10 青い空、白い大地Ⅱ②
片角の白鹿は、フンと鼻を鳴らした。
「一角のミコト、か。まあ…悪くはない。何のひねりもないが素直でよかろう」
片角の白鹿すなわち『一角のミコト』は、碧生の名付けに納得したようだ。
「その名で呼べば答えてやる。ところでツカサの若葉、お前の名は?」
「あ…その。ゆ、結木、です」
姓名を答えようとし……何故か喉に不思議な制限がかかるような感じで、彼は、姓を名乗るにとどめた。
初めてサキモリの兄彦に名を問われた時と同じ、無意識のうちに制限がかかる感覚だ。
一角のミコトは目許だけを、可笑しそうにすがめた。
「自ら真名を明かさないとは、なかなか用心深いではないか。誰かに小賢しく教えられた訳でもなさそうだが。お前が明かさなくともこちらはお前の名くらいわかっているが、『自ら明かす』ことに意味がある。ギリギリで『己れである』ことを保てる精神力、悪くない。弥栄」
「あ、ありがとう、ござい、ます……?」
よくわからないが、褒められたようだ。目を白黒させながら、碧生はお礼を言う。
が、何故褒められたのか、よくわからない。
「ここまで来て我の前に立ち、ギリギリ『己れ』を保てたツカサの若葉も久しい。褒美だ、何かひとつ願いを言ってみろ。何でも叶えてやるとは言わないが、ある程度の願いなら叶えてやれる。言え」
「……え? は?」
碧生はポカンとするしかなかった。
今この場で、『願いを叶えてやる』などという話が出てくるとは、まったく思っていなかった。
一角のミコトは白けたように鼻を鳴らす。
「なんだ、お前には是非とも叶えたい願いはないのか? ずいぶんと欲がないというか……愚かというか。こんな機会、生涯に一度あるかないかだぞ。我は気まぐれ、慈悲深くもない。願いがないなら、この話はこれっきりだ」
「あああ、いえ! 決してそういう訳では!」
慌てて否定する碧生へ、一角のミコトは再び、可笑しそうに瞳をすがめる。
「なんだ、ちゃんと人並みに欲がありそうではないか。さっさと言え。……ああ、そうそう。予め言っておくが『この先、どんな願いもかなうようにしてくれ』だの『今すぐ世界一の億万長者にしてくれ』だの、現世の理を大きく歪めそうな願いは無理だからな。そういう願いは、どちらかといえば天津神の領域だ、我の手に余る。だから、お前にとって切実な、お前にとって必要な願いを言え」
(切実で、必要な……)
碧生の頭の中で、色々な願いが断片的に浮かぶ。
直近の課題である、展覧会の作品『明鏡止水』のこと。
下がり気味の成績への対策。
高校・大学受験の成功。
そこから派生して、将来安定した職に就きたいこと……。
ふと、振袖姿の雪嶺の白い首筋が、何の脈絡もなく浮かぶ。
今のところ碧生は彼女に、完全に子供扱いされているが。
少しはそうじゃない、と思ってもらえたなら……。
(アホ! ヒトの心に干渉はアカンやろ!)
やや赤くなりながら碧生は思い……。
(……あ!)
ひとつの答えを見出す。
「あの。い、一角のミコト」
物問いたげに、一角のミコトは軽く首をかしげる。
「考えましたが。ボ、ボクは今、叶えていただきたい切実な願い、見出せませんでした」
「ほう。それはどういうことだ? お前はさっき、色々な願いを頭の中に思い浮かべていたのではないか? さすがに我であっても明確にはわからないが、将来のことやら女のことやら、色々な願いを浮かべていたであろう?」
やや面白そうに一角のミコトは言う。
『女のこと』などという直接的な言葉にうろたえ、碧生は思わず赤面したが、咳払いをして気分を変え、言った。
「あの。色々、願いはあります、悩みもいくつか。つ、つまらん、しょーもない悩みですけど、ボクとしては切実な悩みで、それを解消してもらったら嬉しいなと思います。で、でも……」
碧生はそこでひとつ、大きく息を吐き、一角のミコトの薄青い瞳を見返した。
氷河の割れ目を思わせるミコトの瞳は冷たい。
ぞわっと背筋が冷えたが、碧生はあえて背筋を伸ばし、声を押し出す。
「それでは……アカンのです。叶えてもらった望みは自分のモンやない、そんな気がするんです」
「我の力添えで叶えてもらおうがどうしようが、お前は願いが叶う。叶った願いはお前のものだろう、そこに何の問題がある?」
冷笑を含んだような口調で一角のミコトは言う。
ひょっとして怒らせてしまったか、と、さらに背が冷えたが、もはや引き返せない。
彼は、彼の思う本音を、美しくも恐ろしい神へぶつける。
「あの。ボクに難しいことはわかりません。でも、ひとつだけわかるのは。今回、一角のミコトへお願いして何か叶ったとしたら。ボクは一生、神様にお願いしてこの結果をもらった、そう思い続けるだろうと。ホントは自分は、この結果に相応しくないくせに、ズルしてエエ結果もらったって。もちろん、そのエエ結果に相応しいだけ、この先頑張ったらエエだけやないかとも思います。でも……」
彼は一度ゆっくりまぶたを閉じ、再びゆっくり開けた。
「ナンか……一番最初でズルしたら。自分で自分を一生許せんような、そんな気ィになりそうなんです。ナンちゅーのか、この先、美味いもん食べても芯から美味いなァって思われへん、そんな気がしそうってのか。ボクは……美味いもん食べたらちゃんと美味いと思って、この先も生きたいんです」
フフン、と、一角のミコトは鼻を鳴らした。
呆れているようにも、可笑しがっているようにも取れる。
「面白い男だ。莫迦な男だともいうのだろうが。まあ……いい。さすがは……」
一角のミコトは言葉を切り、不意に踵を返した。
「弥栄。お前はツカサだ。泉を、いたわってやってくれ」
「い、いやさか……」
つられたようにそう返した次の瞬間。
碧生は、ぬかるんだ地面に手をつき、壊れた笛のようなひどい音を立てて、必死に呼吸していた。




