9 おみず神事Ⅱ⑤
「……はい」
やや震えていたがしっかりと答え、ナンフウは前へ進み出た。
ツカサ代、否、銀雪先生の目元がさすがに気遣わしげに曇る。
「棕櫚くん、作法はわかりますか? 今まで神事を行った人を見ているから、大体わかるとは思いますが。まず、手渡された桶を自分の足許へ。私が汲む柄杓の水で口を漱ぎ、桶に吐き出す。そして最後に自分の手で水を汲み、ひとくち飲む。するべきことはこれだけです。多少違っていても、大きく差し障ることはほとんどありませんから、必要以上にかたくならなくても大丈夫ですよ」
「はい」
答えるヤツの顔はほとんど土気色だったが、目は意外にも静かに澄んでいた。
闘志じみた光すら、そこにはある。
「それでは始めましょうか。若葉であるあなたや碧生くんは、自らのオモトノミコトの名前がまだわかりません。だから『オモトノミコトへ、ご挨拶を申し上げます』と言って水を飲んでください」
少年たちが小声で返事するのを確かめ、彼女はうなずいた。
野崎夫人から桶を受け取り、ナンフウへ差し出す。
震える手でそれを受け取り、ヤツは足許へ置く。
夫人が柄杓を差し出し、ツカサ代の手で泉の水が汲まれ、渡される。
がくがく震えながらナンフウは、それを受け取って口を漱ぎ、しゃがんで桶へと吐き出した。
ひとつ、大きな大きな息を吐くと、意を決したようにヤツは、柄杓で泉の水を汲む。
「お、オモトノミコトへ、ご挨拶を、申し上げます!」
叫ぶようにそう言うと、ナンフウは柄杓へ口をつけた。
ピシリ。
そんな音がしたのではないかと思うような感じで、ナンフウは硬直した。
見開かれた彼の大きな目は、驚いて固まっている幼い子供のようにも見える。
五秒……十秒……十五秒……。
思っていたよりも硬直が長い。
碧生は心配になってきたが、ジリジリしながら見ているしかなかった。
不意にナンフウの肩が揺らぎ、ヒュウウウー、という苦し気な呼吸音が響いた。
その刹那。
(……え?)
ヤツの身体の輪郭が揺らぎ、突然、ザッ…と微かな音と共に全身が緑色の粒子になり、地面に吸い込まれた!
「ナンフウ!」
叫んで一歩、碧生が前へ踏み出した瞬間。
ぬかるんだ地面に倒れこみ、咳き込んで苦し気な呼吸を繰り返すナンフウが、そこにいた。
(え? ええ? え? えええ?)
今……ナンフウの身体が緑色の粒子になった、ように見えた、が?
粒子になって、地面に吸い込まれて……。
(吸い込まれて、消えた、よう、な?)
見間違い勘違い、だったのか? え? え?
混乱している碧生の前へ、小走りで恵月先生が出てくる。
彼は、倒れこんでいるナンフウの肩を抱いて起こし、そばにしゃがんで背中を強くさすった。
「棕櫚! 棕櫚、しっかりせい!」
徐々に徐々に、ナンフウの呼吸が落ち着いてくる。
「あ…オトン……」
養父の顔を見上げ、茫然とそうつぶやいた後。
急にくつくつとナンフウは笑い出した。
「ふ……く、くふ、くふふ、くふ。あは。はは、ははは。なるほどなあ、納得納得、メッチャ納得や。オレは確かに波多野の家の、棕櫚や。間違いない」
あははははは。
笑いながら目に涙をためている義息の肩を、恵月先生は抱き寄せようとした。
が、ナンフウは決然とその手をすりぬける。
「波多野恵治さん」
立ち上がり、何故か妙に他人行儀な口調でナンフウは、養父へ話しかけた。
「オレが何者か……わかってはりますよね?」
「ああ、まあ、な」
ゆっくりと立ち上がり、恵月先生は答える。
「……いつから?」
「ほぼほぼ最初から、やな。庭で、記憶をなくした子供が寝てるんを見つけた時は、さすがにビックリするやらなんやらで泡食ったけど。落ち着いたら、ああそういうことかって、すぐにわかったで」
目元をゆるませて優しい口調でそう言う恵月先生へ、ナンフウは、切なそうにへらっと笑う。
「そうです、か」
そこでナンフウは頬を引き、養父の目を真っ直ぐ見た。
「あの。色々……お世話やら負担やら、かけてしまいました、けど……あの。鬱陶しいと思いはるんやったら、これ以上はオレのこと……」
「あほっ!!!」
恵月先生は、耳もつんざけとばかりに怒鳴る!
「世話? 負担? 何ゆーてんねん。親が息子の世話するんはアタリマエやろがっ。それを……お前……阿呆なこと、ぬかすな!」
言い終わると同時に彼は、つうっ…と一筋、涙を流した。
「波多……お……親父」
泣きそうな声でナンフウは、思わずのように養父を呼ぶ。
「あ、あなた、を。オレはこれからも、親父と呼んで、か、かまわない、んですか?」
「アタリマエじゃ! 今までもこれからも、お前はワシの、息子や! ふざけたことばっかり言うてると、しまいにゃ、はっ倒すぞ!」
言いながら彼は、ナンフウの上腕の辺りをバシンと平手で叩いた。
へへへ、とナンフウは、しまりのない照れ笑いを浮かべた。
「……ハハ、痛。せやけどさすがオレの親父、オレのお師匠やな。コダマが義理の息子でもかまわんとか、太っ腹すぎやろ」
「アタリマエじゃ、波多野恵治をなめるな! お前の一人や二人、なんぼでも養うたるわい!」
泣き笑いをする義理の親子を、おもとの守の大人たちはほほ笑ましそうに見ている。
碧生も基本、そう、だが。
ナンフウと恵月先生が、彼らにしかわからないわだかまりを消し、絆を深め合ったことは。
他人事ながら嬉しいし、ホッとする。
……でも。
(……コ・ダ・マ?)
ナンフウの言葉のうち、意味のわからないこの単語が。
そしてさっき、一瞬ヤツが緑の粒子になったように、見えた気がするのが。
九割の『良かったね』に、一割の不穏を差し込む。
「二人とも。気持ちはわかりますが、まだ神事は終わってませんよ。恵月先生……」
ツカサ代にやんわり窘められ、恵月先生は少々ばつが悪そうに退く。
「モリの若葉。オモトノミコトは何と仰せられましたか?」
問いに、ナンフウは真顔で答えた。
「オモトノミコト…セフィロト、は。弥栄、お前をモリと認める。泉を大事にするように、と」
「弥栄。お疲れ様です」
紋切りの言葉で応じ、ツカサ代は碧生の方を向く。
「……では、本年度最後の神事を行いましょう。……ツカサの若葉、前へ」
大きく心臓が跳ねる。
深呼吸をしながら、碧生は答えた。
「はい」




