8 『草仁』の横顔 佐伯 香穂視点③
この出来事以降、学級会の運営はずいぶん楽になった。
私語が皆無ではなかったが、司会進行に困るほどひどいとか、話し合いも出来ないざわついた雰囲気だとかではなくなった。
最初の学級会で結木くんがキレる直前まで、苦い顔でクラスの様子を見ていた担任の加賀先生は、最近、ちょっと楽しそうだ。
「結木くんが事態を収める直前。僕は、みんなを叱りつけようかと思て一歩前に出たんやけど。その瞬間、あの『おい!』バキーン!やったんや。僕も肝が縮んだくらいの、すごい迫力やったで」
普段穏やかな人を怒らせたら怖いんやって、みんな身に沁みたやろう。
そんなことを楽しそうに言う先生へ、困惑して目をぱちぱちさせている結木くんが、なんとなく可愛い。
「……ウーン。この方が健全なんはわかるけど。魔王が憑依せーへん王子サマは物足りんなあ」
ゆかりはこそッと、そんなことを言ったりもした。
何と言ってもまだ五月。
全校執行委員会はちょいちょい開催されるが、それなりにゆとりがある。
『変人四人組』の面々も、それぞれまだ、いつも通りの生活を送れていた。
例年、一学期の期末テストが終わって試験休みに突入してからが、本格的な学園祭の準備期間に入る。
大変なのはそれ以降だろう。
「そう言うたら佐伯さん。最近、火曜日は図書室お休みみたいやけど、二年生から予備校通うようになったとか、ナンか用事、増えたん?」
閲覧室で顔を合わせたある日、香穂は結木に訊かれた。
ちょっと目を伏せ、香穂は答えた。
「あー。月水金は図書室、火木は津田分館へ行くようにしてるねん、絶対にそうしてるってほどやないねんけど。津田分館の蔵書、面白いし。それに個人全集そろってて、作家読みするん、あそこが一番エエし」
結木くんは目を見張った。
そうだとしても遠いだろうとか大変だろうとか、彼が思っているのがわかる。
香穂は一度、息を吐いた。
言い切るのにためらいは、まだあるのだが。
香穂が香穂であり続け、胸を張って彼を好きでい続ける第一歩として。
最近思うようになったことを、彼女は話す。
「あー、あのな。私、大学、国文学科へ進みたいなァって最近、真面目に考えるようになって。近代文学を専攻しよかなって考えてるねんけど、誰の研究するとか考える前に、まずはひと通り読んどかんとアカンしなぁって」
再び彼は目を見張った。
今度は驚きというより、賞賛の光が多かった。
なんだか照れくさいような後ろめたいような気分になり、香穂はうつむく。
「……そうやったんや、すごい! 今から将来のこと、真剣に考えてはるねんな。さすが佐伯さん、大変やろうけど頑張ってな!」
香穂はうつむいたまま苦笑いし、ありがとうと言った。
将来のこと……は、正直あんまり考えていない。
ただ、好きな人の前で胸を張って立っていられる、自分でいたい。
理由の九割はそれだとわかっている。
香穂が、自分で立って闘えそうな分野は文学しか思いつかなかった、だから選んだ。
それだけだ。
(勉強も頑張らんと……)
本だけ読んでいられた時期は、そろそろ終わる。
今年の学園祭が終わったら、進学の準備も始めなければ。
そんなことを思いながら、香穂は図書室の窓から外を見る。
初夏の陽射しを浴びた木々が、風の中で新緑をうねらせていた。
下校時間になり、香穂はノートや筆記用具を片付け、立ち上がる。
今日は何か用事が出来たのか、結木くんは少し前に、バイブレーションの状態にした携帯電話を胸ポケットから出して覗き、慌ただしく帰って行った。
少し顔色が悪かったのが、香穂は気になっていた。
まさか身内に何かあった……とか?
(縁起でもない!)
思わず首を振り、香穂は嫌な予想を振り払う。
「……あれ?」
渡り廊下から、去年そうだったように結木くんがいるのが見えた。
メタセコイヤの前に立ち、幹に右手を当てた状態で目を閉じている。
なんとなく思いつめたような表情だ。
「草仁さん!」
香穂はちょっと驚き(校内で『草仁』の名を聞くとは思わなかった)、声の方を見た。
校門の方向から早足で歩いてくるのは、麻混らしいベージュのジャケットを着た巨漢の、四十代くらいのおじさんだった。
結木くんは目を開け、振り返って彼に向って軽く頭を下げ、何か話している。
切羽詰まったような雰囲気が二人の間にある。
そして忙しく話しながら、中庭を抜けて裏手へ向かった。
「……何?」
思わず小さくつぶやく。
一瞬迷ったがどうしても気になり、香穂は、彼らが向かった校舎裏へ行ってみることにした。
校舎裏のそちら側は自転車置き場だ。
香穂のような自転車通学でない者はほとんど行くことのない場所だが、かなり大きなポプラの木があることはなんとなく知っている。
その大きなポプラの木の下に、二人はいた。
(あれ?)
初夏だというのに、周りに比べてポプラの木は妙に寂しい。
秋の頃のようだ。
いつもならもっと、たくさん葉をつけていたような……?
厳しい顔で結木くんはポプラの幹に触れていたが、ふっと息を吐き、幹から手を離すと肩を落とした。
落ち込んでいる彼へ、ベージュのジャケットのおじさんが何か言っている。慰めているような雰囲気に見えた。
『俺はまだきちんと進路、考えてないんやけど』
香穂と話した時の流れで、彼は自分のことを少し話してくれた。
『俺の住んでる町には古い木が結構多いから、その保全とか出来たらエエなって最近思うようになってナ。樹木医、目指したいなって」
いろんな意味で、甘い道やないけど。
そう言って、ちょっと照れたように笑った彼の顔を、香穂は何故か、遠い日の夢のように思い出していた。




