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クサのツカサ  作者: かわかみれい
1 守のツカサ〜中学生編
45/50

9 おみず神事Ⅱ③

 ついにおみず神事、当日。

 碧生は朝五時に起床。

 本当はもっと前から目が覚めていたが、目覚まし時計が鳴りだすまで布団の中で横になっていた。


 もっというのなら、緊張のせいで寝つきが悪かった。

 真夜中を過ぎるまで暗闇の中、爛々と目を光らせてそれこれ考え事をしていたが、さすがに疲れたのか、それから次に目が覚める四時過ぎまで記憶がない。

 短時間だがぐっと深く眠り込んだらしい。頭もすっきりしている。



 五時になり、鳴り出した目覚ましのベルを素早く止め、彼は階下へ向かう。

 顔を洗い、歯を磨く。


 初めて神事に臨む場合、場合によると吐くこともあると聞かされているので、朝食をとる気はない。

 それでなくても緊張のせいか、胃が重くて食欲がない。


 ただ、それでは親が納得しない。

 食事をしないまま出かけると母が心配するので、前日の晩におにぎりでも用意してもらい、それをあちらで食べるという説明をして納得してもらう。


「五時起きとか未経験やし、さすがにメシ食える気、せーへんねん。どうせ本格的に神事が始まるまで時間あるみたいやから、その合間にこそっと食えるよう、おにぎりかなんか、前の日に作っといてくれへん?」


 こうして嘘は増えてゆくが、無事に神事が終わったら、用意されたおにぎりはちゃんと食べるつもりである。


「おはよう」


 ちょっと眠そうな顔の母が、洗面所の碧生へ声をかける。

 五時より前に起き出し、おにぎりを作ってくれたのだ。


「シンプルに、塩だけのおにぎりに海苔巻いて、作っといたで。多めに作ってあるから、食べられるんなら、今、食べや」


「あ……うん。ありがとう。でも食べるんは、やっぱりあっち行ってからにするワ」


 前日に作って、当日の朝は寝ていてくれていいと碧生は母へ言ったのだが。

 そういう訳にはいかんやろ、十月は意外と食中毒が起こりやすいんやで、傷んだら怖いやんと彼女は、四時過ぎに起き、炊き立てのご飯でおにぎりを作ってくれた。

 有り難いが、なんだか申し訳ない。

 十分に冷めたおにぎり二個をアルミホイルで包み、いつも使っている小さめの水筒に熱いほうじ茶を詰める。

 それを彼は、静かに通学用リュックの中へ入れた。

 カモフラージュ用に、筆記用具等も当然入れている。

 制服を、常より気を遣ってきちんと身に着けた。


「ほんなら、いってきます」


 五時半にそう言って出かけようとする碧生へ、母は、この辺りで『ちょっといい和菓子屋さん』として知られている店の紙袋を渡す。羊羹か何かの菓子折りが入っているらしい。


「自治会長さんや神主さんらへ、ちゃんとお礼、言うんやで」


「うん。わかってる」


 ……色々、ごめん。

 心の中で手を合わせ、碧生は家を出る。

 まだ薄暗いねんし気ィ付けや、という母の声を背に、碧生は玄関の扉を静かに閉める。


 冴えた明け方の空気が頬に痛い。

 深呼吸をひとつし、碧生は、大股で歩き始める。

 野崎邸まで歩いて十分もかからない。早足なら五分強、というところだろう。

 彼は何気なく空を見上げる。東の空が明るい。

 今日はよく晴れそうだ。



 野崎邸・正門前。

 門前にはすでに、銀雪先生と雪嶺がいた。

 銀雪先生は黒留袖、雪嶺は渋めの紫が印象的な振袖、髪は初対面の時のように銀色のバレッタでまとめている。

 むき出しになった彼女の細くて白い首が、妙になまめかしい気がして、碧生は軽く目をそらす。


「おはよう、碧生くん。昨夜はちゃんと寝られた?」


 気遣いを含めた銀雪先生の挨拶へ、碧生は曖昧にうなずき、こう返す。


「おはようございます、銀雪先生。まあまあ……、寝られました。おかげで、頭ははっきりしてます」


 先生はホッとしたように軽く笑む。


「そう、寝られたんなら良かったワ。棕櫚くんはさっき、おとうさんと一緒に来たけどすごい顔色してやってん。一睡も出来へんかったらしいワ。あんまりげっそりしてやるから、野崎さんのお家で横にならしてもらってるのん」


 ああ、そうかもしれないなと碧生は思う。

 一応は、自分の中であれこれ折り合いをつけ、この神事に臨むと決めたものの。

 忘れている、つまりは忘れたいであろう過去の記憶を、ヤツは今日、嫌でも思い出すことになるのだ。

 想像を絶する恐怖だろう、と碧生は思う。

 ヤツの気持ちを考えるとやり切れないが、どうやっても碧生に、いや誰にも、ヤツを助けることは出来ないだろう。

 本人が立ち向かうしかない。


(……大体。他人(ヒト)の心配してる余裕、ぶっちゃけオレにもないしな)


 ナンフウほどではないだろうが、碧生だって怖い。

 あの恐ろしい悪夢の主である片角の白鹿と、今日はガチで会うのだから。


「おはようございます。皆さん、早いですね」


 黒の紋付袴姿の大楠が現れた。挨拶を交わしているうちに時間になったらしい。

 野崎邸の通用口が開いた。松英さんだ。

 当然、黒の紋付袴だ。


「おはようございます皆さん。それではオモトノミコトをお迎えするため、正門を開けますね」


 野崎邸の正門は、多くの木立に隠されているが、真っ直ぐ泉へ通じている。この門は本来、大いなるもの――オモトノミコトか、それに準ずる存在――が通るため、用意されたのだそう。

 もちろんヒトがくぐることも可能だが、その際、決して真ん中は通らない。

 鳥居と参道の作法に準じているのだと、この前、碧生は教えてもらった。

 碧生はびくびくしながら門をくぐり、出来るだけ端の方へ足を出す。

 敷地内の空気は、冷ややかなまでに澄んでいた。


(……ここの植木は。ただの庭木やない。要するに鎮守の森なんや)


 不意に彼はそう覚る。

 程よく湿った清新な空気を深く吸い込み、碧生は、無意識のうちにすっと背筋を伸ばしていた。 

 理不尽への怒りや疎ましさが、なくなった訳ではない。

 が、それを静かに受け止め、受け入れる……本当の意味での覚悟が、この瞬間、彼の中で定まったのかもしれない。

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