクリか知らないが——ピクシーと契約した子供が本当に上級魔法を出せるとは思えないな。不正の方法は聞かないでおいてやろう。せめてもの情けだ」
立ち上がった。スーツの袖を直した。
「私の時間を、無駄にしてくれたね」
若い男が慌ててタブレットをバッグにしまい、部長の後を追った。
ドアに手をかけた瞬間、若い男が一度だけ振り返った。
何も言わなかった。でも——その目が、部長とは違う何かを見ていた。
ドアが閉まった。
葵は一人、応接室に残った。
胸元のライラに、そっと手を当てた。
ライラがいなかったら、僕は何もできなかった。
それだけは、葵にとってはっきりしていた。
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廊下に出ると、アーデルが壁際に立って待っていた。
葵の顔を見て、何も聞かなかった。ただ静かに「来い」と言って、歩き始めた。
二人で廊下を歩いた。窓の外に丘の緑が見える。
「企業には、ああいう人間もいる」
アーデルが前を向いたまま言った。
「君が気にすることはない」
「……気にしてないです」
葵は正直に言った。でも——なんとなく、すっきりしない感じが残っていた。
自分が何と言われても、葵は構わなかった。
でも、ライラのことを「ただのピクシー」と扱われたこと。
それだけは、少し、引っかかった。
アーデルはしばらく黙って歩いた。それから、また口を開いた。
「神魔の格が重要だと考える人間は多い。上位の存在と契約しているほど強い——そういう単純な見方をする」
「でも、違うんですか」
アーデルは少し間を置いた。
「格は、一つの指標だ。否定はしない。ただ——本当の強さは、どう関わるかだ。繋がりの深さが、魔法の質を決める」
それだけだった。廊下の角を曲がった。
「スタディホールの時間が始まる。行きなさい」
葵は頷いた。
繋がりの深さが、魔法の質を決める。
アーデル先生の言葉が、胸の中に残った。
それは、葵にとって嬉しい言葉だった。
廊下を歩きながら、葵はそっと胸元に手を当てた。
「ライラ」
小さく呼んだ。
「なに」
「僕たち、八年だね」
ライラはしばらく黙っていた。それから、短く言った。
「うん」
ライラの「うん」が、いつもより柔らかかった気がした。
葵はそれだけで、足取りが少し軽くなった。
葵は歩き続けた。




