7 明鏡止水と四面楚歌③
翌日・日曜日。
午後十二時半頃、碧生は、『野崎銀雪書道教室』へと向かう。
昨日の雨のおかげなのか、空気が気持ちよく澄んでいる。
秋がまたひとつ、深まったらしい。
書道の道具は持っている。
今日は書道教室の銀雪先生ではなく、おもとの守のツカサ代である野崎雪枝さんから、おもとの守についてのもっと詳しい話を聞く予定ではあるが。
親の手前、そして碧生自身の決意表明の為、書道の道具と昨日書いた『明鏡止水』を三枚、持ってきている。
昨日、自室で夢中になって書いていた時は、とにかく楽しいというか高揚していた。
筆がこんなに軽快に動いたことなど、過去になかったと言えるくらいに。
しかし、ふと集中が切れ、己れが書いた作品たちを見てみると。
何とも言えない違和感が兆した。
悪くはない。
いつもみたいな……、なんというか、どこか制限があるというのかいい子ちゃんぽいというのか、そんなにおいがするものとは違う、独特の雰囲気が字からにじんでいる。
『中身のない顔だけアイドル』から、『セリフになんとか感情を乗せられる、初心者の役者』くらいにはなったかもしれない。
(顔だけアイドルよりは、印象に残りそうな字やけど……)
でも何だろう、この違和感。
碧生は顔をしかめ、しばらく自作を見ていた。
悪くはない。でも……何かが違う。
何が違うのか?
靄の向こうに答えがあるような感じで、見えそうで見えない『何か』に碧生は軽く苛立つ。
(……とりあえず。一回、銀雪先生に見てもらおう)
作品が完全に乾いた頃、碧生はそう決めて、自分の中で上手く書けたと思えるものを三枚、選んだ。
野崎邸を囲む水路が見えてきた。
『ユーキ、ユーキ!』
『こら。まずはこんにちは、からやろ』
声と同時に毛玉がふたつ、碧生の足許へ転がってきた。
(……おおう)
サキモリたちだ。
この前、彼らには泣き顔を見られたので、正直ちょっときまりが悪い。
足許で行儀よく立ち止まった乙彦が、にゃ、と、嬉しそうに短く鳴いた。
『ユーキ、元気になったんやな。ボクら、ちょっと心配しててんで』
『そうや、だってフジョーになりかけ……ああ、いや、つまり。あん時、アブナイ状態やったからな』
兄彦は何かを言いかけ、慌てて当たり障りのない言葉へ変えた、ようだ。
(……フジョー?)
碧生は内心首ををひねるが、当てはまる言葉が浮かばなかった。
「おう、にゃんこ兄弟に絡まれとるんか? 結木」
曲がり角からナンフウが現れ、そんなことを言った。
『にゃんこ兄弟違う! ボクらはサキモリや!』
憤然と苦情を言う兄彦を無造作に抱き上げ、あーわかったわかったと言いながらナンフウは、雑に見えるが優しい手つきで兄彦を撫ぜる。
『ボクもボクも! ボクも抱っこ!』
へいへい、と面倒くさそうに答えると、ナンフウは乙彦も抱き上げた。
ヤツは、初日に見た焦げ茶のカモフラの上下に深緑の厚手のロンTを合わせていた。
コイツもコイツなりに、心が整理できたというのか覚悟が決まったというのか、そんな顔をしている。
少なくとも、猫を抱き上げて微笑むくらいの余裕は出てきたのだろう。
碧生が提げているトートバッグに書道の道具が入っているのを認めると、ナンフウは顔をしかめた。
「なんや。お前、書道の道具わざわざ持ってきたんか? ごくろーさんなこっちゃな」
ごにょごにょ動く猫の兄弟を胸で押さえつけるように抱き、ややあきれたようにそう言うナンフウへ、碧生は、苦く笑って答える。
「……まあな」
猫を抱いたままのナンフウと一緒に、碧生は銀雪先生の家へ向かう。
失礼します、と玄関の扉を開け、声をかけると、奥から小さな足音が響いてきた。
「いらっしゃい」
そう言って出迎えてくれたのは銀雪先生ではなかった。
グレーのスウェット地の、首の周りと裾に赤で、蔦を思わせるアラベスク模様がさらっと刺繍されたチュニックに、黒のストレートのデニムパンツ。
あの日の寄り合いで犀木銀子と名乗った娘さんだったのだが、碧生は一瞬、息を止めた。
(あの時の、お姉さん!)
今日、彼女は長い髪をストンとそのままおろしている。
カジュアルな服装と、おろした長い黒髪。
薄れ始めている記憶の中の彼女と、目の前の彼女が完全に一致した!
「……おい。結木?」
猫たちをおろし、靴を脱いで上がろうとしていたナンフウが、棒立ちで硬直している碧生へ、怪訝な顔を向ける。
うふふ、と彼女は、いたずらが成功したような笑みを浮かべた。
「やっと思い出してくれたんやね、碧生くん。お久しぶり。私には、水路に落ちて泣いてた小さい頃の印象しかないけど……、大きなったねえ」
碧生は絶句しているしかなかった。




