間奏曲 ~ 雪嶺①
雪嶺……犀木銀子の名で呼ばれる彼女が、ヒトに近きクサとして生きるようになる前。
明確に記憶しているひとつのシーンがある。
野崎邸の奥、銀子の本体である銀木犀の幹に隠れるようにして一心にとある方向を見つめている少女。
彼女の見つめる先にいるのは、濡れ縁に座って何か考え事している、少年に近い青年。
彼は、当時野崎の当主になったばかりの輝之介の年の離れた弟にあたる人物であり、おもとの守のツカサを務めている省吾。
彼を見つめている少女はおもとの守の一人で……『犀木家の娘』である雪枝。
切ない目をした少女の姿が、銀子の記憶の奥深くで、美しいものとして仕舞われている。
『犀木家』は特殊な家系だ。
明治維新の少し前、当時ツカサだった野崎家の娘に恋をした銀木犀がいた。
この辺りの銀木犀の親木であり、銀子自身の親木でもあった彼は、木霊にあるまじきことに恋をした。
恋焦がれ、彼女に近付きたい一心で『ヒトに近きクサ』になり、彼女と共に生きたい一心で木霊であることを捨て、完全に人間になった。
オモトノミコトに二度も願い事をし、二度、願いを叶えてもらった破天荒な彼は、小波の樹木から畏れ敬われながらも『理解不能な存在』として伝えられている。
銀子が野崎の庭の一隅で自我らしきものを持ち始めた頃、おもとの守になったばかりの雪枝が野崎の屋敷に来ることが増えた。
守としての務めを果たすため……だが。
彼女個人はそれだけではない、のを、いつしか銀子は覚っていた。
ツカサの省吾は、利発だったが生まれつき腺病質で、学校も休み休み通うしかない少年時代を送った。
健康上の問題を抱えているのは、ツカサになる者にありがちな特徴だ。
死と近しい位置にいながら抗える魂を、オモトノミコトは好むのかもしれないと木霊たちの間で言われている。
木霊……『ヒトに近きクサ』の中からツカサが現れないのも、樹木には意図的に『抗う』感覚が薄いからかもしれない、とも。
雪枝は、もしかすると高祖父が元木霊だった関係もあるのか、守としての能力が飛び抜けて高かった。
ツカサほどではないが、それに次ぐ能力を持っていた。
当時の野崎当主・輝之介――彼女に『いざない』が来るまでツカサに次ぐ能力があった――を凌ぐ能力者であったため、今まで小波の中で、なんとなく遠巻きにされていた『犀木家』の存在感を高めた。
だが、雪枝にとってそれはどうでもいいこと。
彼女は、幼い頃から好きだった『時々勉強も教えてくれた、野崎の優しいおにいさん』省吾に、ツカサとモリとして出会い直し、惹かれて以来。
彼女の世界は、彼だけに染まっていたから。
「……雪枝ちゃん?」
物思いから覚めた省吾が銀木犀の陰にいる雪枝に気付き、声をかける。
雪枝は息を呑んだ後、覚悟を決めたように唇を引き結び、前へ出た。
「ツカサ殿」
どこかたどたどしく、彼女は省吾の『公的な呼び名』を呼ぶ。省吾は苦笑した。
「やめてーや、雪枝ちゃん。今はお務めの場やないねんから、以前みたいに『ショウちゃん』でかまへんで」
「ほんなら、ショウちゃん」
呼び方は変えたが、雪枝の表情はゆるまない。
「ツカサの神事、やっぱりやるつもりなん?」
「……ああ」
やや後ろめたそうに彼は目を伏せる。
「出来そうなんは、ツカサの僕だけやからな」
「そんな!」
「泉の延命は必要や、たとえ……数十年やったとしても、な」
「その数十年とショウちゃんの残りの寿命が引き換えとか、そんな……」
「雪枝ちゃん」
省吾は静かに雪枝を制する。
「勘違いしたらアカンで、雪枝ちゃん。オモトノミコトって神様は、願いを叶える代償に寿命を奪うような神様やない」
真顔で諭す省吾には、生半可な反論など一瞥ではねのける、独特の手強さがあった。
「ミコトを説得して納得していただくのに時間がかかって、下手するとそのまま息が止まる可能性があるってことが『寿命と引き換え』っていわれてるだけや。出来るだけ早く納得していただくよう、頑張ればエエねん」
「ショウちゃん……」
「やるんなら早い方がエエ。一日でも早い方が、泉も元気やろうし」
遠くを見て淡く笑む省吾へ、もはや雪枝は、何も言えなかった。




