7 明鏡止水と四面楚歌④
「は? ……なんやねん、二人は昔から面識あったんか?」
ナンフウは一瞬ポカンとした後、しかめ面で言う。
多分、彼が寄り合いで言っていた『おもとの守・やたら知り合いと身内で構成されてて胡散臭い』説?を補強する事実がもうひとつ出てきて、うんざりしたのだろう。
彼女は首を振る。
「ううん、ホンマ言うたら面識ってほどでもないんやけど。彼が小さい頃、多分小1? かな? 今時分の季節で、下校中やったんやない? 野崎さんのお屋敷周りの水路に、間違って落ちてナンギしてやったことがあってん。そこへたまたま私が通りかかって、引っ張り上げたことがあるのん」
「うへえぇ、ダッサ。鈍くさいやっちゃなぁ。お前、よそ見でもして歩いとったんか?」
ズケズケ言うナンフウへ、碧生はムッとしてにらみつけながら
「別に、そーゆー訳やなくて。水路に落し物しそうになったっちゅうか、それで慌ててしもてつい足滑らせたっちゅうか……」
と、ぼそぼそ言い訳した。
「まあ、どっちにしても鈍くさいやん」
切って捨てるようにナンフウに決めつけられ、碧生はむぐぐと歯噛みする。
腹は立つが、鈍くさくないと言い切る根拠がない。
「そんなん言わんときィ、ナンフウくん。今のキミらやったら大したことないやろうけど、6~7歳の子ォにしたらあの水路、深いと思うよ。あそこも今より水量あったし底は苔でぬるぬるしてるし、足許悪いからランドセル背負った状態で這い上がるんは難しいと思うで。怖かったと思うワ、なあ碧生くん」
気の毒そうな顔で彼女にかばわれ、碧生は、情けなく苦笑いをするしかなかった。
(……オレ。完全にガキ扱いやよなあ。まあ初対面がアレやから、当然やけど)
あの日。
小1の碧生はちょっとした事情があって、間違って水路へ、頭からずり落ちた。
全身ずぶぬれに近い状態だったし、肘はかなり大きくすりむくし、慌てて立ち上がったら苔のせいで転びかけるしで、ほとんどパニック状態だった。
水路の深さは当時の碧生の胸近くまであったせいで、なかなかよじ登れなかった。冷えた身体で水のにおいや湿った苔のにおいを嗅いでいるのが、なんだか妙に怖かった記憶がある。
泣くつもりなんかなかったのに、勝手に涙がぽろぽろ出てきた。
その時だ、濃い木犀の花の香りと一緒に、髪の長いお姉さんが駆け寄ってきてくれたのは。
『大丈夫? 引っ張ったげるから手ェ出して!』
(……うん。メッチャ鈍くさい、メッチャどーしよーもないアホガキやな)
今までとは違う意味で、碧生はドーンと落ち込んだ。
奥には、お茶を用意している銀雪先生がいた。
今日はさすがに、あの時のような改まった装いではなく、いつもの銀雪先生に近い服装だった。
先生と目が合うと、ナンフウは頭を下げる。
「こんにちは。波多野の養父から今日、自治会の集まりの方が抜けられへんからこちらには来られません、申し訳ないですと言伝を頼まれました」
(は、はたのの、ちちィ!)
ナンフウがあまりにもまともな言葉遣いをするので、碧生は本気で驚いた。
コイツは、父親を指す時は『親父』以外ボキャブラリーがないような気がしていたのだ、なんとなく。
いやまあ、もちろんヤツだって尊敬語や謙譲語を知っているだろうが(腐っても連翹大附属中へ行けるアタマだし)、それをスラッと口に出せるとは思わなかったのだ。
驚いて目をむいている碧生へナンフウは、ややきまり悪そうに口許をゆがめた。
「なんやねん、結木。オレかってちょっとは、TPOってのをわきまえてるぞ。今日は……寄り合いTake2なんやろ? いつもみたいに『親父』っちゅう訳にはいかんやん?」
(いやいやいや、この間はお前、オトンオトン言いまくってたやん……)
思う反面、ふっと、碧生は切なくなる。
ナンフウはナンフウなりに自分の出自と向き合う決意をし、その気持ちが、この少し距離のある言葉遣いになっている、のだ。
さすがに、なんとなくわかる。
その辺の機微は、銀雪先生もなんとなく察しているのだろう。
瞬間的に、ちょっと困ったような哀しいような、複雑な表情を閃かせた後、軽く笑んだ。
「わかりました。さすがに再来週には秋祭やし、地域の男性は日曜日、どうしても手ェ取られてしまいますねえ。大楠さんも祭関連の用があって手が離せんって連絡ありましたし。今日は、我々だけで始めましょ」
『ボクらも居るで!』
『居る居る!』
いつの間にか部屋の、座布団を積み上げている上にちょこんと、二匹の猫が香箱座りで耳をぴくぴくさせている。
「へ、どうせ居るだけやのに。あいつら牢名主か」
小さな声でぶつぶつと、ナンフウが不思議な言葉をつぶやいた。
これは後で知ったのだが、ナンフウは、恵月先生の影響でこの年齢の子供とも思えないくらい、時代劇をよく見ていた。
彼のボキャブラリーが独特だったり偏っていたりするのは、どうもこの辺りが原因らしいと、数年後に碧生は知ることになる。
本格的に『寄り合い』が始まる前、碧生は書いてきた『明鏡止水』を銀雪先生へ提出した。
「銀雪先生。ボク、特別枠のチャレンジ、続けます」
言うと、背筋がスッと伸びる気がした。
「『おもとの守』のこと。まだまだわからへんことばっかりですけど。せやけど『おもとの守』になろうがなるまいが、ボクの日常は続く、ンですよね?」
銀雪先生は力強くうなずく。
「碧生くんの言う通りや。『おもとの守』は名誉ある役職やけど、別にお金が発生する訳でもなんでもないからね。勉強や生業は今まで通り、自分でやるしかないねん。そこのところをこんなに早く理解してくれて、私としては嬉しいですね」
見せてもらいましょ、と彼女は言い、折りたたまれた画仙紙の作品を広げた。




