7 明鏡止水と四面楚歌②
土曜日・午後。
碧生は今、自室で書道の道具を広げ、ゆっくり墨をすっている。
両親は仕事でいない。
母は、ここ最近体調が良くない碧生の様子を気にしていたが、碧生から強めに言って仕事に出てもらった。
母の職場は今の時期からしばらくが繁忙期、猫の手も借りたい忙しさなのを、碧生も日常会話の端々から察しているし……独りで静かに過ごしたい、碧生の気分からも母には仕事へ行っててもらいたいのが本音だった。
朝、両親が仕事に出た後。
碧生は自室で、布団の中で横になり、ぼんやり天井を見ていた。
久しぶりに降る雨の音を聞きながら、ぼんやり天井を見ていた。
昨日、あれからすぐ帰った。
ナンフウは、図書室へ来た時より幾分、顔色や表情が良くなっていた。
胸にあったものを吐き出し、ちょっと落ち着いたのだろう。
碧生も少し気が楽になっていた。
ナンフウの抱えている事情の重さ・思いがけなさに心底びっくりしたせいで、自分だけが理不尽を抱えているような悲愴が薄まった、のだろう。
(薄まったからって、別に消えはせえへんけどな……)
それとこれとは別の話だ。
(そりゃ……親子にしてはあの二人、年齢が離れすぎてるなぁって最初に会うた時から思ってたけど……)
雨音を聞きながら天井を見ながら、碧生は更に思う。
この二人、親子にしてはあまり顔が似てないな、とも感じていたことを。
恵月先生は着物姿も板についた、粋な洒落者という感じの人だが、容貌はごく普通だ。少なくともナンフウの、やや日本人離れしたイケメンぶりとは系統が違う顔立ちだろう。
しかし、多分ナンフウのお母さんが、こういう系統の目を引く南国風美人で、ひょっとすると恵月先生よりかなり年下ではないのかなとぼんやり思ってもいた。
先生の結婚がかなり遅く、ナンフウは彼が五十歳くらいの時の子、だとか、そんな事情があるのではないか、と。
この前、家へお邪魔した時、恵月先生が『この家には女手がない』と言っていた(実際、どこをどうとは上手く言えないが、室内に繊細な女手を感じなかったし)から、ナンフウのお母さんは離婚して家を出て行ったか、もしかすると亡くなったのかなとも、うっすら思っていた。
それだけでも十分、重いというか訳アリな家庭だと思っていた。
が、まさかここまで重い話が隠れていたとは……。
ひとつ大きく息を吐き、碧生は軽く目を閉じて寝返りを打った。
(……せやけど)
確かに自分は、ヤツほど重い事情を抱えている訳ではないが。
今回の理不尽への苛立ちや腹立たしさは、この話を聞く前も後も変わらない。
ただ、胸の中で悶々と独り悩み、泣いたり苛立ったりし続けているのにそろそろ嫌気が差してきているのも事実だ。
(……よっしゃ。売られた喧嘩は買うたる)
不意に碧生は思う。
何かが自分の中で、カチリと音を立てて変わった、ような気がした。
(ホンマ言うたら喧嘩みたいなん、しィたないのは山々やけどな、やっぱおっかないし。せやけど、青蛙の姐さんが顔かせっちゅうんやったら。……泉の前やろうが体育館裏やろうが、行ったろーやないかい)
ナンフウの言葉に影響されているのはわかっているが、そう解釈しなおしてみると、なんだが闘志がわいてくる。
そうだ、遅かれ早かれアチラの『呼び出し』に応じなければならないのなら。
仮にボコボコにされる?にせよ、呼び出した相手の前へちゃんと出て、機会があれば一発くらい、殴り返してやろう。
少なくとも、アンタのやり口はあまりにも理不尽だくらいの苦情なら、言う機会もあるだろう。
もちろん苦情を言ったところで無視されるだろうが、一方的に殴られるままなのもムカつく、いくら相手が神様だったとしても。
(……昼飯食うたら、久しぶりに真面目に『明鏡止水』、書こうかな)
せっかくの特別枠への出品権を、こんなことで諦めてたまるか!
昼食後、碧生は、『青蛙の姐さんの喧嘩、買うたるで! かかってこいや!』的な、ある意味物騒なことをぐるぐる考えながら、闘志を込めて墨をすっていたせいか。
この前よりも早く、墨色が好みの濃さになっていた。
墨液を筆に含ませ、彼は画仙紙へ筆を走らせる。
『明鏡止水』
……と。




