2 草仁 ナンフウ視点②
本人はかなり悩んだようだ(特に、手本を書くことにものすごい抵抗感があったらしい。自分自身まだまだ修行中の身なのに、他人様の『手本』を書くような立場ではない、と頑なに思っていたようだ。いやいやお前の楷書は審査員の先生方をうならせたレベルだろう、とナンフウは思うのだが、自己評価がイマイチ低いのだ、この男は)が、これこそが修行になると銀雪先生に言われ、引き受けることに。
四月初旬からおっかなびっくり、ヤツは、五月分の手本の作成を始めたが。
当然、慣れない最初の頃は先生からダメ出しの嵐で、四月のヤツはちょっとやつれていた。
まあ、さすがに七月分の手本を書く六月の今、かなり余裕をもって書けるようになっている。それもあってナンフウは、俗にいう『ダル絡み』をしていたのだが……ちょっと。
本気で、ヤツを怒らせてしまった、かもしれない。
思わず息を吞む。
コイツは本気で怒ると異様に怖いのだ、以前から。
「うふふふ」
楽しそうな笑い声が突然、緊張感ただようその場に響く。
雪嶺だ。
仕事から帰ってきたらしい。
「もう……ふたりとも。またケンカ? ケンカするほど仲エエっていうけど、ホンマやねえ。なんか、兄弟ゲンカしてるみたいやん」
「ケンカ違いますよ、雪嶺さん」
ため息まじりに草仁は言った。
「コイツがさっきから、しょーもないことばっかり言うて絡んできてるだけなんです。暇なんかしらんけど、俺のバイトの時間ねらって顔出してきて……」
「ナンやねん、手伝うたることもあるやろうが」
ナンフウが口をはさむと、
「せいぜい三回に一回くらいやろーが」
と草仁が決めつける。
手本を書くのは手伝えないが、教室の生徒たちが書きあげた課題をまとめたり、まとめた物を郵便局へ持って行ったりなどの細かい雑務は(気が向いた時に)ナンフウだって手伝っている。
口喧嘩に発展する前に、雪嶺が
「しょーもないこと?」
と、首をかしげて問うと、草仁は再びため息を吐きつつ
「いやその、ホンマしょうもないことですねん。俺の背ェが中坊の頃より高なったとか顔に可愛げがなくなったとか……アホかっちゅうような内容の難癖つけてきて。ナンかコイツ、その辺が気に入らんらしィて」
ブツブツぼやく。
雪嶺さんはナンフウをチラッと見、ちょっと哀しそうに顔をしかめた。
「あー……」
さすがに木霊同士、雪嶺にはナンフウの気分がわかってしまったらしい。ナンフウは思わず、明後日の方向へ目をそらせる。
「あのな、草仁さん。ナンフウくんは……寂しいねん」
草仁は虚を突かれたような顔をした。
「木霊は成長がゆっくりな分、時々、親しい人間さんに置いてかれるみたいな気分になるもんやねん、特に若い頃は。そういう感覚、人間さんには理解が難しいやろうけど。そーゆーもんやねんなぁって、出来たらわかったげて?」
「……はあ」
曖昧な顔で返事をする草仁。雪嶺は笑顔を作る。
「草仁さん、そろそろ仕事あがる時間でしょ? 疲れたやろし、お茶淹れるから飲んでって。冷蔵庫にわらび餅冷やしてるし、それもちょっとだけつまんで。ナンフウくん、手伝うてぇ」
雪嶺に声をかけられたナンフウは、チロッと草仁の方を見た後、立ち上がって台所へ向かう。
机の前で草仁は、餌の前で待てを命じられた飢えた忠犬のような、やるせなくも情けない顔で雪嶺さんが去った方を見ていた。
おそらく本人は気付いていない。
雪嶺に言われるまま、ナンフウは小皿にわらび餅を盛り、きな粉と黒蜜をかける。
冷えた緑茶をガラス製の背の低いゆのみに注ぐ彼女を見ながら、ナンフウは内心、ため息を吐く。
草仁は小一の秋、鈍くさくも近くの水路へ転がり落ち……たまたま通りかかった雪嶺さんに助けられた、のだそう。
それ以来、ヤツはずっと『助けてくれたお姉さん』に、感謝と憧れを捧げていたらしいのだが、中二の秋に彼女がおもとの守の一人だと知り、テンションが上がった(多分)。
中学生の頃のヤツは、ガキの頃の延長みたいな気分で彼女に憧れていたようだが。
このバイトを始め、彼女としょっちゅう会うようになり……単純な憧れで済まなくなってきた、気配がある。危ない。
ナンフウが、草仁に邪魔にされながらもここへ顔を出すのは、この辺りの慮りもあるのだ、誰にも言ってないが。
ヤツの性格上、さすがに雪嶺の貞操が危ないとは思わないが、ヤツの精神は確実に危ない。
(思い込んだら一直線、なタイプやからなァ、アイツ)
木霊と人間の恋など、99%絶望だ。
そもそも木霊に恋はよくわからない。
プラトニックな恋(のようなもの)はともかく、それ以上となると余計わからない。
繁殖方法が人間と違う、という部分が大きいのだろう。
ただ。
木霊と人間が結ばれるのは、小波でならひとつだけ方法がある。
木霊がオモトノミコトへ『ヒトに近きクサではなく、完全に人間にしてくれ』と願えばいい。
実は小波の歴史の中で一度だけ、前例がある。
当時のツカサだった野崎の血筋の女性に恋をした銀木犀が、彼女と結ばれるために木霊であることを捨て、人間になったと伝えられている。
『犀木家』……銀雪先生の親元でもある家が、そうだ。
(草仁の恋が成就するとしたら。雪嶺さんがまずヤツのこと、木霊やめてもエエくらい好きにならなアカンのよなあ……)
しかし雪嶺にとってヤツは、水路へ転がり落ちて泣いていたアホガキの印象が強かろう。
最近でこそ大人っぽくなってきたとはいえ、雪嶺にとって草仁は『書道教室の仲間』『仕事仲間』『おもとの守のツカサ』以上ではない……多分、この先もずっと。
(よりにもよって難儀な相手、好きになりよって。アホな男じゃ!)
わらび餅の小皿を盆に並べながら、ナンフウは胸でぼやいた。




