9 おみず神事Ⅱ③
ついにおみず神事、当日。
碧生は朝五時に起床。
本当はもっと前から目が覚めていたが、目覚まし時計が鳴りだすまで布団の中で横になっていた。
もっというのなら、緊張のせいで寝つきが悪かった。
真夜中を過ぎるまで暗闇の中、爛々と目を光らせてそれこれ考え事をしていたが、さすがに疲れたのか、それから次に目が覚める四時過ぎまで記憶がない。
短時間だがぐっと深く眠り込んだらしい。頭もすっきりしている。
五時になり、鳴り出した目覚ましのベルを素早く止め、彼は階下へ向かう。
顔を洗い、歯を磨く。
初めて神事に臨む場合、場合によると吐くこともあると聞かされているので、朝食をとる気はない。
それでなくても緊張のせいか、胃が重くて食欲がない。
ただ、それでは親が納得しない。
食事をしないまま出かけると母が心配するので、前日の晩におにぎりでも用意してもらい、それをあちらで食べるという説明をして納得してもらう。
「五時起きとか未経験やし、さすがにメシ食える気、せーへんねん。どうせ本格的に神事が始まるまで時間あるみたいやから、その合間にこそっと食えるよう、おにぎりかなんか、前の日に作っといてくれへん?」
こうして嘘は増えてゆくが、無事に神事が終わったら、用意されたおにぎりはちゃんと食べるつもりである。
「おはよう」
ちょっと眠そうな顔の母が、洗面所の碧生へ声をかける。
五時より前に起き出し、おにぎりを作ってくれたのだ。
「シンプルに、塩だけのおにぎりに海苔巻いて、作っといたで。多めに作ってあるから、食べられるんなら、今、食べや」
「あ……うん。ありがとう。でも食べるんは、やっぱりあっち行ってからにするワ」
前日に作って、当日の朝は寝ていてくれていいと碧生は母へ言ったのだが。
そういう訳にはいかんやろ、十月は意外と食中毒が起こりやすいんやで、傷んだら怖いやんと彼女は、四時過ぎに起き、炊き立てのご飯でおにぎりを作ってくれた。
有り難いが、なんだか申し訳ない。
十分に冷めたおにぎり二個をアルミホイルで包み、いつも使っている小さめの水筒に熱いほうじ茶を詰める。
それを彼は、静かに通学用リュックの中へ入れた。
カモフラージュ用に、筆記用具等も当然入れている。
制服を、常より気を遣ってきちんと身に着けた。
「ほんなら、いってきます」
五時半にそう言って出かけようとする碧生へ、母は、この辺りで『ちょっといい和菓子屋さん』として知られている店の紙袋を渡す。羊羹か何かの菓子折りが入っているらしい。
「自治会長さんや神主さんらへ、ちゃんとお礼、言うんやで」
「うん。わかってる」
……色々、ごめん。
心の中で手を合わせ、碧生は家を出る。
まだ薄暗いねんし気ィ付けや、という母の声を背に、碧生は玄関の扉を静かに閉める。
冴えた明け方の空気が頬に痛い。
深呼吸をひとつし、碧生は、大股で歩き始める。
野崎邸まで歩いて十分もかからない。早足なら五分強、というところだろう。
彼は何気なく空を見上げる。東の空が明るい。
今日はよく晴れそうだ。
野崎邸・正門前。
門前にはすでに、銀雪先生と雪嶺がいた。
銀雪先生は黒留袖、雪嶺は渋めの紫が印象的な振袖、髪は初対面の時のように銀色のバレッタでまとめている。
むき出しになった彼女の細くて白い首が、妙になまめかしい気がして、碧生は軽く目をそらす。
「おはよう、碧生くん。昨夜はちゃんと寝られた?」
気遣いを含めた銀雪先生の挨拶へ、碧生は曖昧にうなずき、こう返す。
「おはようございます、銀雪先生。まあまあ……、寝られました。おかげで、頭ははっきりしてます」
先生はホッとしたように軽く笑む。
「そう、寝られたんなら良かったワ。棕櫚くんはさっき、おとうさんと一緒に来たけどすごい顔色してやってん。一睡も出来へんかったらしいワ。あんまりげっそりしてやるから、野崎さんのお家で横にならしてもらってるのん」
ああ、そうかもしれないなと碧生は思う。
一応は、自分の中であれこれ折り合いをつけ、この神事に臨むと決めたものの。
忘れている、つまりは忘れたいであろう過去の記憶を、ヤツは今日、嫌でも思い出すことになるのだ。
想像を絶する恐怖だろう、と碧生は思う。
ヤツの気持ちを考えるとやり切れないが、どうやっても碧生に、いや誰にも、ヤツを助けることは出来ないだろう。
本人が立ち向かうしかない。
(……大体。他人の心配してる余裕、ぶっちゃけオレにもないしな)
ナンフウほどではないだろうが、碧生だって怖い。
あの恐ろしい悪夢の主である片角の白鹿と、今日はガチで会うのだから。
「おはようございます。皆さん、早いですね」
黒の紋付袴姿の大楠が現れた。挨拶を交わしているうちに時間になったらしい。
野崎邸の通用口が開いた。松英さんだ。
当然、黒の紋付袴だ。
「おはようございます皆さん。それではオモトノミコトをお迎えするため、正門を開けますね」
野崎邸の正門は、多くの木立に隠されているが、真っ直ぐ泉へ通じている。この門は本来、大いなるもの――オモトノミコトか、それに準ずる存在――が通るため、用意されたのだそう。
もちろんヒトがくぐることも可能だが、その際、決して真ん中は通らない。
鳥居と参道の作法に準じているのだと、この前、碧生は教えてもらった。
碧生はびくびくしながら門をくぐり、出来るだけ端の方へ足を出す。
敷地内の空気は、冷ややかなまでに澄んでいた。
(……ここの植木は。ただの庭木やない。要するに鎮守の森なんや)
不意に彼はそう覚る。
程よく湿った清新な空気を深く吸い込み、碧生は、無意識のうちにすっと背筋を伸ばしていた。
理不尽への怒りや疎ましさが、なくなった訳ではない。
が、それを静かに受け止め、受け入れる……本当の意味での覚悟が、この瞬間、彼の中で定まったのかもしれない。




