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第108話 創世の痕跡

目が覚めると、フィオナの腕が胸のあたりに回っていた。

規則正しい寝息が耳に届く。

葵はそっとその腕をほどき、音を立てないようベッドを抜け出した。


洗面所で顔を洗い、台所に出ると、アーデルがすでにダイニングチェアに座っていた。

端末のニュースを印刷した新聞を広げている。

紙じゃないと頭に入らないと、以前言っていた。葵が冷蔵庫を開けると、視線だけこちらに来た。


トーストをセットしてから卵を割った。

サラダを用意して、ソーセージをフライパンに並べた。

紅茶を淹れて、出来上がったものを順にアーデルの前に置いた。


「ありがとう」


紙から目を上げて、アーデルが言った。口元がわずかに緩んだ。


制服に着替えて鞄を確認していると、寝室のドアが開いた。

フィオナだ。ジャージ姿で、後ろ髪が一房跳ねていた。


「朝食、出来てるよ」


「すみません、すっかり休んでしまいました」


「訓練で疲れていたんだよね。気にしないで」


葵はテーブルの端末を手に取り、差し出した。


「今日、これを貸すね。不自由しないように」


「ですが、葵殿が困るのでは」


フィオナが視線を落とした。


「これがあるので大丈夫」


鞄から古い端末を見せると、フィオナはしばらく葵と端末を見比べた。


「お昼は端末で注文してね。

作りたければ材料を注文しても大丈夫だよ。

......用意できればよかったんだけど、ごめんね」


「いえ、十分です。ありがとうございます」


フィオナが端末を両手で受け取った。


―――――――――――――――――


三限、教室に入ると、教卓の前に学園長が立っていた。


白髪。皺の刻まれた顔。やや小柄な体躯が、教室の空気を一変させていた。生徒たちが自然と背筋を伸ばした。


「前回の続きだ」


低い声だった。重みがあった。


「今日はエジプトを扱う」


黒板に地図が映し出された。ナイル川の流域。学園長が地図の一点を指した。


「ギザ。大ピラミッド。2075年現在においても、完全な建設方法が解明されていない」


「……どういうことですか」


学園長は振り返らなかった。


「230万個の石灰岩ブロック。平均2.5トン。計算上、一ブロックを運ぶのに数百人が必要だ。

工期が合わない。現代技術で試算しても、答えが出ない」


次のスライドに切り替わった。数値の羅列。魔力スキャンの反応値。

葵はノートを開いた。周りを見ると、Sクラスの生徒たちも手を動かしていた。

テストには出ない内容だが、端末を触っている者は一人もいなかった。


「2061年以降、魔力スキャン技術が実用化された。ギザの地層を調べると——浮遊・移動系魔法の痕跡が検出された。石材への魔力刻印の痕跡も残っている。微弱だが、確実に」


教室が静かになった。


「ピラミッドは魔法で建てられた、ということですか」


学園長が初めて視線を向けた。


「証明はできない。だが——証拠は積み上がっている」


―――――――――――――――――


次のスライドが出た。『死者の書』と現代神魔記録の比較表だった。


「エジプト人は冥界を『アメンティ』と呼んだ。

42の審判神が魂を裁く。心臓をアヌビスが計量する。死者の書にはその手順が事細かに記されている」


学園長が一拍置いた。


「神魔解析で、冥界の構造が判明してきた。

42の審判神——これは実在が確認されている。

魂の重さの概念——現代の魂工学と一致する」


誰かが息を飲んだ。葵も、ペンを止めた。


「つまり——古代のエジプト人は現代よりも詳しく冥界を知っていた、ということになる。

どうやって知ったのか。現時点では説明がつかない」


―――――――――――――――――


「次は戦争魔法だ」


スライドが切り替わった。古い碑文の写真。


「紀元前1274年、カデシュの戦い。

ヒッタイト軍に包囲されたラメセス2世は、アメン神に呼びかけた。

碑文にはこう刻まれている——

『神の力が私に宿った。一人で数千の敵を倒した』」


「……それは誇張では」


学園長が少し間を置いた。


「通常はそう解釈する。

だが——碑文の記述を現代の合一魔法と照合すると、構造が一致する。

神に呼びかける儀式、力が宿る感覚、出力の急激な上昇。

そしてラメセス2世が行使したとされる魔力量を現代単位で換算すると——」


学園長がそこで止まった。


「国家戦略級魔導師を、大幅に超える」


誰も何も言わなかった。


「人間が、どうやってその魔力を出したのか。私にはまだ答えられない」


葵はその言葉を聞いて、ペンを止めた。


神と合一した人間が、実際にいた。


―――――――――――――――――


「最後に——エジプトの創世について話す」


学園長が手を動かした。教室の中央にホログラムが展開した。エジプトの地図。カイロ近郊に赤い点が灯った。


「ヘリオポリス遺跡。昨年、地下空洞の調査中に予想外のものが見つかった。教科書の刊行後の発見のため、そこには載っていない」


ホログラムが切り替わった。地下空洞の断面図。その中心に、巨大な魔力反応を示す数値が浮かんでいた。


「原初の海——ヌン。

エジプトの創世神話において、すべての始まりとされる混沌の水だ。

アトゥム神はそこから現れ、世界を創造したとされている。

昨年の調査で、ヘリオポリス地下からその痕跡に対応する魔力の残滓が検出された」


数値がホログラムに大写しになった。


「規模は——メソポタミアで検出された測定不能レベルを、さらに上回る」


教室が静まり返った。ノートを取る手が止まった。


「創世は、神話の話ではない可能性がある。物理的な痕跡が、そこにある」


しばらく誰も口を開かなかった。学園長がホログラムを消した。


ルシアンが手を挙げた。


「前回の授業でも、メソポタミアで創世の痕跡が見つかったという話がありました。

別々の場所に創世の痕跡があるというのは——おかしくないですか」


学園長がルシアンを見た。しばらく黙っていた。


「現在、学術的に最も支持されているのは伝播説だ。

一つの文明が起源となり、交易路を通じて世界に広まったという考え方だ。

だが——各地の記録の細部が一致しすぎているという批判もある。

伝播説では説明が困難な地理的分布だという指摘もある。正確なことは——分からない」


それ以上は言わなかった。


創世した神が、複数いる?


答えは出なかった。


―――――――――――――――――


チャイムが鳴った。生徒たちが動き始めた。

葵が荷物をまとめていると、学園長の声がした。


「小春葵」


葵は顔を上げた。


「お前はSクラスに来た関係で、二回目の講義を受け損ねていた。興味があるなら補講をしてやろう」


少し驚いた。

なぜそこまでしてくれるのか、と思ったが、口には出さなかった。


「ありがとうございます。ぜひお願いします」


学園長は小さく頷いて、教室を出ていった。


―――――――――――――――――


廊下に出ると、ライラが胸元からわずかに顔を出した。


「ねえ」


「うん」


「神様って、本当にいるんだね」


葵は少し歩いてから答えた。


「うん。よく考えたら、すごいことだよね」


ライラが静かになった。葵も何も言わなかった。二人分の沈黙が、廊下の空気に混ざっていった。

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