7 明鏡止水と四面楚歌⑤
銀雪先生は三枚の『明鏡止水』を、畳の上にそっと広げる。
濃い目の墨色で書かれた、鋭い筆致の楷書の文字。
少し離れて見ていた銀雪先生の目に刹那、『野崎雪枝さん』のものでも『お習字の先生』のものでもない、今まで碧生が見たことのない光がかすめる。
「……なるほど」
ややあって先生はそうつぶやき、顔を上げて碧生を見た。
柔らかく口角が上がっているが、目は笑っていない。
額に冷や汗がにじむ、そんな気分で碧生は先生の視線を受けた。
「脱皮しかけてる、そんな字ィですね。十把ひとからげの、ぬぼっとした自称アイドルくんみたいな字ィやなくなってきてます。心情の変化が、いいにせよ悪いにせよキミが書く字の成長を促した、そういうことやと思います。……何が幸いするかわからんってことかしらん」
最後の一言は独りごとのようにそうつぶやき、彼女は真顔になって碧生にこう訊いた。
「碧生くん自身は、自分の書いたもんをどう思ってるのん?」
「え、ええと……」
何故か妙に乾く唇を軽くなめ、碧生は答えた。
「あの。コレ、書いてる時はすごく気持ちよく書けたんです。で、出来上がって……悪くない、とは思いましたけど。ナンかこう、やった書けたぞ!みたいな、スキッとした気分になれなかったんです……」
瞬間的にニヤ、と、意地悪そうに先生は笑った。
「安心しました」
「はい?」
思いがけないことを言われ、碧生は目をぱちくりさせる。
「これでエエ、メッチャいい感じに書けた、そう言われたらまずいなと思ってたんです。そりゃ『中学二年生の子供が書くにしては』ずば抜けてるでしょうけど。キミの限界はこの程度やない、私はそう見ましたし……本人の自覚もそうみたいや」
「へ? ええっと……」
「これは……端的に言うたら『明鏡止水』やないです」
「は?」
さらに思いがけないことを言われ、碧生は困惑を深める。
「書かれている字はもちろん『明鏡止水』ですよ?」
噛んで含める、というような雰囲気で、銀雪先生は静かに言葉を重ねる。
「碧生くん、『明鏡止水』って四字熟語の意味、調べましたか?」
「あ、はい」
碧生はうなずく。
「曇りのない澄んだ鏡とか漣ひとつない水面みたいな、心の平静を乱すものがない静かな……」
思わず碧生は言葉を止めた。
「これは、『明鏡止水』ですか?」
銀雪先生の問い。
「……いえ」
書き上げた頃からもやもやと胸にあった違和感。
最初にこの言葉から碧生が受け取ったものと、碧生が書いた字が『表現』してしまっているもの。
(違う。これは『明鏡止水』というより……)
「あのう、いいですか?」
遠慮がちながら、ナンフウが声を上げる。
「オレ、思うんですけど。結木が本来持ってる長所って、日本刀みたいなってゆーのか、確かにその字はその形が一番きれいやよなみたいな……端正さ、ってゆーの? そんな感じやと思うんです」
銀雪先生はうなずく。
「さすがやね南風さん。その通りやと私も思います」
ナンフウは居心地悪そうに身じろぎしたが、肯定されて安心したのか、言葉を続けた。
「その持ち味が、崩れてるまでは言わんけど。少なくとも『明鏡止水』という題材に、今のこの字は合ってない気がしました。その……、たとえば『風林火山』、とかならまだ……」
あははは、と、いつもの銀雪先生の明るい笑い声が出た。
「ああ、そうかも。あるいは『疾風怒濤』、とか? 殺気とか闘気とかも、研ぎ澄ましたら『明鏡止水』へ至るやろうけど、今はそこまでやないみたいですね、碧生くん」
「は? は、はあ……」
(殺気? 闘気?)
なぜ急に、そんなバトル漫画みたいな単語が出てくるのだと思う反面、これを書きながらしきりに『青蛙の姐さんの喧嘩、買うたる!』と胸でつぶやいていたことを思い出す。
それが、字に出ているのか?
恥ずかしい。
「あの。いいですか?」
小さく手を挙げ、銀子が発言の許可を求めた。
「私、碧生くんの字、ちゃんと見たのん今日が初めてやから、発言権ないかもしれへんけど」
「いいよ、忌憚のない意見を言うたげて。書道では銀ちゃん……雪嶺の方がずっと長いんやし」
銀雪先生の許可が出、ほんなら言わせてもらいますと断り、彼女は碧生を見た。
「『風林火山』とか『疾風怒濤』も、この字の雰囲気っぽいけど。どっちか言うたら私、『四面楚歌』、みたいな気がしました」
「しめん、そか?」
首をかしげる碧生へ、銀子……雅号は雪嶺らしい彼女はうなずく。
「自分の周りは敵ばっかり、みたいな、絶望的な状況を表す四字熟語やねんけど」
瞬間的にためらい、彼女は続ける。
「なんとなく、そんな気分が見える気がしたんです、私。ナンフウくんの言う日本刀?みたいなきれいな字やのに、そのせっかくの刀を、メチャクチャに振り回してるみたいな……」
ふっと、銀雪先生の表情が消えた。
「……さすがやね。それが一番、この字ィとか作品の印象に、近いかもしれへん」
そして彼女は一瞬、哀しい目で碧生を見た。
「碧生くんの周りは今、敵ばっかり……か。まあ……そう思われてもしゃーないかな。せやけど、楚の国の歌を歌ってる人らが必ずしも、キミの敵とは限らへんよ」
碧生は絶句するしかなかった。




