1 それはまるで、荒野に立つ孤高の若木のような 佐伯 香穂視点③
放課後。
香穂はのろのろと、図書室のある棟へ向かう渡り廊下を歩いていた。
とりあえず、今借りている本は返さなくてはならない。
今日が貸出期限だったのを思い出したのだ。
(……あああ。バレた、バレたよう~、どないしよ~)
もっとも。
ゆかりにバレたからといって、言いふらされるとかは絶対無い、のはわかっている。
彼女は友達が困るようなことなどしない。
もっと正しく言うのなら、そもそも他人の恋路に興味ない。
そんなことにかまける時間があるなら多分、スケッチでもしている。
(問題はゆかりちゃんがどうとかやなくて。私、やよな……)
今まで香穂は、図書室で結木くんと会い、一言二言、話をするだけで幸せだった。
本当にそれだけで幸せで……それ以上のことは望んでなかった。
この気持ちが何なのかはわかっていたが、彼に思いを伝えたいとかお付き合いしたいとか……。
(全然考えてへんかった……多分)
でも。
でももし彼が、誰か、香穂以外の女の子とお付き合いを始めたりしたら。
絶対絶対、冷静ではいられない!
(もし彼がお付き合いするとしたら。どんな女の子やろ?)
全く想像つかないが、少なくとも。
香穂は今日返す予定の分厚い文庫本を見る。
有島武郎の『或る女』。
控えめな表現ながら際どい描写が多々ある、コケットリーの化身みたいな哀しい女・早月葉子のままならない苦悩を描いたお話だ。
(さすがに葉子みたいなタイプは違うやろなあ)
違うだろうが。
もし葉子のような蠱惑的な女性にグッと迫られたら、結木くんであってもオチる、かも?
(いやいやいや、ないないない! 絶対ない!)
お色気ムンムンの女性に翻弄される結木くんの姿を想像し、香穂は慌ててその想像を打ち消す。
「……はあ」
思わずため息を吐いてしまう。
仮に彼がお色気ムンムンにオチなかったとしても、香穂の方が有利とはいえない。
図書室で会った時の彼の態度は『ちょっと親しい同級生』以上ではない。
ものすごく平静。悔しいくらい。
おそらく、香穂だけがドキドキしている……
「……んん?」
思わず彼女は足を止めた。
渡り廊下の窓は中庭に面している。
そして中庭の中央には、この学校のシンボルツリーともいえるメタセコイヤの大樹がある。
周辺は柔らかな短い草で覆われていて、ちょっとした休憩場になっている。
気候のいい頃なら、ここでお昼ごはんを食べる生徒も結構いる。
今はさすがに梅雨時なので蒸し暑く、誰も中庭に寄り付かない。
が。
(え? 結木くん?)
黒い通学用のリュックを肩にかけ、真っ直ぐ彼は、メタセコイヤの木の下へと進む。
軽く梢を見上げ、緩く笑むと彼は、そっとメタセコイヤの幹に触れた。
そして、何か小さくつぶやく。
「みゃー」
可愛らしい声がした。
クリーム色の地に薄茶の縞の猫がいつの間にか彼の足許にいた。
彼は足許を見ると、にこっと笑って片手で猫を抱き上げる。
重そうな通学リュックを担ぎ直し、彼は、猫を抱いたまま校門へ向かう。
胸元に抱えた猫に何か話しかけながら、いつも通りの美しい姿勢で彼は、早足で帰ってゆく。
「……」
茫然とその後姿を見送っていると、なんだか香穂は泣きたい気分になってきた。
(……私)
私、彼のこと何も知らない。
本当に何も知らない。
メタセコイヤへ、薄茶の縞猫へ、ひどく親し気に微笑む彼。
あんな笑顔、彼はクラスの中で見せない……もちろん香穂へも。
(彼のこと。もっと知りたい)
初めて香穂はそう思った。




