第102話 禁じられた輝き2
夕食の皿をアーデルが流しに運んだ。オリビアが「ごちそうさまでした」と隣の部屋へ戻っていった。
いつもの解散の時間だった。
ライラが葵の袖を引いた。
「葵、ドラマ見るよ」
葵は立ち上がりかけて、気づいた。
アーデルが、居る。
正確には——帰っていない。
いつもなら自室に戻る時間なのに、流しを拭いているわけでもなく、窓を閉めているわけでもなく、ただリビングの端に立っていた。
こちらに視線を向けていない。向けないようにしている、という気がした。
——ドラマ、気になってるのかな。
根拠はなかった。
「先生」
アーデルが振り返った。
「一緒に見ませんか。
前に蒼龍伝を見たとき、先生の解説が面白かったので」
「……恋愛ドラマの解説などできんが」
「それでも、先生の見方が聞きたいです」
アーデルは少し黙った。
「……少しだけだ」
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ソファは二人がけだった。
アーデルが隣に座った。葵は自分の座る場所が減ったことに気づいた。
アーデルは葵より背が高い。肩幅も腰回りもしっかりしている。
ソファの半分以上が、アーデルの側になっていた。
近い。
肩の位置が違うので、葵の肩のあたりにアーデルの腕がある。
風呂上がりのアーデルから、葵と同じ石鹸の匂いがした。
ライラが葵の膝の上で小さく丸まった。残った隙間に押し込まれる形で、葵はリモコンを取った。
「先生と子犬、というドラマらしいです」
「先生? 子犬?」
アーデルが横目で葵を見た。
「なんでもいいから早くしてよ」
ライラが急かした。
「今やってるよ」
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MTVに合わせると、ちょうど始まるところだった。
画面に、夜のソウルが映る。
空中にホログラム広告が流れていた。立ち止まった男が手首を翳すと、数字が浮かぶ。隣の女性も腕を上げる。二つの数字が重なって、パーセンテージが弾き出された。
『87.3%。本日のカップル優待、適用可能です』
二人が笑い合った。
「……何の数字だ」
アーデルが低い声で言った。
「適合率だそうです。
相性を数値で出すシステムみたいで」
「数字が人間の縁を決めるのか」
「そうみたいですね」
アーデルが鼻で息をついた。葵は横目でその横顔を見た。
テレビの光がアーデルの頰を青く染めている。
いつもの厳しい表情が、少しだけ緩んでいた。
画面が変わった。細い路地。
ホログラムの光が届かない石畳の道を、一人の女性が歩いていく。
路地の奥に木の看板が一枚、風に揺れていた。
『記憶の栞』
アーデルが動かなくなった。
女性——ソユンが段ボール箱から古本を取り出して、丁寧に埃を払い、棚に並べていく。
店の中は壁一面が本棚だった。ホログラムはない。電子機器もほとんどない。
古い木の床が、踏むたびにわずかに軋む。
「時代遅れな店だな」
アーデルが言った。
批判の声に、いつもの力がなかった。
葵は前を向いたまま答えなかった。
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近所の花屋の女性がやってきた。売れ残りの花束を持って、インスタントコーヒーを断って、スマートウォッチの通知を見せる。
「また職場から。適合率の高い人紹介するって」
「行くの?」
「……どうしよう」
ソユンが静かに言った。
「測ったら変わる? 低かったら、その人のことが変わる?」
「……変わらないと思う。たぶん」
「じゃあ、測らなくていい」
アーデルが小さく息をついた。葵はちらりと横を見る。アーデルの視線は画面に向いたまま、動かない。
さっきと、雰囲気が違う気がした。
葵は前を向いた。
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花屋の女性が去った後、ソユンが一人で棚の整理をしていた。
夕方になって、雨が降り始めた。
雨の中でもホログラム広告の音声は続いている。ソユンが窓を閉めた。音が遮断される。静かになった。
ガラス越しに人影が現れた。
ずぶ濡れの男。傘もなく、急いだ様子もなく、ただそこに立っている。細い目。感情の読めない顔。
ソユンがしばらく見ていた。それから言った。
「……捨て犬みたい」
ドアを開ける。
「入りなさい」
「犬、か」
アーデルが小さく繰り返した。その声が、葵の耳のすぐ近くで響いた。
膝の上のライラが身じろぎした。葵は動かなかった。アーデルも動かなかった。
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男がタオルを受け取った。ミニョクという名前だった。店内をゆっくりと見渡す。本棚の配置を目で追い、背表紙の並びを読んでいく。
一冊の絵本を手に取った。表紙の絵がかすれている。
「それ、気に入った?」
「……いくらですか」
「3,000ウォンです」
ミニョクが財布を出した。お金を払う。本を胸に抱える。
ソユンがその様子を横目で見た。
——なんか、犬みたい。捨て犬が、昔の家を探してきたみたいな。
「……ありがとうございました」
「また来てください。傘持ってきて」
ミニョクが小さく笑った。ほんの少しだけ。
「笑った」
葵が言った。
「そうだな」
アーデルが静かに答えた。葵のほうを、一瞬だけ見た。
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場面が変わった。
深夜の管理局。広いフロアに、人はいない。無数のホログラムスクリーンが壁に展開されているが、今は消えている。ミニョクが窓際に一人で立っていた。
「ミニョクさん、なんか偉い人みたいですね」
雰囲気がさっきと全く違う、と葵は思った。
部下が「カン主任」と声をかけた。
「どこかへ行っていたんですか」
「在庫の確認だ」
「管理局に在庫はありませんが」
「……文化的調査だ」
葵が小さく笑った。アーデルが横目で見た。
「なにがおかしい」
「なんか、分かりやすいなと思って」
アーデルが何か言いかけて、やめた。
画面の中でミニョクが最高権限のIDでログインした。自分の名前を入力して——次に、オ・ソユン。
処理が始まった。光の粒子が集まってくる。収束する。
0.1%
赤黒い光が、部屋を染めた。
ミニョクが0.1%の数字を見つめている。葵は画面を見ていた。
「なるほど、そういう話か」
アーデルが言った。声は静かだった。
「どういう話ですか」
「0.1%……つまり、この世界では推奨されない関係だと知りながら、また行くのだろう」
「行くと思います。さっき、笑ってましたし」
「愚かだな」
そう言いきった。でも画面から目を離さなかった。
ミニョクが長い間、動かなかった。画面を閉じる。もう一度開く。もう一度、同じ名前を入力する。
0.1%
変わらない。
引き出しをそっと開ける。今夜買った絵本が入っていた。一瞬だけ見て、また閉じた。
窓の外では、雨がまだ降り続けている。
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ラストシーン。路地の角でミニョクが振り返った。店の灯りが、雨の中でぼんやりと光っている。
傘は、開かれないままだった。
しばらく、二人とも黙っていた。
エンディングが流れ始めた。
葵はテレビを消した。
「0.1%なのに、また行くんですよね、あの人」
「……そうだな」
「相性が悪くても、大切な女性なんでしょうね」
アーデルが少し間を置いた。
「……そういうことになるな」
「そういう気持ちって、どこから来るんでしょう」
葵は首を傾げて、膝の上のライラの耳を指で梳いた。
アーデルは答えなかった。立ち上がって、「おやすみ」とだけ言って、部屋を出た。
足音が廊下を遠ざかる。扉の閉まる音がした。
静かになった。
ライラが葵の膝から降りて、隣に座った。膝を抱える。
「ライラ、どうしたの?」
「なんでもない」




