10 青い空、白い大地Ⅱ①
手順通りに白木の桶や、水の汲まれた柄杓がツカサ代から渡させる。
碧生は淡々とそれらを受け取る。
柄杓の水で口を漱いだ。
かすかに土臭い。
この水、あんまり大量に飲んだら腹壊すかもしれんな、などとのんきなことを思いながら、彼は、しゃがんで口中の水を桶へ吐き出し、柄杓で泉の水を掬う。
見たところは澄んだきれいな水、それ以上でも以下でもない。
「お、オモトノミコトへ、ご挨拶を申し上げます」
わななく腕を抑えながら、彼は、それこそ清水の舞台から飛び降りるような覚悟で柄杓の水を口に入れ、飲み込む。
嚥下の感覚。
不意にくる、頭を殴られたような衝撃。
ブラックアウト。
我に返ると、碧生は、靄に似たものに埋め尽くされた、白い大地の上に立ち尽くしていた。
見上げると、どこまでも澄んだ雲ひとつない明るい青空が広がっている。
太陽も見当たらないが、どこから光が来るのか、ここは必要なだけ明るい。
「あ……」
意味のない声が出たが、その声はすぐ、吸い込まれるように消えた。
(そう、やった。ここでは、ナンデか知らんけど声が響かへんねや……)
碧生は大きく息を吸い、吐き、思う。
果てしなく広がる白い大地。
どこまでも澄んだ、恐ろしいまでに澄んだ青い空。
それ以外、何もない。
そして無音であり、無風。
この場における己れの呼吸音、そして己れの存在そのものの、たとえようのない異物感。
幼い頃から繰り返し見てきた、あの悪夢の舞台だ。
しばらく碧生は呆けたように、白い大地に立ち尽くし、青い空を見上げていた。
白と青以外何もない。
恐ろしいばかりの完璧な美。
無音の静寂が却って耳に痛い、そんな不思議な感覚の中。
碧生は、知らず知らずのうち、自分で自分を抱きしめるように身体に腕を巻き付けていた。
この完璧な白と青の中にいる、醜い異物たる自分。
呼吸してここに立っていることすら、段々いたたまれなくなってくる。
(オレ、は……)
じっとしているのが心許なく、寄る辺を探すように彼は、恐る恐る、ふらふら歩き始めた。
オレは。
ずっと、独りきりだと思っていた。
敵らしい敵はいないが、心から信頼出来る味方もいない、と。
そう思っていた、おそらくかなり幼い頃から。
(……四面、楚歌)
この恐ろしい夢を、誰とも共有できないと知った日から、オレは、『四面楚歌』の世界で生きてきたらしい。
意識するよりも前、まるで自明であるかのように。
家族や親戚はいるし、彼らと仲が悪い訳ではない。
クラスの中にもそこそこ仲のいい、友人と呼べる者もいる。
書道教室の銀雪先生への、信頼や尊敬の気持ちもある。
……でも。
(白と青のこの世界の恐ろしさを、誰もわかってくれない、から……)
わかってくれない、と知ったから。
オレは永遠にこの世界で独りきり、だと……。
(……いや)
不意に彼は立ち止まり、青い空を見上げる。
ほとんど、にらみつけるように。
(本当に……そうなのか?)
味方などいないと思い込んだきっかけ。敵陣から流れてきた楚歌。
本当に本当に、自分はそれを聴いたのだろうか?
これまでの自分の態度が、それこそ走馬灯のように浮かんでくる。
曖昧な笑みと無難な言葉を適宜使い、嫌われないよう友好的に振る舞ってきた。
別にそれが悪い訳はなかろう。
余計な摩擦を増やすのは、周囲にとっても迷惑だ。
碧生自身だって、意味もなく突っかかってくる相手とまともにやり合うのはごめんだ……。
(ナン、フウ)
しかし、あいつはまさにそんなヤツだったと、彼は不意に覚る。
最初の頃は持て余したし、腹も立った。
だが、どこか憎めない。
何故だろう?
空をにらみ、碧生は考える。
『お前……結構やるやんけ。銀雪先生が見込んだんは、マチガイとか身びいきとかでもなさそうやな』
初めて碧生の書いたものを見て、ナンフウはそう言った。
悔しそうに口許が引きつってはいたものの、己れが認めるべきと判断すれば、ヤツは潔く認める。
あいつの言動に嘘はない。
のらりくらりと本音を隠すようなことはしない。
それが100%素晴らしい、とまでは、確かにいえないだろう。
が、本当の本気で、本音で向かってくる者へは。
自然と、本気で本音で、返そうと思うのが人情だ。
それが敵であれ味方であれ、あいつの周りには空虚な、形だけ取り繕った人間関係などないだろう。
(オレ、は……)
たった一度、打ちのめされ。
他人は決してわかってくれないのだ、と思って以来。
これ以上傷を作らない道ばかり探し、選んできた。
あまりに傷が痛かったから。
それはでも、不誠実なやり方ではなかったか?
誰とも揉めずに『うまくやる』ことそのものが、悪い訳ではなかろうが。
そのやり方だけの人間関係は、脆弱だ。
わかっていない訳じゃない、さすがにぼんやり感じていた。
今の、小波中のクラスメートで、それなりに仲良くしている連中。
彼らにとって『結木碧生』は、どんな存在だろう?
仮にこの神事でまずいことが起こり、碧生が急死したとしても。
彼らにとって、碧生の死はどの程度のダメージになるだろう?
さすがに何も感じなくはなかろうが。
一年後には、『そういえば去年の秋、クラスメートの一人が急死したっけ。アレはビックリしたなあ』程度しか残らない、だろう。
逆の立場ならば碧生自身、そうとしか思わない、だろうから……。
「……ふふっ」
悲劇のヒーローぶって、逃げて逃げて……、自らを守った結果。
自分を大事にしてくれる人をないがしろにし、自分と関わろうとしてくれるはずの人を、拒んだ。
「オレは……アホや……」
「ほう。自分を愚かと自覚する程度には、利口になったらしいな……ツカサの若葉よ」
冷ややかな、男のものとも女のものとも思えない声がすぐ後ろでそう言う。
鋭く振り返る。
すぐ後ろに、あの白鹿――無残に片角が折れた、馬ほどもある大きさの、青く見えるほど白い毛皮に覆われた……割れた氷河を思わせる、冷たい薄青の瞳の白鹿――が、いた。
「い……一角の、ミコト」
意識するよりも早く碧生の唇は、白鹿……つまり彼にとってのオモトノミコトの名を、つぶやいていた。




